学校終わりに翔太とひかりがお見舞いに来てくれた。まだ極力動くなと言われているのでベッドから起きることもできず、不要な心配をかけていることがとても情けなかった。しばらく家に帰ることができないと謝ったらひかりが「当たり前じゃん。むしろ帰ってきたら怒るし」とけらけら笑う。ひかりはマイペースだけど誰にでもすぐに懐く明るい子で、学校でも友達が多い。勉強は苦手だけど責任感があってなんだかんだしっかりしている。それに、子どもの頃からしっかり者の翔太もいる。大丈夫そう、かな。無理していないだろうか。本当は嫌なのに我慢していないだろうか。不安に思いつつもどうしようもできなくて歯がゆかった。
 二人が帰った後に来てくれたのは、交通誘導のアルバイト先である現場の人だった。わたしが意識を失ってすぐに適切な手当をしてくれたと聞いている。思わず起き上がろうとしたら「馬鹿野郎、絶対安静なんだろうが!」と怖い顔で言われてしまった。恐る恐るベッドに戻ると「それでいい」と、ちょっと不器用な笑顔を見せてくれた。
 その人はまず現場での交通整理が行き届いていなかったことの謝罪と、本来頼まなくていいことを現場の人間が頼んだことへの謝罪をしてきた。何とも思っていないことだったからただただ恐縮してしまう。「誰のせいでもないですから」と慌てて言ったら、その人が小さく笑った。それから優しい目をして「さん、この仕事もう辞めな」と言った。クビ、ということだろうか。そう唇を噛んでしまうとその人は「そうじゃねえ」と苦笑いをこぼす。

「弟さんと妹さんのことは知ってるけどさ、さんみたいな若くてしっかりした嬢ちゃんは、もっと違う道で幸せになったほうがいいと俺は思うよ」

 いつも疲れた顔をしていたから、とその人は言った。そんな自覚はない。けれど、そう言われても不思議ではない。帰ったら玄関で寝てしまうほど毎日疲れていたから。どれだけ取り繕っても表情に出ていたのかもしれない。なんだか気を遣わせていたのなら申し訳ない。そう謝ったら「そういうところがさんのかわいくねえところだな」と言った。

「幸せになれよ、さん」

 そう言って、その人はサイドテーブルに「これ、ちょっとだけど」と言って封筒を置いた。慌てて起き上がろうとしたら「起きるんじゃねえ」と凄まれて動けなくなる。受け取れません、とどんなに言っても、その人は「頑張ってくれたんだから当たり前だろ」と聞いてくれなかった。
 もっと違う道で幸せになったほうがいい。その人が言った言葉を頭で繰り返して、考え込んでしまう。他にどんな道があるというのだろうか。わたしにはとんと思い浮かばない。正社員で働いたほうがいいとかそういうことだろうか。それとも単純に職種のことを言ったのだろうか。よく分からなかったけど、わたしにもまだ何か別の選択肢があるのかもしれない。そう思えた。
 ぼけっとしているとドアがノックされる。返事をしてすぐに開いたドアの向こうには白布がいた。白衣を着ていない。完全に私服だった。「仕事は?」と聞いたら「今日は休み」と返答があった。休みまで職場に来るなんて熱心な人だ。きっと今も人に頼りにされているのだろう。
 白布はベッドの横に置いてある椅子に腰を下ろす。それから「答えたくなければ答えなくていい」と突然言った。何の質問をしてくるつもりだろうか。ちょっと身構えていると、「今彼氏とかいんの」と聞かれて、ガクッと拍子抜けしてしまった。

「いや……いないけど……?」
「好きなやつは?」
「いない……何? 何の質問?」
「恋愛をしたくないとか彼氏を作りたくないみたいな感じか?」
「別に違うけど……?」
「相手に求める最低条件は?」
「あの、白布? これ何の話?」
「最低条件はなんだって聞いてんだよ」
「……ふ、普通に、働いてる人……かな……?」

 白布はわたしの答えに「ふーん」と相槌を打ってから、少し視線を下に向けた。何かを考えている、というよりは言葉を探している感じだ。しばらくそんな様子の白布を見ていたら、ようやく白布が顔を上げる。わたしをまっすぐに見ると迷うことなく口を開いた。

「俺と結婚しないか」
「…………へ?」
「大したことはないけど一応貯金はしてるし、まあ将来的にはそこそこ稼ぐと思う。それまではも多少働けばなんとかなると思うんだけど」
「……ちょ、ちょっと待って、あの……え?」
「総合的に見て悪い話じゃないだろ」

 どうなんだよ、とまっすぐな瞳で言われた。そんなことを言われても、困る。確かに悪い話ではない。それどころかとても有難い話だ。給料がどうとかそういうことじゃなくて、一人じゃなくて二人になるだけで全然違う。とても、とても良い話だ。けれど、それはわたしにとっての話。白布にとっては何一つ良いことはない。普通に出会った同世代の女の子と結婚するのとは訳が違う。二十代にして高校生と中学生を養っているわたしなんかと結婚しても、何のメリットもない。それくらい賢いのだから分かるはずなのに。

「白布にとっては、全く良い話じゃない、と思うんだけど……」
「そうでもないけど」
「なんで? だって、養う人間ができるだけでしょ?」
「お前と結婚できる」
「……は?」
「それが俺にとってのメリットだろ」

 固まってしまう。そんなの、何のメリットになるというのだろうか。びっくりしているわたしに白布が「それだけで俺は十分なんだけど」と言った。
 確かに白布は、高校時代にわたしに告白をしてくれた。好きになってくれた。でも、そんなのもう九年も前の話だ。白布もわたしもまだ十七歳で子どもだった。九年も時間が経っているのだからそんな告白はもう、過去のものでしかない。白布は大学や職場で他にたくさん女の子と出会っただろうし、彼女だってできたことがあるだろう。それなのに、どうして、わたしと結婚することをメリットだと言えるのか。人が良すぎる。そんな一言では片付けられないほどの衝撃だった。

「自分の人生のことはちゃんと考えたほうがいいよ。そんなドブに捨てるようなこと、しちゃだめだよ」
「その言い方はないだろ。お前の人生がドブだって言いたいのか? 弟と妹が泣くぞ」
「……翔太とひかりは関係ない」
「お前と結婚したいって言ってるんだから家族も関係あるだろ」

 白布はいつでも冷静で、いつでも最良な選択ができる人だと思っていた。偏ることもあまりなく、間違えることもあまりなく。それなのに。まだ混乱しているわたしを追撃するように白布が「そんな難しいことじゃないんだけど」とため息を吐く。ため息を吐きたいのはこっちだ。元同級生が自ら茨の道に行こうとするのを止めて何が悪い。

「俺はお前が欲しいし、お前は金がほしい。お互い利用し合えばいいだろ。誰が不幸になる?」
「……誰って、白布が将来的に不幸になると思うけど」
「そう簡単に不幸になるほど軽い気持ちで言ってねえよ。だから、お前は俺の気持ちを利用すればいい」

 白布はそれから「ああ、言っとくけど」と言ってわたしを睨むように見つめて言った。たとえ結婚したとしても、心をくれとか体をくれとかそういうつもりはない、と。ますます訳が分からなくなる。はじめて勤めた会社の社長のことを思い出した。お金をあげる代わりにキスをしろ、セックスをしろ、と言ってきた。それは対価としておかしくないと個人的には思った。ない話じゃないし、男の人はそういうものをお金を払ってでも手に入れたいのだと納得もした。それなのに、白布はそれさえいらないと言う。それなら、わたしと結婚する意味が分からない。お金だけ出そうとしているようなものだ。白布の家族が聞いたら結婚詐欺だと大反対されるような話だ。それなのに、なんで白布はこんなにも、堂々としているのか。自分からネギを背負って鍋に突っ込んでいるような状況なのに。

「明後日の昼、返事を聞きに来る。それまでに考えといて」
「……か、考える、って」
「気持ちを利用するのは良くない≠ニか思うタイプだろうから先に言っとくけど、間違っても優しいとか勘違いすんなよ。弱ってるところに付け入ってるだけ。卑怯な手を使ってお前を取り込もうとしてるだけだからな」

 足を組んで頬杖をついた。咳払いをしてから視線を少しそらす。なんとなく気まずそうな顔をしているように見えた。白布はどうしてこんなことを言い出したのだろうか。もし、仮にまだわたしを好きでいてくれたとして、白布ならまずはお付き合いからと言うタイプだと思っていた。それだけに、意味が分からなさすぎて照れるとかドキドキするとか、そういうことは全くなくて。困惑してただただ固まるしかできなかった。
 白布の言うことは、正しいか正しくないかで言えば、正しい。極論だけれど、白布と結婚すればわたしは今の生活より幾分か楽になるだろう。精神的にも、わたしが倒れても白布がいる、と思えて楽になると思う。白布が言うように総合的に見て悪い話じゃない≠ニいうのは正しい。けれど、正しすぎて正しくない。そんなふうに思ってしまった。
 コンコン、とドアがノックされる音。びっくりして返事をする声が上擦ってしまう。白布がぽつりと「もうそんな時間か」と呟いて腕時計を見た。開いたドアの向こうにはいつも体温や血圧を測ってくれる看護師さんがいた。挨拶をしてくれながらこちらに視線を向けると「あれっ、白布くんだ」とびっくりしている。白布が小さく頭を下げて「お疲れ様です」と言うと「今日休みでしょ? 何してるの?」と笑われている。どうやら先輩らしい。「高校の同級生なんで、お見舞いです」と言ったら看護師さんは納得していた。いつものように検温をして、血圧を測ってもらう。白布がじっとその様子を見ているものだから看護師さんが「先生〜怖いんですけど〜」と苦笑いをこぼしている。白布の視線ってなんか怖いんだよね。高校のときもそうだったそれは今も健在らしい。
 看護師さんが「まだ低いですね〜」と言って器具を片付け始める。あまりよく分からないけどどうやら低血圧らしい。看護師さんが「目眩や頭痛はないですか」と聞いてくる。ここで何かあると言ったら入院が長引くかもしれない。そう思って「特にないです」と言ったら「嘘を吐くな」と白布がため息交じりに言った。

「う、嘘じゃないよ」
「嘘を吐くとき、瞬きが異様に多くなる」
「たまたまじゃないかな……?」
「たまたまじゃない。高校のときから変わってない」
「そ、そう、ですか」

 看護師さんが「それでは正直にどうぞ」と笑顔で言ってくるので誤魔化せなくて。ベッドから起き上がるときにちょっと目眩がすることがある、と伝えたら「はい、分かりました」としっかりカルテに書かれてしまった。白布はため息をついて組んでいた足を直す。立ち上がると先輩の看護師さんに「帰ります。お疲れ様です」と言うと看護師さんが「は〜いお疲れ様です」とにこやかに返していた。それからわたしに向き直ると、一つ呼吸をした。

「さっきのこと、考えとけよ」
「う、あ、はい……」
「あと、とりあえず今は動くな、絶対安静。いいな?」
「は、はい」

 わたしの返事を聞いてから「じゃ」と言って歩いて行く。静かにドアを開けると、病室から出て行った。


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