二〇二一年、十一月。大事件が起こった。その事件が起こったとき、わたしは一瞬にして気を失ったらしい。気付いたときには目の前に真っ白な天井しか見えなくて、わたしの顔を覗き込む見知らぬ男性が「お名前言えますか?」と神妙な顔で聞いてきていた。自分の名前を答えると、生年月日と住所も聞かれる。当然のように答えれば、その人はほっとした顔をしていた。
 夜間工事現場でのアルバイト中のことだった。交通量がかなり少ない時間帯に現場の人に「ちょっとだけ手伝って」と声をかけられた。現場で出たゴミを動かしたいから二袋だけ持ってきてほしい、と頼んできたのだ。それくらいお安い御用。ゴミを受け取って、いつも現場の皆さんがゴミを集めているところまで歩いて行く。その途中、現場監督の「危ない!」という怒鳴り声のような大きな声が響いた、わずか数秒後、ドンッ、と体中に衝撃が走った。通行止めにしてある区域まで侵入してきた車がいたのだ。わたしはその車に轢かれ、その場で意識を失って救急車で病院に運ばれたと聞いた。
 なんだか、体がひどく重い。そんなに重傷だったのかと不思議に思っていると、病院の先生らしい男性が「三日間も寝ていたんですよ」と言った。びっくりして飛び上がりそうになったわたしを看護師さんがしっかり押さえてくれていた。体のあちこちが痛い。聞けば、骨折こそしていなかったけれど、右足首がパンパンに腫れるほどの捻挫をしているという。頭も打っているし、体のあちこちにも痣があるそうだ。
 それだけじゃなくて貧血やら体重のことやら、いろんなことをお医者さんに指摘された。最後に「これまでどんな生活を送っていたんですか」と言われて、黙り込んでしまう。わたしは身長に対して体重が痩せすぎと言われるほどまで痩せていた。そんなことさえ、わたしは、気にする余裕がなかった。ご飯も食べてはいたけれど、なんだか食欲がなくて量がどんどん少なくなっていったし、睡眠ももう数年間三時間未満の生活が続いていた。淡々とお医者さんからのお説教に近い話を聞き、どうにか話が終わってから「何か聞きたいことはありますか」と言われた。恐る恐る「あの」とかすれた声で言う。

「いつ退院できますか。仕事があるので、あの、早く退院したいんですけど……」
「私の話聞いてましたか?」
「聞いていたんですけど……弟と妹も、いるので……」
「弟さんと妹さんは二時間前にいらしていました。入院のことは説明してあります」
「そう、ですか……」
「泣いてましたよ。お二人とも」

 職場の先輩が翔太とひかりを車で病院まで連れてきてくれたそうだ。二人とも眠るわたしを見て、人目もはばからずに泣いたという。わたしの体のことを聞いてからは余計に泣きじゃくっていた、と看護師さんが教えてくれた。こうなる前に仕事を一つでも辞めて欲しかった、と泣く翔太を看護師さんが宥めてくれたそうだ。お医者さんと看護師さんは「絶対安静」とわたしに言ってから、静かに病室から出て行った。
 そうは、言って、も。わたしが働かなきゃ誰が働くの。誰がお金を稼いでくるの。翔太にもひかりにも、わたしが過ごせなかった高校生活を謳歌する三年間を過ごして欲しい、わたしができなかったやりたかったことを思いっきりやって欲しい。それを叶えられるのはわたししかいない。父も母も祖父も祖母もいない。頼れる親戚もいない。生みの母はどこにいるのかも分からない。だから、わたししかいないのに。
 一先ず二週間の入院だと言われてしまった。職場にはもうすでに翔太が連絡してくれていたようで、急いで連絡をしたら「休みなさい」と言われてしまった。このまま、クビになったらどうしよう。わたしの代わりなんていくらでもいる。仕事をまた一から探すなんて考えるだけで頭が痛い。そう俯いてしまう。
 久しぶりに静かな時間の流れを感じる。時計の針がゆっくり動いているように見えて、どうにも落ち着かない。翔太とひかり、ご飯ちゃんと食べたかな。二人だけで大丈夫かな。スマホを手に取って、家に電話をかけようとして、今更思う。翔太はもう高校生だというのに、スマホを欲しがる素振りも見せなかった。ひかりも。普通なら駄々をこねて親に買ってもらうくらいの年頃なのに。きっと周りの友達はほとんどが持っているはずだ。わたしはそんなことさえに気が回らないほど、目の前のことしか考えていなかったのかもしれない。
 二人ともずっとずっと、わたしには言っていないことがたくさんあるだろう。それはきっと、わたしが二人の話を聞けるほど、余裕がなかったから。二人ともそれに気付いていたのだろう。だから、文句も我が儘も言わずにいるのだ。全身から力が抜けた。わたしは、結局、二人を不幸にしているのではないだろうか。そう、ぼんやり、後悔した。
 コンコン、と静かなノックの音。間抜けな声で返事をするとドアがゆっくり開く。そちらへ顔を向けると、呼吸が止まったかと思うほど驚いた。「久しぶり」と複雑そうな顔をしてこちらに近付いてくる、白衣を着た白布がいたのだ。

「…………」
「おい、なんとか言えよ」
「……ご、ごめん、びっくりしすぎて」
「それ、俺の台詞なんだけど」

 白布はベッドのそばに置かれている椅子に腰を下ろすと「大怪我すぎだろ」と言ってため息を吐いた。いや、それよりも、なんでここにいるのだろうか。しかも白衣を着て。わたしが恐る恐るそう聞くと「ここで研修してるから」と当たり前のような返事があった。白布は高校卒業後は医学部に進学したのだという。去年からこの大学病院で研修医として働いていると淡々と説明してくれた。
 喋り方が高校時代から変わっていない。ちょっと大人っぽくはなったけれど。なんだかそれが懐かしくて、思わず笑ってしまった。白布はそんなわたしをじっと見て「なんでそんな痩せてんだよ」と聞いてきた。

「まあ、ちょっといろいろ。仕事が忙しくて疎かになっちゃったのかな」
「今何の仕事してんだよ。救急車で運ばれて来たとき、なんか工事現場がどうのって聞こえてきたけど」
「工事現場の交通誘導してたの。それが仕事の一つなんだけどね」
「……は? どういう意味?」
「あと新聞配達とスーパーのレジ打ちしてるよ」

 白布はしばらく固まってから、なぜだか視線を上から下まで動かしてわたしをじっと見つめ続けた。もう白布にとっては苦い思い出だろうし、今は何とも思っていないだろうけど、一応好きだと言ってくれた人に見窄らしい姿を見られるのは少しだけ恥ずかしい。しかも、わたしが思っていた何十倍も立派な人になっているし。自分のこと自体が恥ずかしくなるほどだった。
 白布は表情を変えないまま「いつから」と言った。いつからそういうふうに仕事をしているのか、という意味だと捉えた。仕事の掛け持ちをするようになったのは二十歳からだから今年で六年目か。そんなふうに思い出しながら呟く。六年。長かったようで短い期間だったな。そんなふうに一人で思った。

「一般企業で正社員として働くって選択肢もあっただろ。なんで掛け持ちにしたんだよ」
「そうしてた時期もあったけど……どうしても時間がもったいなくて。翔太とひかり……あ、弟と妹ね。二人にはちゃんと学校生活を送らせてあげたいし、できれば大学にも行けるようにしたくて」

 情けない。病院勤めをしている立派な人に聞かれるのは本当に恥ずかしくて仕方なかった。白布は黙ってわたしの話を聞いて、瞬きもせずにじっと顔を見ている。それは様子を窺われているのとよく分かるもので、本当にお医者さんなんだなあと勝手に実感してしまう。
 話に区切りを付けてから、恐る恐る「これって重傷なのかな」と聞いてみる。二週間も仕事を休んだら迷惑をかけてしまうし、翔太とひかりのこともある。ひどいとはいえ捻挫だし、せめて一週間くらいならなんとかなるかもしれないとかすかに期待しているのだ。白布は「重傷だ。大人しくしてろ」ときっぱり言い切った。だめかあ。がっくり項垂れると、ため息を吐かれた。

「仕事が仕事が、家族が家族が、って。自分のことも少しは考えろよ」

 ぽつりと呟いたようなその言葉に、呼吸が止まった。
 本当は、高校を卒業したかった。部活も最後までいたかった。でも、祖母の介護とまだ幼かった翔太たちのことがあって、自分の意見を通せる状況じゃなかった。就職してからも、本当だったらすぐに仕事を辞めたいと思う瞬間もあったけど、わたしが働かなくちゃ誰がお金を稼いでくるの。お金がなくちゃ生活できない。我慢ばかりさせられて可哀想な翔太とひかりがもっと可哀想になってしまう。わたしがやらなくちゃ、誰がやってくれるっていうの。わたし以外にわたしたちを救ってくれる人なんかいない。父親も母親もいなくなって、祖父も祖母もいなくなった。親戚の人なんてあまりにも遠い縁すぎて頼る選択肢にも入らなかった。そんな状況を、わたし以外の誰が、変えてくれるっていうの。
 白布はわたしの人生を知らない。だからそんなことを言えるのだ。両親がいて、お金があって、人生の選択肢がたくさんあって。とても立派に舗装されたまっすぐな道を歩んでいる。わたしが知らないところでたくさんの苦労があっただろうとは思う。そうだとしても、まっすぐ歩いて行ける道を選べる選択肢が当たり前のようにあったに違いない。まっすぐな道の横に広がる、ぐねぐねとした道を歩くわたしとは違う。違いすぎるだから、わたしのことを理解できないのだ。
 二人目の母親が亡くなったときも、父親が亡くなったときも、祖父が亡くなったときも、祖母が亡くなったときも、ただの一度も泣かなかった。泣いてはいけないと思った。振り返ればわたしよりずいぶん幼い翔太とひかりがいるから。わたしがしっかりしなくては、と大切な人がいなくなっていく中で思った。泣いてはいけない。泣いている暇はないから。そうずっと、唇を噛みしめて生きてきた。
 ふと、幼い頃の記憶を思い出すことがあった。もうどこにいるのか、生きているのかさえ分からない生みの母親との記憶。泣いて両腕を広げて駆け寄れば、うんざりしつつも抱きしめてくれた。母親の勤めだから仕方がない、という様子で。それでもいい。それでいいから、駆け寄りたかった。もう会うことの叶わない人だ。思うだけ無駄だ。そう分かっているのに。手放しにそう助けを求められるのは、この世のどこかに生きているかもしれない、記憶の中の母だけ。なんて、惨めなことだろうか。
 ぼろっと、嘘みたいに大粒の涙が瞳からこぼれ落ちていく。ぎょっとした顔の白布が慌てた様子で「いや、まあ、大変なのは分かってるつもりだけど」と言う。それでもぼろぼろこぼれる涙は止まらない。
 母が亡くなったとき、真っ先に父の心配をした。母が亡くなったことで気を落としてしまうのではないか、と。母の死を悼むより先にそんなことを考えてる自分がいた。父が亡くなったとき、真っ先に生活の心配をした。両親がいなくなってしまった自分たちは施設に預けられるのだろうか、とか、親戚が引き取ってくれるのだろうか、とか。翔太とひかりはまだ幼いからできれば三人一緒にいたくて、父の死を悼むよりそのことばかりを考えている自分がいた。祖父が亡くなったときも、祖母が亡くなったときも。わたしは家族の死を悼むより、目の前の現実のことしか考えていなかった。
 なんて冷たい人間なのだろう。でも、そうしなきゃ、今日まで踏ん張ってこられなかった。東京の友達と別れたくないと駄々をこねたかった。高校を辞めたくないと喚きたかった。進学したいと我が儘を言いたかった。仕事がつらいから辞めたいと愚痴をこぼしたかった。誰かに抱きしめてほしいと泣きたかった。全部、全部、言ったって無駄なことだから、ずっと、見ないふりをしてきただけだった。
 誰かに、助けて、と言ってしまいたかった。でも、言えなかった。助けてくれる人なんかいない。そう分かっていたから。目が痛いほど涙が止まらなくて、背中を丸めてしまう。両手で顔を覆ってわんわん泣いた。子どもみたいに。泣いたって両親はもう抱きしめてくれない。祖父母は優しく笑って背中を撫でてくれない。生みの母が現れるわけでもない。もうわたしにはそういう人が誰もいないのだ。そんなことは、翔太とひかりがわたしに縋り付いて泣くために高校まで来た日から痛いほど分かっている。わたしも一緒に泣きたかった。お父さんとお母さん、どうして帰ってこないの。七夕の願い事に書いて、サンタさんへのほしいものとして願ってしまいたかった。願い通りにならないことを二人と一緒に泣き喚きたかった。
 わたしの肩に、温かい手が触れる。白布の手だとすぐに分かった。最後かもしれないと握手をしたときと変わらない温度だったから。その手がわたしの肩を掴む。小さな声で「悪い、事情も知らないのに勝手なことを言った」と申し訳なさそうに呟く。
 悔しかった。気を遣われるような言動しかできないことが。久しぶりだね、お互い元気そうで何よりだね。そんな当たり前の会話さえもできない。それが悔しくて、悔しくて、悔しくて。何があっても翔太とひかりにはこんな惨めな思いはさせないと、改めて心に誓った。


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