「翔太、ごめんだけど晩ご飯温めて食べてね! お姉ちゃん今日はえーっと、夜の十時には一回帰ってくるからね!」

 二〇一六年、四月。バタバタと晩ご飯の準備をして一通り翔太に説明をする。まだ小学六年生の翔太に包丁を持たせるわけにはいかない。レンジで温めれば食べられるようにいつも準備している。それをひかりと二人だけで食べさせるのは可哀想だったけれど、これも二人のため。「一緒に食べられなくてごめんね」と翔太の頭を撫でたら、にっこり笑って「ううん」と言ってくれた。
 十八歳から二十歳まで務めた会社を辞め、いくつかのアルバイトを掛け持ちする生活を始めた。朝は新聞配達、それが終わったら夕方までスーパーのレジ打ち。スーパーでの勤務が終わってから二時間の空き時間があるのでそこで晩ご飯を作って、深夜までの居酒屋のホール。最初は大変だったけどやってみたら結構慣れてきて、職場の人たちも良い人ばかりだからストレスなく働けている。
 翔太とひかりは、少し寂しそうだった。一緒にいる時間がガクッと減ったからだと分かっている。でも、二人の幸せのため。高校にしっかり通わせてあげたい。部活もさせてあげたい。大学も、やりたいことも全部。わたしができなかったことを二人にはさせてあげたかった。

「お姉ちゃん」
「うん? 何かあった? ごめん、お姉ちゃんすぐ行かなきゃいけないから、あー、えっと、分かんないこととか?」

 あと五分で家を出なくちゃシフトに遅れてしまう。慌てて靴を履いてから翔太を振り返る。「ん?」と首を傾げたら、翔太がわたしの顔をじっと見てから「なんでもない」と笑った。それならいいんだけど、なんだか、言葉を飲み込んだように見えて。帰ったらちゃんと話を聞いてあげなくちゃなあ。そう思いつつ翔太の頭を撫でて、笑顔で「いってきます」と言った。翔太も笑って「いってらっしゃい」と言ってくれる。それだけで頑張れるよ。わたしは、本当に、それだけで十分。
 自転車で片道二十分。バスや電車に乗るのがもったいなくて、もうここ最近自転車以外の乗り物には乗っていない。自分の服とか化粧品の類いも全然買わずに貯金ばかりしている。その甲斐あってか少しずつお金が貯まってきた。それが嬉しくて、いつも給料日はすぐにATMへ行くようになった。このまま順調にいけば私立高校にだって通わせてあげられる。大学にもきっと行かせてあげられる。両親、祖父母の遺産におかげが大きいけれど、どうにか二人に普通の暮らしをさせてあげられている。そう、誇らしかった。
 バイト先の居酒屋店内に入り「お疲れ様です」と先に来ている子たちに挨拶をすると「あ、さんおはよー!」と元気な声。すぐに着替えてホールに来ると、今日は団体の予約があったからなのかとても騒がしくて、同僚たちもバタバタと忙しそうにしていた。なんでも恐ろしいハイペースで料理とお酒を頼んでくるらしい。忙しいほど仕事が充実しているように感じるから好きだ。腕まくりをしてから、わたしと交代で上がる子とハイタッチを交わした。
 ちょうどその瞬間に呼び出しがかかった。すぐさま注文を取りに行くと、どうやら例の団体客の個室。騒がしい。恐らくもう半数の人がべろべろに酔っ払っているだろう。近くに掃除道具をこっそり準備しておいたほうがいいかもしれない。そんなふうに考えつつ「失礼します」と戸を開けた。
 机の上にある皿や食べ残しを見て注文を少し予想しつつ「ご注文どうぞ」と言うけれど、一向に注文が聞こえてこない。それに少し静かになった気がする。不思議に思って顔を上げると、バチッと、目が合った。

「もしかして、?」

 じっとわたしの顔を見ていたのは、高校時代の先輩である瀬見さんだった。「あ、はい」と間抜けに返事をしたらその隣から「うわっじゃん!」と言ったのは同じく先輩の山形さん。よくよく見渡して見ると、見知った顔ばかりだった。
 白鳥沢学園男子バレーボール部OB会の一団だった。牛島さんたちの代だけで集まって飲んでいるのだという。大平さんがわたしのことを見て「なんかずいぶん痩せたな?」と心配そうに言ってくれた。まあ、大人になれば顔くらい変わりますよ。そう笑って言ったら「いや、まあ、そうだな」と曖昧に笑われた。
 わたしが高校を中退したことは、白布たちの代から聞いたそうだ。「大変だったな」と瀬見さんが苦笑いをこぼす。そうですね、とだけ返したけど、それ以上は特に何も言わないようにした。言っても変に気を遣わせてしまう。それを瀬見さんも汲んでくれたようで、何も聞かずにいてくれた。

「そういえば弟くんと妹ちゃん元気?」
「元気ですよ。もう小学六年生と三年生です」
「時の流れって早いよネ〜……」

 天童さんがけらけら笑いつつ「まあ、とりあえず元気そうで安心したよん」と言ってくれた。とりあえず注文を聞いていきつつ、一旦下がる。懐かしい気持ちでぽやぽやと心臓が温かくなった。皆さん元気そうでよかった。そんなふうに思っているとアルバイト仲間の男の子が「やば、牛島若利だった今の」と興奮気味に言った声が聞こえた。注文を通してから話しかけてみると、なんでも彼は高校時代にバレー部だったのだという。

「プロになっても迫力変わんね〜……っていうか増してる〜……」
「うちと試合したことあったっけ?」
「……え、って牛島若利の関係者だっけ?」
「ああ、ごめん。わたし白鳥沢だったから」
「えっそうなの?!」

 知らなかった〜、と本当にびっくりした顔で言った。笑って「バレー部マネージャーだったよ」と言ったら余計に驚いていた。まあ、そのあとで中退したことを言ったら気まずそうな顔をされてしまったけれど。
 少し、ピキッ、と心が軋んだような音がした。賑やかな人の声が店内中に溢れている。みんな、それぞれの世界を生きている。とても立派に。とても、とても、まっすぐに。少しずれながらもそれにしがみつこうとしている自分が、とても、ちっぽけすぎて。そう思えば思うほど、翔太とひかりの顔が頭に浮かんだ。
 絶対にこんな思いをさせたくない。わたしと同じ世界を生きてほしくない。プロスポーツ選手になってほしいわけではない。有名人や誰もが憧れるような立派な人になってほしいわけでもない。もちろん、本人がそれを目指すというのなら全力で応援はするけれど。でも、わたしは、どこにでもいる普通の大学生とか、サラリーマンとか、そういう人になってほしい。普通に学校に行って、普通に就職して、いつか好きな子と結婚して、いつか親になるような。そんな、誰もが思い描く人生であってほしい。そう強く思う。
 くるりとホールに背を向ける。もう出来上がったものから早く持って行こう。仕事は待ってくれない。働かなければお金が稼げない。お金がなければわたしは目指すものは近付いてくれない。ただただ手を動かせばいい、足を動かせばいい。考え事なんてしなくていいのだ、わたしの人生は。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あ、! 元気でな!」
「またみんなで飲み会しようね〜」
「あんま無理するなよ」

 牛島さんたちを見送りながら「またいつでもどうぞ」と笑った。最初から最後まで楽しく騒いでいった先輩たちの姿が見えなくなってから、片付けをするために店内に戻った。店長と社員、アルバイトが数人だけの店内はシンと静まり帰っていてとても寂しい。騒がしいほうが好きなのかな、わたし。そんなふうに苦笑いをしつつ汚くなっている床の掃除を開始した。
 仕事の休憩時間にダッシュで家に帰って翔太とひかりの顔を見てきた。一時間ある休憩のほとんどは家と店の往復に使ってしまう。二人の顔を見られるのはたったの数分だけ。それでも必ず家に帰るようにしている。翔太もひかりもまだ起きていて「お姉ちゃん頑張ってね」と言ってくれた。その言葉だけでいくらでも頑張れる。思い出して少し笑ってしまった。
 翔太は来年で中学一年生になる。部活に入りたいと言うだろうか。友達と遊びに行きたいと言うだろうか。我慢をさせるようなことはしたくない。翔太が遊びに行っても大丈夫なようにしないと。ひかりは来年で小学四年生だ。数時間なら一人でも留守番、できるかな。そう一瞬考えたけれど、さすがに一人では無理だ。せめてひかりが中学生になってからじゃないと。少しでも仕事を休んでもいい余裕ができるように今は限界まで働こう。貯金はどうにか順調だ。祖父母が遺してくれた家にそのまま住んでいるから家賃を払わなくていいのが何よりも救いだし、両親と祖父母の遺産があったのも大きい。結局人に助けられて踏ん張れているのは情けなかったけど、わたしがどうしても翔太とひかりにあげたい普通の生活≠ェ見えてきた。まだまだ遠い、先の話だけど。


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