訪問介護をお願いするようになり、仕事も順調に覚え、家では翔太に、職場では先輩に助けられながら、どうにか一年が経った。
 翔太は小学四年生、ひかりは小学一年生になった。元気いっぱいに小学校へ通い、帰って来たら学校での話をたくさん聞かせてくれる。二人が笑っている顔を見るだけで何もかもを忘れられる。もう手が付けられないほど何も覚えていないおばあちゃんは、ヒステリーになることもあれば急にどこかへ一人で行って警察のご厄介になることもあった。たくさんの人に迷惑をかけている。けれど、これがわたしの精一杯だった。情けないけれど。
 職場で先輩とは、社長には知られない程度にこっそり仲良くやっている。あんまり仲良くやっているように見られると、わたしが辞めるときに理由が弱くなるから、と先輩はいつも言う。人のために自分を悪役にしようとしている。やっぱり優しい人だ。そういつも笑ってしまう。
 一つだけ良くないことがある。先輩が心配していた通り、社長のことだ。最近やけに車で家に送ろうとしてきたり、二人きりになるとより体に触れようとしてきたりするようになった。さすがにちょっと気持ち悪くて、通勤は自転車だから本当に大丈夫と伝えたし、触られそうになったらはっきり「やめてください」と言うようにしている。それでも、社長はやめようとしなかった。
 それは今日も、変わらなくて。倉庫に物を取りに来たのだけど社長がなぜかついてきた。そして、わたしの隣に来て、腰を抱いてきたのだ。「やめてください」と言ったけど離してくれなくて。今日はやけにぐいぐい来るな、と苦笑いをもらしていると「お金に困ってるの、知ってるよ」と囁くように言った。

「弟くんと妹ちゃんを高校まで通わせたいんだよね?」
「ま、まあ、はい、そうですけど……」
「じゃあ、僕がその学費は出してあげるから、その代わりに僕と付き合ってよ」
「……え?」
「こんなに一生懸命仕事をしなくても弟くんと妹ちゃんは学校に行けるし、さんは女として生きていけるよ。どう、素敵じゃない?」

 先輩が一年前に言っていた意味がこの瞬間に分かった。今までの子とは違う追い込み方をすると思う≠ニいうのはこういうことだったのだろう。社長は既婚者だ。奥さんは何度も会社に顔を出しているし、にこにこといつも笑っているとても明るい人だった。そんな人がいるのに、そんな提案をしてくるなんて。簡単に言えば、愛人になれ、ということだ。びっくりして固まっていると、するりと腰を撫でた手がお尻に触れてきて、思わず一歩離れる。社長はにこにこと気味の悪い笑顔を浮かべて「一生懸命働いたってたかが知れてるでしょ」と言った。あまりの衝撃に言葉が出なくて、どうにか首を横に振って拒否する。社長はそれでも「じゃあキスしてくれたら五万、セックスしてくれたら十万、っていうふうにお小遣い制でもいいよ」と言ってくるけど、正直、意味が分からなかった。
 汚いお金、とまでは言わない。そういうことをしてお金を稼いで立派に生きている人もたくさんいる。でも、この人のこの提案に乗ったお金で、翔太とひかりの人生を切り開くのは、心底嫌だった。

「わたしはわたしの力で二人と生きていきます。結構です」
さん一人で、弟さんと妹さんに満足な生活を送らせてあげられるかなあ。可哀想に、さんのせいで二人とも不幸になるよ」

 社長はそう笑って言ってから「待っててあげるからようく考えてごらん」とささやいて、倉庫から出て行った。
 わたしのせいで、二人が不幸になる。その言葉には心当たりがあった。わたしのせいで二人は、本当だったらしなくていい我慢をさせられて、本当だったら言えることも言えなくて。今ももしかしたら家で泣いているかもしれない。まだ小学生なのにおばあちゃんの面倒を見てくれている。翔太はひかりのことも見てくれている。それを、不幸と言わずして、なんだというのか。
 五万円の価値、十万円の価値。それをわたしは誰よりも知っていると思う。手が震えた。わたしが一生懸命働いた給料は、生活費にほとんどが消える。おばあちゃんの病院代と介護代もあるから、毎月ほとんど赤字状態だ。両親と祖父の遺産はどんどん減っていくだけ。おばあちゃんの貯金もあるとしても、とてもじゃないけど、今後このままの状態では高校に通わせてあげられるほど残らないかもしれない。どうにかしないと。もう時間がない。そう思えば思うほど、五万円、十万円が、重くのしかかった。キス、するだけで。体を、捨てるだけで。
 そう思った瞬間に「体、大事にしろよ」と頭の中で声が聞こえた。その声にハッとする。今の声は、白布の声だった。わたしに告白をしてくれたあの日、最後かもしれないからと握手をした。そのときに、白布が言ってくれた言葉だった。
 呼吸が乱れていた。考え事をしていて呼吸をするのを忘れていたからだ。ぎゅっと自分の手を握って唇を噛む。体を、大事に。不安に飲み込まれて見失いそうになった自分の体温を感じた。大丈夫。きっと、絶対、大丈夫だ。わたしが折れてどうする。手の震えが止まった。顔を上げて大きく呼吸をする。ゆっくりゆっくり自分の中に空気を入れたら、嫌な感じにざわついていた心が穏やかになっていく。大丈夫。見失っていない。しっかり呼吸ができた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 さらに一年後、わたしを取り巻く環境ががらりと変わる。三月に祖母が亡くなった。老衰だった。わたしは会社にいるときに連絡をもらい、すぐに病院に向かったけれど、最期の瞬間には間に合わなかった。せめて最期にお礼が言いたかった。祖父母がわたしたちを引き取ってくれなければ、わたしたち家族はバラバラになっていただろう。そのことのお礼を、ちゃんと言えずじまいだったから。そう呟いたわたしに病院の先生は、穏やかな最期でしたよ、と優しく声をかけてくれた。それに、ほっとしてしまった。
 今年でわたしは二十歳になり、翔太は小学五年生、ひかりは小学二年生。祖母の介護の時間がなくなり、翔太とひかりが勉強をしている様子を久しぶりにじっと見た。ひかりは勉強が好きじゃないけど運動が大好きだ。将来は何かスポーツをやりたいと言うかもしれない。翔太はわたしが見て驚くほどに賢い子で、勉強が大好きなようだった。大学に行きたいと言うかもしれない。そう微笑ましく思うのと同時に、俯いてしまう。
 わたしは、恩人である祖母が亡くなって、ほっとしているのだろうか。なんて冷たい孫なのだろう。祖母はおじいちゃんが亡くなってからの数年をどう思っていたのだろう。幸せだっただろうか、不幸だっただろうか。何も知らないわたしでは介護が行き届かなくて、嫌な思いをたくさんさせただろう。至らないところが多かっただろう。もしかしたら、不幸だったのかもしれない。一人の人を不幸にしておいてほっとするなんて、わたしは、本当に。
 目の前で自分の好きなことをしている翔太とひかりを見つめる。せめて二人だけでも、わたしが幸せにしなくちゃ。周りの両親がいる子たちと同じように、たくさんの選択肢から自分の好きなものを選べるようにしてあげなくちゃ。そのためにはやっぱりお金が足りない。
 一日は二十四時間ある。今の会社はきっちり八時間の勤務。副業は許されていない。残りは十六時間もある。こっそりアルバイトをしてもバレなければいいだろうけど、バレれば社長に何を言われるか分からない。未だに愛人の件を持ちかけてくるから、弱みはできるだけ見せたくなかった。
 ここの会社を辞めたらきっと正社員ではなかなか雇ってもらえないだろう。でも、ここで働き続けてもストレスが溜まる一方でお金は貯まらない。これでは二人の選択肢を増やしてあげられない。
 そのことを話したら先輩は大笑いしてくれた。「貪欲!」とお腹を抱えて。それから「あのクソジジイにここまで耐えられたの、さんがはじめてだったよ」と笑いすぎて目に浮かんだ涙を拭い、「きっとさんなら大丈夫じゃない?」と言ってくれた。


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