社長に注意、の意味が分かったのは働き始めて一ヶ月が経ったころだった。いつもにこにこしていて優しい良い人だと無条件で思っていた。でも、やけに距離が近かったり、プライベートに踏み込んでくるような質問をしてきたりすることが、急に気になり始めた。
 わたしがパソコンに向かって作業をしていると「大丈夫? 順調?」と優しく声をかけつつ後ろに回ってくる。そして、必ず肩に手を置く。はじめは何とも思っていなかった。それなのに、一度気になり始めると、急に不快に思うようになっていて。曖昧に笑って「大丈夫です」と答えて極力会話はしない。それでも社長は決して手を退けないし、話しかけてくるのもやめてくれない。「彼氏いるの?」「彼氏いたことある?」「今好きな子いるの?」とか、そういう仕事に関係のない質問ばかりしてくることも多い。
 もう一つ気付いたのは、怖いと思っていた先輩が本当は優しい人なのではないかということだった。わたしが社長にそんなふうに絡まれていると必ず「社長、時間です」と冷たく声をかける。この先輩には社長も頭が上がらないらしくて、声をかけられたら必ずそそくさと仕事へ戻っていくのだ。はじめは偶然だと思っていた。でも、あまりにもいつもタイミングが良すぎて。先輩はいつも知らん顔をして仕事を続けている。どうしても気になって、思い上がりかもしれないけど、聞かずにはいられなかった。

「あの、もしかして、いつも助けてくれてますか……?」
さん、歳いくつ?」
「え?」
「高校辞めてここに来たって聞いたんだけど」

 はじめて仕事以外の会話をした。びっくりしつつ「今年で十八です」と答えたら、先輩はパソコンの画面から目を離してわたしの顔を見る。なんだか、とても、心臓がどきっと高鳴るような視線だった。先輩は表情をほとんど動かさないまま、口だけを動かして言った。「悪いことは言わないからさっさとこんなところ辞めなさい」と。

さんみたいな若い子があのクソジジイに食い物にされていくところ、もう見たくないから」

 先輩はそう言い切ってから、ふっと小さく笑った。いつもまっすぐ伸びている背筋を少し楽にして、頬杖をつく。淡々と「社会のことを知らない甘ちゃんかと思って冷たくしてたのに、全然辞めないから参ってたんだよね」と言った。やっぱり、先輩がわたしに冷たくしていたのはわざとだったのだ。
 教えてもらった話に口が閉じなくなったほど驚いた。社長は実は夜の店を経営しており、この会社に働きに来た女の子たち数人を、いろいろ手を回してそのお店の従業員にしてお金を稼いでいるというのだ。あるときはわざとミスしやすい発注を任せてミスで大損になったからと言ったり、そこで働けばもっともっと給料が増えると言ったり。もちろんほとんどの子はそう言われて逃げるように会社を辞めていったらしいけど、信じてしまった子たちは今も夜の店で働かされているそうだ。

「高校中退して働きに来てるんだから、なんか複雑な家庭系でしょ」
「……両親がいなくて、まだ小さい弟と妹がいます」
「あー、そういうことね。悪いことは言わないからさっさと辞めな。本当に。さんみたいな子が一番つけ込まれやすいから」

 辞める理由は「先輩が怖い」にしたらいいから、と言って笑った。なんでも先輩がいないとこの会社は回らないくらいの業務量を任されているそうで、社長は一切先輩には逆らわないし嫌がらせなどの変なこともしてこないのだそうだ。これまですぐに辞めていった子たちは先輩がこんなふうにして辞めるようにした子たちだったのだ。
 でも。せっかくきっちり五時に退社できて、結構業務内容も簡単で、給料もいいと思う。正直辞めがたいのは事実だった。先輩の顔を見てへらりと笑う。そういう話だと分かっていればしばらくは大丈夫だ。そう言ったら先輩はため息を吐く。「さんは大人≠ニ男≠知らないんだね」と言った。

「私の予想だけどね」
「は、はい」
「たぶんさんのことを、社長、今までの子とは違う追い込み方をすると思うなあ」

 そう言われて少し体が冷えた。先輩は背筋を直してからまっすぐにわたしを見ると「まあ、なんかあったら声かけて」と言ってくれた。



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「親に飯も出さないなんてどうかしてる!」

 夜十時、おばあちゃんがそう叫んでわたしが持ってきた薬を振り払った。床にこぼれた白湯をタオルで拭き、粉薬を手で集めながらため息をついてしまった。晩ご飯を食べたことを忘れている。宥めながら「もう今日はご飯食べたでしょう」とできるだけ優しい声で言う。でも、おばあちゃんは「食べてないものは食べてない!」と怒るばかり。言う通り食べさせても吐いてしまうのは目に見えている。どうしようか。
 少し困っていると、その怒鳴り声がうるさかったのか、翔太が起きてきてしまった。おばあちゃんの部屋の戸を開けて覗き込むと「もう食べたじゃん」とうんざりした声で言った。小学校がすでに夏休みに入っている翔太が、お昼ご飯のときもこんな感じだった、と教えてくれる。
 施設への入居は何度も考えた。でも、その話をするとおばあちゃんは決まって泣くのだ。おじいちゃんと過ごしたこの家を離れるなんて考えられない、と。なぜそんな親不孝なことを言うの、と。血の繋がりのないわたしを面倒見てくれた恩がある。できるだけおばあちゃんの希望に添ってあげたい気持ちと、単純なお金の問題。その二点から今のところ施設入居は断念している。
 でも、翔太に日中見てもらうのは、遊びたい盛りだろうに我慢させてばかりで本当に申し訳なくて。ひかりの面倒も見てくれているからきっと翔太も限界が来る。小学校がはじまってからも問題しかない。訪問介護を検討している。それくらいのお金はどうにかするし、何よりもおばあちゃんが心配だからそうするのが個人的にベストだと思っている。今度の土曜日、お試しでうちに来てもらうことになっているけど、多分そのままお願いすることになるだろう。どうにかおばあちゃんのお眼鏡にかなうといいのだけど。そうまたため息を吐いた。


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