「じゃあ請求書の金額をこのデータに合わせて。パソコンくらいは使えるよね? それが終わったら納品書の入力と金額合わせ。それでこの見積書、そっくりそのまま作ってくれる? 今日中にできればいいから」

 出勤初日、怒濤の勢いで指示をしてきたのは事務員の先輩。もうずっとここで事務員をしているそうで、分からないことは何でもこの人に聞くように社長から言われている。特に詳しい説明もないままにとんでもない勢いでまくし立てるように言われて、少し怖気付いてしまう。でも、これが仕事なんだなあ。自分でやり方を覚えながらやっていくしかない。そう思いながらさっき案内してもらったデスクに座る。小さな町工場だけれど、最近改装したらしくて事務所はきれいだ。面接で会った社長も明るくて優しそうな人だった。
 よく分からないまま、前任の人が残していった引き継ぎのメモを見ながら作業をどうにか進める。パソコンの使い方は分かる、けど、請求書とか納品書、見積書なんて生まれて初めて見たし、何が何だかよく分からない。書いてある通りに進めているだけ。ちゃんと理解しているわけではないから、少しずつ頭がパニックを起こしていく。
 なんとなく、だけれど。前任の人が辞めていったのはこの先輩の存在が原因な気がした。言い方がとても冷たくて、早口で、あまり説明をしてくれない。無表情で話しかけにくいし、きっと話しかけてもあまり話してくれないタイプの人だ。
 そうは言っても家族のためだからどうしようもない。不安をかき消すように引き継ぎ資料をめくって行くと、最後のページの右下に小さく何かが書かれていた。シャーペンで薄く書かれていたのは「社長に注意」の文字だった。社長に注意、とは。とても優しそうないい人だったけどな。前任の人とは合わなかったのだろうか。不思議に思いつつ気にしないことにした。
 請求書の金額が合わない。どうしてだろう。全部ちゃんとエクセルに金額を入れて自動計算したから計算ミスってことはない。でも、全然合わない。じっと引き継ぎ資料を見ていると先輩がこっちを見た。「何か分からないことでも?」と早口で言われて、思わず謝ってしまう。請求書の金額が合わないことを伝えると、ちらりとわたしの手元を見た。「消費税、入れて計算してないよね?」と言われてアッと声が出た。そっか、これ、消費税抜かなきゃいけないのか。教えてもらわなければずっと気付けなかった。慌ててお礼を言ったけれど、先輩はふいっとすぐに視線をそらしてしまった。機嫌を損ねたかもしれない。気を付けないと。そう、なんだか心臓が固まるような居心地を悪さを覚えつつ、パソコンに向き合った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あ、お姉ちゃん!」

 庭に落ちている小石で遊んでいた翔太が顔を開けた。「ただいま」と声をかけたら「おかえり!」と満面の笑みで駆け寄ってきてくれた。
 紹介してくれた人の言う通り、残業なしの会社で安心した。家から自転車ですぐの距離だから、途中のスーパーで買い物もできる。時間に余裕が持てて、高校に通っているときよりも充実している気がしてしまって、少し笑ってしまう。やっぱり元から高校なんて行かないほうがよかったのだ。そう心中で呟きながら、先ほどスーパーで買った食材を持って玄関を開ける。「ただいま」と言ったら奥からひかりも出てきて「おかえり〜」とかわいいのんびりした声で言った。

「お姉ちゃんなんでもう帰って来たの? もうどこも行かないの?」
「うん。今日はもうおしまい。今からご飯作るよ」
「やったー!」

 バタバタと走って行く翔太が「お姉ちゃん帰って来たー!」と叫んだ。元気があってよろしい。そんなふうに笑いつつ靴を脱いで、出迎えに来てくれたひかりを抱き上げる。もう六歳ともなるとずいぶん重たくなった。そろそろ抱っこは卒業してもらわないとしんどいかもなあ。そう思っていると翔太が「お姉ちゃん! ばあばが吐いたー!」ととんでもないことを叫んだ。ここ最近、家の中にあるものを何でも食べようとするようになった。危険なものはおばあちゃんが触らないところにしまったり、唯一鍵をかけられる二階のわたしの部屋に隠しているけれど、さすがに全部は無理で。何かを口に入れるたびに戻すことには戻すのだけど、いつかとんでもないものを食べてしまうのではないかと不安でならない。
 玄関に買ってきた食材をそのまま置いて、ひかりを抱えたまま走る。一階にあるおばあちゃんの部屋は玄関から入ってすぐの部屋だ。和室になっていて、リビングもお手洗いも近いけれど少し日当たりが悪い。そんなおばあちゃんの部屋に入るとすぐ、布団の上に茶色い液体がこぼれているのが見えた。それに、部屋が醤油臭い。もしかして。そう思っておばあちゃんが自分で注いだと思われるコップの中に入っている液体の匂いを嗅ぐと、しっかり醤油の匂いがした。

「お母さん、だめでしょ。これ醤油だよ」
「そうだったかなあ。ごめんねえ」

 もうおばあちゃんのことをおばあちゃん≠ニ呼ばなくなった。わたしのことを完全に自分の娘だと認識しているからだ。誤認識だったとしても否定し続けるのは良くない場合があると本で読んだ。生命に関わるようなことでない限りは受け入れるのも一つの手だと。だから、わたしはおばあちゃんの娘であるということにしている。
 片付けをしているわたしを翔太が手伝ってくれる。翔太は本当に良い子に育った。最近一番嬉しかったのは、学校帰りに見つけた花をわたしに差し出して「将来はお姉ちゃんと結婚する」と言ってくれたこと。それを横で聞いていたひかりが「お姉ちゃんと結婚するー」と真似して言ったのが可愛くて、可愛くて。二人のためなら何でもできると思った。二人のためなら高校なんて通えなくていいと思った。
 でも、二人にはわたしのような思いをさせたくない。ちゃんと高校まで通わせてあげたいし、勉強が好きなら大学にも行かせてあげたい。頑張らなくちゃ。素直にそう思った。
 その気持ちに何一つ嘘はない。嘘はない、の、だけど。ふと夕焼けを見ると思ってしまう。白布たちは練習に励んでいるだろうか、と。きらきらと眩しかったあのコートを思い出してしまう。もう少しでインターハイの季節がやってくる。どうか笑って大会を終えてほしい。もう、わたしには遠い世界の話になってしまったけれど。できることなら一緒の世界で見守りたかった。そう、ふとした瞬間に思ってしまって、情けない。


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