、ちょっといいか」

 バレー部を退部して一ヶ月後、六月末。最後の授業を終えて、友達たちと別れの挨拶も終えてから帰ろうとしていたところを白布に呼び止められた。こんな時間に珍しい。部活はないのだろうか、と考えてすぐに思い至る。そっか、試験期間だから部活は休みなんだ。期末試験は七月初旬。わたしはもう学校にいないからそのことがうっかり頭から抜けていた。
 まだ遅い時間じゃない。白布の用もそんなに長引くものじゃないだろうし「うん」と答えた。何の用だろうか。バレー部を辞めてからも廊下ですれ違えば挨拶をするし、普通に会話もする。けれど、前よりは関わりがぐっと減ってしまった。当たり前のことだ。それが少しだけ寂しく思えてしまって、困る。
 白布は何も言わないままどんどん歩いて行く。途中で「どこに行くの」と聞いたけど教えてくれなかった。なんで教えてくれないんだろう。よく分からなかったけど、白布は無駄なことはしない人だ。何かちゃんとした理由があるのは分かる。黙ってついていっても悪いようにはならないだろう。
 辿り着いたのは特別教室がある階の一番奥、滅多に誰も来ないところだった。こんなところで一体何が? 首を傾げていると、わたしの少し前を歩いてまっすぐ前だけ見ていた白布が、こちらに体を向けた。まっすぐわたしを向き直るとじっと顔を見てくる。少しずつ日が落ちていく。曖昧な夕焼けの色が、白布の色素の薄い肌にきれいに映えている。髪も凪いでいく波みたいに静かに光って、瞳は花びらに弾ける雨粒みたいに瑞々しくて。白布が何か、わたしに言いたいことがあるのだろうと、まっすぐに伝わってきた。

のことが好きだ」

 試合になるとよく声を荒げていた。乱暴な感じではなく、ちょっと焦っている感じというか。それがマネージャーになってから一番驚いたことかもしれない。なんだか大人しそうに見える見た目なのに口が悪くて、静かで優しい声色をしているのに言い方がきつい。でも、いつだってチームのために尽力する、案外熱血な人。白布ってそういう感じなんだ。そう思ったことを今でも覚えている。わたしはそっちのほうが好きかも。そう笑ったことも、覚えている。
 白布は、とてもしっかりしていて、真面目で、優秀で、とてもとても、すごい人だと思う。そうだとしてもわたしは白布のことを男性として見たことはなかった。良き友人ではあったけれど、彼氏とか恋人とかそんなふうには、見られなかった。あまりにも立派すぎて、わたしなどでは釣り合わないからだ。
 しっかりしているくせに、変なことを言ってきたものだ。淡々と思う。だって、わたしは今日で高校を辞める人間だ。両親がいなくて、幼い弟と妹がいる。それだけで、若者が恋愛対象として避けるには十分すぎる条件なはずだ。生活に幾分か余裕があって、もう誰でもいいから、という人ならばわたしをそういう対象として見てくれる人もいるかもしれない。でも、明らかに、白布はそうではなかった。これからいくらでも良い女性に出会える。そんなこと、白布にだって分かるはずなのに。どうして、わたしなんかに告白をしてきたのだろうか。

「付き合ってほしい」

 まっすぐな瞳がわたしを捉える。そんなにまっすぐ見られても、わたしの人生はまっすぐにはなってくれない。わたしの人生は幾分か人より早く進んでいて、とてつもなく曲がりくねっている。まっすぐ、正確な時間を刻みながら歩んでいく白布とは、どうあがいたって交わらないのだ。
 きっと、わたしがわたしでなかったならば、白布のこの告白に頷いていたと思う。わたしがではない白鳥沢学園高校の女子生徒で、少なくとも両親のどちらかが健在で、幼い弟と妹がいたとしても普通に生活できるような状況だったならば。そうだったならば、わたしはこの告白を受け入れていたと思う。白布のことが好きかと聞かれると分からないのだけれど、白布とならきっとうまくやっていける気がするから。いい人だと知っているから。そんな理由だけれどそこまで悩まずに、お願いします、と言えただろう。わたしだって人並みに恋愛に興味を持っていた。彼氏とデートをしてみたいな、なんて子どもっぽいことを思ったことだってある。白布とならきっと楽しいだろうな、と思う。
 どんなに奇跡が起こっても、わたしがわたしであることに変わりはない。だから、わたしが白布の告白を受け入れることなど、奇跡が起こってもありえなかった。だって、どんな奇跡が起こればわたしはわたしでなくなるのか。どんな奇跡が起こればわたしの置かれた状況が変わるというのか。そんな奇跡はどこにも存在しない。そんなことは子どもでも分かる話だ。

「白布のことは友達としては好きだけど、ごめん、そういうふうに見たことないや」

 白布はまっすぐにわたしを見たまま「そうか」と言った。気持ちはもちろん嬉しかった。こんな青春っぽいどきどきを自分が味わえるなんて思いもしなかったから、本当に嬉しい。白布には悪いけれど、良い思い出になった。こっそりそんなふうに思う。
 手を伸ばしてきた。不思議に思って見ていると「最後かもしれないし、握手」と言われる。恐る恐る右手を白布の右手に近付ける。ぐっと握手されると、白布の手がずいぶん大きいことをはじめて知った。温かい。なんだか呆けてしまった。じっと白布の手を見ていると、ほんの少し手を握る力が強くなったように感じた。

「体、大事にしろよ」

 白布のその言葉は妙に温かくて、とても近くにあるように思えるものだった。元気でなとか、また連絡するとか、そんな言葉よりも。なぜだか心がこもっているように聞こえた。不思議な感覚に呆けたまま「うん」とだけ返す。それから、ゆっくりと手が離れた。
 その瞳がようやくわたしから外れた。それから白布は「時間取らせて悪かった。そこまで送る」と言って歩き始める。なんか、こういうときってどうすればいいか分からない。白布の隣を歩いて少し黙ってしまう。そんなわたしの様子を見てなのか、白布がまた「悪かった」と謝ってきた。

「いや、全然。あの、白布には悪いけど、青春の思い出をもらったなってくらいで」
「傷付くぞ」
「ご、ごめん。でも本当、最後になんか、きれいな思い出をもらっちゃったよ。ありがとう」
「泣くぞ」
「ごめんってば」

 二人で階段を下りていく。白布はぽつりと「なんか、就職とかするのか」と少しだけ聞きづらそうにしつつわたしの顔を見た。一応そのつもりだ。近所の人から紹介してもらった事務の仕事。事務員さんが最近辞めてしまった町工場に今度面接に行く予定になっている。高校中退でも構わない、と言ってくれているそうで、恐らくそこで働くことになるだろう。白布は静かにわたしの話を聞いて、話し終わったら「そうか」と穏やかな声で言ったっきり、わたしのことは聞いてこなかった。
 また静かになってしまった。試験期間中の校内はもうほとんど誰も残っていない。ちらほらとどこからか人の声が聞こえてくるけれど、わたしと白布はあまり人が来ない教室棟にいるから、誰ともすれ違わないままだ。迷いに迷って「いつから?」と聞いてみた。だって、全然、気付かなかったから。できる限りにこやかに聞いたつもりだったけど、白布はとんでもなく渋い顔をした。聞いちゃいけないことだっただろうか。慌てて謝ったけど「いや、言いたくないとかじゃなくて、普通フッた後に聞くかよ」と眉間にしわを寄せたまま言う。確かにそうだ。空気が読めない人間で申し訳ない。

「……一年の夏くらい」
「……そ、そうなんだ」
「お前が聞いてきたんだろ、処理しろよ」
「処理って言われても……」

 聞かなきゃよかった。一気に恥ずかしくなってしまった。白布から目をそらしてとりあえずへらへらするしかできない。白布はそんなわたしをじっと見ているらしく、なんとなく視線が刺さってくるのをひしひしと感じる。


「あ、はい」
「好きだ」
「……そ、それはさっき、聞いたけど?」
「どうしてもだめか」

 白布が足を止めた。二、三歩進んでしまってからわたしも立ち止まる。振り返った白布は唇を少しだけ噛んで、わたしを見つめているだけだった。
 どうしてもだめに決まっている。きっとこれからわたしは自由に動ける時間がほとんどなくなるし、普通の恋人たちのようにデートに行ったり一緒にいたりできない。たとえ白布とここで付き合うことになったって、フラれるのはわたしだ。いや、もしかしたらわたしが申し訳なさで白布をフるかもしれない。どちらにせよ、良いことなんて一つもないのだ。白布はそんなことをきっと望んでいない。そんなことを望む人なんてたぶんこの世に一人もいないから。

「白布はしっかりしてるし、真面目ないい男だから、もっともっと良い人にたくさん出会えるよ」
「……なんだそれ」
「わたしと付き合っても後悔するから。わたしのことは早めに忘れて、青春を謳歌してね」

 もしかして気を遣ってくれているのだろうか。可哀想だと思ってくれたのだろうか。いや、まあ、白布がそういうタイプではないことは重々承知はしているけど。そう思ってしまうくらいに白布の顔が、なんだか、歪んで見えたから。なんだか申し訳ない。そう苦笑いをこぼしたら、白布がぽつりと「馬鹿かよ」と言った。


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