生みの母親との思い出は、正直ほとんどない。ぼんやりと覚えていることと言えば、いつも俯いていてあまり笑わない人だったということ。あまり子どもが好きじゃなかったのか、わたしのことが好きじゃなかったのか。どちらなのかは分からないけれど、きっと、どっちもだったんだろうと思う。それでもわたしは、母のことが大好きだった。苦手な料理を毎日作ってくれた。どんなに不格好でも持ち物に名前が書かれたアップリケを付けてくれた。全部母にとっては面倒で苦痛なことだったのかもしれない。それでも、わたしはそれが嬉しかった。そんな生みの母はもうそばにいない。わたしが小学校に上がる少し前に両親が離婚したのだ。わたしは父に引き取られ、それ以来母とは会っていない。もう今では、どこで何をしているのか分からないままだ。
 わたしが小学二年生のときに父が再婚した。新しい母は、なんというか、簡単に表すととても優しい人≠セった。料理が上手で、かわいいものをたくさん知っていて、いつも優しく笑っている。そんな人。子どもながらにぼんやり、父は本当はこういう人が好きだったんだ、と思ったことを覚えている。



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ちゃん、ごめんな。おばあちゃん明日は病院で遅くなるからね」

 洗い物をしながら振り返る。おばあちゃんに笑顔で「分かった。気を付けてね」と言うと「ごめんね」とまた申し訳なさそうに言われた。おじいちゃんがここ最近ずっと咳いているからお医者さんに診てもらっている。わたしは学校があるし、弟と妹はまだ小さすぎる。おばあちゃんが付き添うしかないのだ。
 両親がこの世を去って二年が経つ。東京から宮城の母方の祖父母の元に引き取られたわたしたちは、慣れない自然豊かな街での暮らしにずいぶん慣れてきた。まだたまに戸惑うこともあるけれど、近所の人たちは優しい人ばかりだし、わたしは学校で友達もたくさんできた。どうにか、楽しく日々を過ごしている。
 わたしの父は宮城県の白鳥沢学園高校でバレー部に入っていて、結構有名な選手だったそうだ。父が在学中は全国大会に四回出場、二回全国制覇を果たしたそうだ。父はその勢いのまま東京のバレーボールチームのエースになった。プロになってからは苦戦することも多かったようだけど、バレーをしている父の姿が楽しそうだったことははっきり覚えている。
 再婚した母も偶然にも宮城県出身だった。東京で出会って、仲良くなるきっかけが宮城県トークだったのだという。再婚するつもりはなかったらしい父が一目で「この人と結婚する」と思った、と教えてくれた。わたしにとっては二人目の母と再婚した父は前よりも明るい人になったように思える。バレーの成績も良くなって、弟の翔太が生まれ、妹のひかりが生まれた。笑顔の絶えないとても幸せな家庭だった。その後、父はわたしが中学一年生のときに現役を引退したけれど、自慢の父であることに変わりはなかった。
 現役を引退したのは、病気が原因だったと当時のわたしは知らなかった。父は病気を患い、気付いたときにはすでにぼろぼろだったという。再婚後に生まれた弟の翔太はまだ三歳、妹のひかりに至ってはまだ一歳にもなっていなかった。父はどんな手術にもリハビリにも耐えて、わたしの前では決して笑顔を絶やさなかった。痩せていく顔。小さくなっていく体。それでも父はわたしの誇りだった。
 父が入院して一年半後。母が交通事故で亡くなった。信号無視した車に轢かれて即死だった。母は夕飯の買い物からの帰り道で、事故現場には買った物が散らばっていたという。その知らせを一番に聞いたのはわたしだった。夏休み中だったその日、わたしは中学で所属していた陸上部の練習中だった。青い顔をした先生がグラウンドへ走って来て慌てた様子で話した言葉を、うまく理解できなかったことを覚えている。
 そのわずか三ヶ月後の十一月。後を追うように父が病死。眠りについたような死だった。また訳が分からないまま病院に行って、もう事切れそうな父がわたしに言った。「翔太とひかりを頼んだぞ」。そのあとすぐ、呼吸が止まった。お医者さんと看護師さんが何度も何度も父に呼びかけた。うるさい機械の音。白くなっていく父の顔。涙は出なかった。その代わりに「もうやめてあげて」と呟いていた。
 父方の祖父母はすでに亡くなっていた。そのため、わたしたち三人は母方の祖父母の家に引き取られることになり、友達とゆっくり別れを惜しむ暇もないほど慌ただしく宮城県へ引っ越した。最初は高校に行かずに働くのもいいかと思っていた。両親を亡くし、引き取ってくれた祖父母も高齢。いつ自分が弟と妹を支えることになるか分からなかったから。
 それに、母方の祖父母ということは、わたしとは血が繋がっていないということ。父の前妻との娘である全くの赤の他人。世話をすることを良くは思っていないだろうと思っていた。迷惑をかけてはいけない。わたしはおまけのようなものなのだから。弟と妹のことさえ面倒を見てくれればそれでいい。そんなふうに思っていた。
 けれど、祖父母はわたしに何度も「高校には通いなさい」と言った。それだけではなく「部活にも入りなさい」とも言った。学生のうちは学生ができる楽しいことをたくさんしなさい、と言ってくれたのだ。祖父母の強い勧めもあり、父が通った白鳥沢学園入学を目指して勉強した。元々成績は悪くなかったし、勉強は好きだ。両親の死をかき消すようにひたすら勉強した。そうして、白鳥沢学園高校に無事合格。部活は迷わず男子バレーボール部を選んだ。ちょうどマネージャー勧誘をしていたから、やるならとことんやってみたいことをやろうと思ったのだ。

「翔太、明日おばあちゃんとおじいちゃん帰り遅くなるけど、ひかりとお留守番できる?」
「できるー!」

 無邪気に答えたのは弟の翔太。小学二年生。しっかり者でまだ七歳だというのに妹の面倒をちゃんと見てくれる。妹のひかりは四歳の保育園児。まだ留守番の意味がよく分からないようで「できるー」とお兄ちゃんの真似をして笑顔で言った。洗い物をしていた手を止め、タオルで手を拭いてから翔太の頭を撫でる。偉いね、と言うと翔太ははにかんで「お兄ちゃんだもん」と言った。頼られることが大好きな翔太に甘えてばかりではいられない。明日は自主練時間になったら先に帰らせてもらおう。おばあちゃんの遅くなる、というのはわたしよりは早いのだろうけれど、早く帰るに越したことはない。



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「あれ、今日はあがりか?」

 一年生に片付けの指示をしていると瀬見さんにそう声をかけられた。「ちょっと家の用事で。すみません」と答えたら慌てた様子で「いや帰るなってわけじゃないから!」とフォローされる。それを聞いていた大平さんが「今のはそう聞こえるよな」と笑った。それに笑いつつ「お先です」と頭を下げて出口に向かう。
 父が三年間を過ごした体育館。そして、当時も白鳥沢学園男子バレーボール部監督だったという鷲匠監督。聞きたい話はたくさんあったけれど、クラスメイトや部活の人たちにも両親が亡くなっていることは言っていない。変な感じで知られてしまうと気を遣われてしまいそうだったから聞けずじまいだ。
 バレー部のマネージャーをはじめてまず思ったのは、本当にマネージャーをやっていいのかな、という不安だった。祖父母から部活に入るように言われたとは言え、遠征があったり練習時間がそもそも長かったりして、すぐに帰宅してご飯の準備をしたりアルバイトをしてお金を入れたりもできない。引き取られた身で好き勝手やっていいのかな。しかも、私立高校に通わせてもらっている。祖父母はわたしの両親が遺していったお金があるから、と言っていたけれど、翔太とひかりだって高校に通うだろうしわたしに使わないほうがよかったんじゃないだろうか。そんな思いがずっとあった。正直に言うと今も。
 最低限の片付けは終えた。「すみません、お先失礼します」と声をかける。体育館にいた人たちが「お疲れー」と返してくれたのにちょっと笑顔を返して、背中を向けた。まだ手伝えることがあるだろう。そう思ったけど、仕方がない。そんなふうに一人でため息をついてしまった。ああ、そうだ。帰る前にスーパーに寄ろう。今日は特売日だったはずだ。
 何を買おうか考えていると、体育館の出入り口で同輩の白布とすれ違う。「お疲れ」と声をかけると「帰るのか?」と聞かれた。立ち止まって「家の用事」と説明すると白布は納得したらしい。それ以上は特に追及せず「暗いから気を付けろよ」と言ってくれた。怖く見られがちで言葉がキツイことが多いけど、意外と普通に優しい人だということは関わってすぐに分かった。まあ、無条件で人を甘やかすような人ではないけれど。
 白布に背中を向けて更衣室へ急ぐ。きっとご飯はおばあちゃんが準備してくれているだろうから、片付けはわたしがやって、お風呂掃除と翔太とひかりの明日の準備をしなくちゃ。その後で自分の課題を終わらせて、おじいちゃんに薬を飲ませて。一日は二十四時間しかない。圧倒的に時間が足りないなあ。そんなふうに思わずぼやいてしまった。


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