引っ越したわけでもないし、何か環境が変わったわけでもない。それでもなんだか、新しい日々がはじまったように思えてならない。浮かれている。自分でもよく分かるし、職場の人にも「何かいいことあった?」と聞かれたほどだ。顔にしっかり出ているのだろう。ダサいやつ。でも、それでも構わないと思っている。
 はちょっと困惑しているときもある。じっと俺が顔を遠慮なく見つめているときとか、が本を読んでいる隣でずっと髪を触っているときとか。ちょっとだけ恥ずかしそうにするけど、一度も「やめて」とは言われたことはない。いや、嘘を吐いた。一度だけ言われたことがある。料理をしているときにちょっかいをかけたら「包丁!」と一言で動きを制された。が正しい。それ以来、包丁を持っているときだけは近くで見るに留めている。見ていて飽きない。ずっと見ていられる。そんな俺の視線は痛いのかくすぐったいのか。どちらなのだろうか。
 は変わらず俺の部屋で寝ているし、眠る前に必ず一度はキスをする。まだ慣れないらしくてはじめてしたときと変わらない反応のままだから、なんか、それ以上に踏み込めなくて。あんまり無理もさせたくないからぐっと堪えてそのまま眠っているけど、ちょっと、そろそろ限界だった。俺だって普通の男だ。好きな子と一緒に寝てそういう気持ちを押さえ込み続けられるほど悟りは開けていない。
 そんなふうに少し悩んでいると、風呂場からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。しか俺以外にはいないのだから誰の足音かは分かるけど、こんなに騒がしい足音ははじめて聞いた気がする。何かあったのだろうか。ドアのほうを振り返った瞬間、がリビングのドアを勢いよく開けた。その姿を見て驚いた。髪をちゃんと拭いていないから濡れた髪が首筋にくっついている。何より、ズボンを穿いていない。オーバーサイズのパーカーから伸びる細くて白い脚が目に痛い。どういう状況だよ。試されてんのか? 思わずそんなふうに思ってしまった。
 そんなこととは知らずにが駆け寄ってくる。俺の腕を掴んで必死な顔で名前を呼んだ。だめだこれ。勘弁してくれ。

「どうした……というか、その格好、」
「お、お風呂場に! アレが出た!」

 泣きそうな顔をしている。かわいいな。いや、そうじゃなくて。アレってなんだ? 少し考えてから、ああ、と思い至る。ゴからはじまる虫な。はいはい。そんなふうに思いながらソファから立ち上がって、とりあえず髪を拭くように言った。あと服もちゃんと着るように。なんでも慌てすぎてズボンは脱衣所に置いてきたらしい。どんだけ苦手なんだよ。
 思わず、じっと見てしまう。細。折れそうなんだけど。俺が見ていることになど気付かないが「逃げちゃうでしょ!」と半泣きで背中をばしばし叩いてきた。こんなにストレートに助けを求められたのははじめてかもしれない。ちょっと良い気分。「痛えよ」と言いつつ殺虫剤と新聞紙、ちりとりを準備してとりあえず脱衣所に向かう。リビングで見送ってくれたの泣きそうな顔を思い出して笑ってしまう。何が怖いのかさっぱり分からない。まあ、にも素直に怖いと思えるものがあるんだな、と安心した。
 脱衣所の隅っこで静かにしていたソイツに殺虫剤を噴射。それから丸めた新聞でバンバン強めに叩いておく。ものの数秒でぴくりとも動かなくなったそれをちりとりに載せた。ちゃんと仕留めたって見せたほうがいいのだろうか。そのほうが安心するだろうし、ごみ箱に捨てて悲鳴を上げられても困る。そう思って亡骸を載せたちりとりごとリビングに戻ったら悲鳴を上げられてしまった。びっくりした。そんな大きい声も出せるんだな。はじめて聞いた。見せる必要はなかったらしい。「なんで見せるの!」と喚くが面白くて笑ってしまった。
 処分して戻っても、若干警戒されている。猫みたいだな。そうのんきに思いつつ「ほら、もういない」と何も持っていない手を見せる。はじいっとリビングの隅からそれを見て、ようやく一息吐いていた。そんなんで結婚する前どうしてたんだよ。翔太もひかりも虫はあまり得意じゃなかったはず。誰が頑張っていたのか。そう聞いてみたら「わたしが頑張ってたけど!」と恥ずかしそうに言った。

「今は賢二郎がいるから頑張らなくていいでしょ!」

 がようやくリビングの隅から立ち上がってほっと息を吐く。「ありがとう」と俺の顔をまっすぐ見て言った。
 そうだよ。頑張らなくていいよ。頑張りたいときは頑張ってもいいけど、そうじゃないときはもう、頑張らなくていいよ。嫌なことは俺に助けを求めればいいし、怖いものがあったら俺に頼ればいい。そうだよ。俺がいるから頑張らなくていいよ。やっと分かったか。
 の毛先から、ぽたりと水滴が一つ床に落ちた。が慌てた様子でしゃがんで持っていたタオルで床を拭く。いや、だから、無防備。見えてるんだけど、下着。もう少し自覚してくれ。せっかく我慢しているというのに。オーバーサイズのパーカーの胸元も少し開いてしまっているし、少し赤らんだ頬が、俺の瞳にはあまりにも扇情的すぎて。
 ぱっとが顔を上げた。「騒いでごめん」と苦笑いを向けてくる。なんか、罪悪感。「いや」と曖昧に返しながらに近寄って、目の前でしゃかんだ。無理だろ、さすがに。観念しながら手を伸ばして、の後頭部に回す。少しだけ引き寄せて、軽く触れるだけの口付けを落とした。が固まったのがよく分かる。それでも離してやれなかった。ゆっくり唇を離して、手も離す。真ん丸な目。白い胸元。濡れたままのの頭を乱暴に撫でて立ち上がって、一つ息を吐く。あんなふうに俺に助けを求めてきたのだ。少しくらいは特別になれたのだろう。無防備な格好でぽかんとしているの顔をじっと見下ろしたら、余計に気持ちが抑えられそうになかった。
 ハッとした様子でがそそくさと立ち上がる。やっと気付いたか。恥ずかしそうに「着替えてくる……」と呟くので、「髪乾かして先に部屋行っといて」と声をかけた。を押しのけてさっさと風呂に行こうとしたら「ズボンだけ取らせて」と苦笑いを向けられる。白い脚。細いけど、触ったら柔らかいんだろうな。たぶん。そんなことを思っていると「どうせ」と勝手に口が開いた。

「後で脱がせるつもりだから」



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 いや、さすがに強引だったか。若干後悔しながら髪を乾かしている。もうは俺の部屋にいるだろう。もう少し自然に、なんとなくの流れで持って行ければ一番よかったか。
 もちろん拒否する権利はある。脱衣所にあったのズボンを渡しに戻ったときに「嫌なら着といて」とは言っておいた。このあと部屋に行って、がズボンを穿いていれば大人しくそのまま寝るし、穿いていなければ、まあ、そういうことで。ドライヤーをオフにして、一つ息を吐く。なんで緊張してんだよ。童貞かよ。自分にツッコミを入れつつ脱衣所の電気を消して、廊下に出た。
 ゆっくりと階段を上がる。どっちだったとしても、第一声はなんて言えばいいんだろうか。もし拒否された場合、キスくらいはしていんだろうか。いろいろごちゃごちゃと考えているうちに二階に着いてしまう。階段を上がってすぐにある自分の部屋。嫌がられたくは、ないけど、無理をされるのも嫌だ。我が儘だな、俺は。
 意を決してドアを開けた。その向こうには、ベッドに座ってが顔を上げて俺を見ている。なぜか、ワンピースタイプの部屋着で。

「……嫌なのかいいのか、どっち?」

 判断が難しすぎる。「嫌なら着といて」と言ったズボンは穿いていないからいいとも取れるし、そもそも着替えているのだから拒否されているとも取れる。難しすぎるだろ、女心。俺から目を逸らして黙っているの隣に静かに座ってから、「どっちだって聞いてんだけど」と頬を指でつついてやる。顔が赤い。かわいいということしか分からない。どっちだよ、本当に。
 が黙ったままそっと俺に視線を向けた。その瞳が助けを求めるようにうるうるしているから、困ってしまって。「ん?」とだけ返して笑っておく。良くてもだめでも、言葉がほしい。俺にとっての正解はの言葉だけだから。そんなふうに思っている俺にが「あの」と小さな声で言ってくれる。できるだけ落ち着いた声で相槌を打った。

「賢二郎は、その、経験があるでしょう、女の子と」
「……その話題はあんまり、出してほしくないけど。まあ、そうだな」
「きれいな女の子だったでしょ、きっと」

 が小さく笑った。それを見て内心、馬鹿だな、と言ってしまうけど今は黙って聞くことにする。今日が最後だ。そんな馬鹿なことを言っても怒らないのは。
 これまで、気を遣ったことがないから手や足には傷がいくつかあるのだという。手入れもしていないから同年代の女の子に比べたらきれいじゃないし、それを見た俺がそういう気持ちにならないかもしれない、と言った。自信なさそうに視線を外される。きゅっと自分の右手を左手で握りしめて、が俯いた。
 きれいじゃないところなんてない。確かにの手は傷があったり荒れていたりするし、よく女性がおしゃれでするネイルをしたところなんかは見たことがない。でも、それがなんできれいじゃないってことになるんだよ。大事な家族のために頑張った手だ。それをきれいじゃないなんて誰が言うのだろうか。足の傷も、体にあるかもしれない傷も。が生きてきたというただの証だというのに。傷一つない体だろうが、傷だらけの体だろうが、であれば俺はなんだって気にしない。上辺のきれいさなんてどうだっていい。だからきれいだと思うのに。そんなこと、とっくに分かっていてほしいくらいだ。

「馬鹿だな」
「……ひ、ひどくない?」
「怒らないだけ優しいと思え」

 そんなふうに思われていたことがさすがに悔しくて、何も言わずに髪に触った。髪を触るだけでこんなに胸が痛くなるほど、俺はお前のことが好きなのに。分かれよ、そろそろ。なんで分からないんだよ。「馬鹿だな」とまた口からこぼれ落ちる。今日でもうそんな寝惚けたこと、言えないようにしてやる。そう思いながら見つめると、が黙ってしまった。何に対してか分からないけどびっくりしているらしい。かわいい。ほら見ろ、がどんな顔をしたってかわいいと思うような男だぞ、俺は。分かれよ、本当に。そう笑ってしまった。
 には態度では伝わらない。それはもうとっくに分かっているのに、分かってほしいと願ってしまう。そろそろ俺の我が儘加減にも気付いてほしい。これこそ、本当に我が儘だけど。

「高校のときにフラれたのに、九年越しに結婚してくれって頼んだくらいだぞ。それくらい好きなやつの体にある傷の一つや二つ見たくらいで嫌いになるかよ」
「……一つや二つじゃないよ?」
「体中傷だらけでも変わんねえよ。心配はするけど」

 髪から手を離す。その手をにそのまま向けて「で、どっち?」と聞いてみた。そろそろ本当に限界。だめならどうにかするから、結論がほしい。このどっちか分からない状態が一番つらい。そんな俺の顔を見てが「変なの」と、あろうことか笑った。おい、何余裕ぶっこいてんだよ。「変じゃねえよ」と呆れながら言ったら、が俺の手を取った。
 抱きしめた体は相変わらず小さくて華奢で、本当、触っても大丈夫なのかと不安になる。こんなに小さいのにちゃんと血が通っていて温かい。頬を首筋に寄せるとの匂いがした。好きだな、この匂い。
 の手が俺の服をきゅっと握ったのが分かった。抱きしめたままそっと体を倒してから、腰に回していた腕をするりと抜いた。その手をそのままのお腹の上に滑らせると、ほんの少しだけの体が震えて、顔が余計に赤くなった。どうしたらいいのか分からないらしい。目が泳いでいる。体の輪郭をなぞりながら唇を重ねると、俺の服を掴む手の力が強くなったのが分かる。それでいい。俺にだけ頼って、俺のことだけ見てればいいよ。これからずっと、それでいいよ。柄にもなくそんなことを思った。


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