十二月下旬。仕事の付き合いで仕方なく参加した飲み会。行く前に仲の良い上司に「ぶっちゃけ飲み会好きじゃないでしょ?」と言われたので即答で「家に帰りたいですね」と答えた。それを聞いていた女性の先輩が「新婚だもんね〜」とからかってきたのでそれにも即答で「そうです」と答える。まあ、だからって帰らせてもらえるわけもない。
 やんややんやと騒がしい会場の隅っこで比較的仲の良い人たちと集まって飲んでいたのだが、後輩がお偉方に絡まれていた。あいつ、なぜか年上の人に好かれるんだよな。末っ子オーラみたいなものが出ているのだろう。おじさんおばさん方がああいうタイプを放っておけない気持ちはなんとなく分かる。
 後輩がお偉方から酒を勧められているのを見て思い出した。あいつ、酒が苦手だって言ってたな、そういえば。大学時代に同輩が先輩に言われて一気飲みしたらその場でぶっ倒れたそうだ。それがトラウマだと話していた覚えがある。アルコールハラスメント。昨今は御法度であると誰でも知っているやつだ。でもあいつ、ああいうの断るの下手だからな。気付いてしまったものは仕方がない。周りに人たちに「ちょっと」と声をかけてから席を立った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 なんでこんなことに。眠たすぎる頭でぼんやりそんなことを考えていると、後輩は「白布さん本当にすみません〜……」と申し訳なさそうにしつつタクシーに乗せてくれた。お前のせいじゃない。節度が分からない親父どもが悪い。気にするな。そう言いつつほぼ寝そべるようにしてしまった。
 眠い。ともかく眠い。酔っても人に絡んだり騒いだりはあまりないが、とにかく眠くなる。これが意外と厄介で、周りの人からも「実は白布が一番面倒くさい」と言われることもある。眠いものは仕方がない。どこで寝ようが俺の勝手だ。数年前にそうむにゃむにゃ言いながら牛島さんの鞄の上で寝たのは大失態すぎる思い出だが。

「白布さん、家の住所教えてください」
「鞄……手帳……」
「鞄の手帳ですね。ちょっと失礼します」

 後輩が俺の鞄を開けて手帳を取り出した。見つけた家の住所を運転手伝えると「あ」と小さく声をもらした。何かと思えば「奥さん、きれいですね」と言った。思わず顔を上げると、手帳に挟んであったの写真を持っていた。勝手に見るな。何かが減るだろ。そう言ったら「ちょっとくらいいいじゃないですか!」と笑われた。

「いいなあ、結婚。俺、彼女ももう三年くらいいないんで羨ましいです」

 そう言いながら俺の手帳を鞄にしまってくれた。モテそうなのに意外だな。ぼんやりしながらそう返したら、一時期結婚したくないという気持ちが強すぎて女性を遠ざけていたことがあるのだという。そんなことをしている間に女性が離れていき今に至るそうだ。自分の父親が母親の尻に敷かれている姿を子どものころから見ていたから、憧れなんかちっともなかったと苦笑いをこぼす。

「友達の結婚式に行って、好きな子と結婚するってやっぱりいいな、なんて思ったんですよね」

 数年経ったらどう思うかは考えないことにして、と付け足す。俺の鞄をしめて座席に置くと「結婚ってどうですか」と興味津々に聞いてきた。調子に乗ったのか「白布さんって結婚とかしたくないって言いそうなタイプじゃないですか」と笑われた。どういうタイプだよ。内心ツッコミつつ、眠たい頭をぐるぐると動かす。閉じそうな瞼をどうにかこうにか開いてちらりと後輩を見る。

「毎日が夢なんじゃないかと思う」

 後輩が目を丸くしてから、少しだけ照れたような顔をした。なんだその顔。「白布さんがめちゃくちゃにデレてる……」と独り言のように呟いて、しばらくのことや家のことを聞いてきた。眠い。寝かせろよ。そう思うのに、聞かれたら答えたくなってしまって、結局あまり眠れなかった。
 そんなことをしている間にタクシーが停車したのが分かる。どうやら家に着いたらしい。ただ、体が泥のように重たくて起き上がる気力がない。後輩が肩を揺すりながら「着きましたよ」と教えてくるが、そんなことは分かっている。それで起きられたら苦労しねえよ。言い返す気力もない。後輩が一旦タクシーから降りて、俺が座っているほうのドアを開けた。運転手が「大丈夫ですか?」と半笑いで声をかけている。後輩が俺を引きずり下ろしつつ「あ、俺乗るので待っててください」と声をかけて歩き始める。眠い。今すぐに寝たい。
 どうにかこうにか肩を借りながら歩いていると、玄関が開いた音がした。その一瞬で脳みそが動きはじめる。今、まだインターホンが鳴らされる前にドアを開けただろ。状況的に多分俺が帰ってきたと分かったとしても迂闊すぎる。なんでこうもは迂闊なのか。そんなふうに思っていると、後輩がと話しはじめた。なぜか謝っている。だから、お前のせいじゃないって言っただろうが。
 ぐっと力を入れて顔を上げた。「歩ける」と言ってから後輩から離れる。が心配そうにあわあわとしているのが面白くて、眠気がどこかへ行った。後輩から鞄を受け取りつつ「気を付けて帰れよ」と送り出した。明日昼飯奢ってやろう。そんなふうに思いながら。
 それでも心配そうなに「眠くなるタイプだから大丈夫」と言っておく。じっと俺の顔を見てから「そっか」と少しほっとしたような顔をした。信じてくれたらしい。その顔を見て俺も安心した。あと、忘れないうちに「インターホンで誰か確認してから鍵は開けろよ」と注意しておく。こんな夜中に変なやつが来たらどうするんだよ。俺も翔太もひかりもいないのに。そう言ったら、なぜだかおかしそうに笑った。なんだその笑い。そう首を傾げつつも、かわいい顔だったからあまり気にせず家に入った。
 先に玄関に入って靴を脱ごうとしたら、鍵を閉めているの背中が見える。もう風呂には入ったのだろう。今日は遅くなるから先に寝てろ、と言って家を出たのに。待っていたのだろうか。いや、さすがに自惚れすぎか。でも、そうだったらいいのにな。そんなことをうまく回らない頭で考えていたら、知らないうちに後ろから抱きしめていた。が「ひゃっ」とびっくりした声を漏らして固まった。

「眠い。寒い」
「あ、あの、うん、分かった、分かったから、離れて。ね?」
「なんで」
「げ、玄関だし、あの、今はちょっと」

 戸惑っているのが面白い。未だにこういうことには慣れないらしくてついからかってしまう。体が熱い。顔も赤いんだろうな。いつまで照れてくれるんだか。そんなふうに思いつつ首筋に唇を当てる。シャンプーの匂い。好きだな。何でも好きだけど。
 それにしても、照れているというよりは困惑しているように見えてきた。なんでだよ。若干拗ねつつ顔を離して肩を掴んで体の向きを変えた。そのままキスしてやろうと思ったのに、ぺしん、と顔に手が当たった。なんでだよ。そのまま口元を手で覆われたものだから「なんで?」と言葉が出た。いつも嫌がらないのに。酒か。酒臭いのがだめなのか。そう思って「酒臭い?」と聞いてみるが、は恥ずかしそうに笑うだけで何も言わない。なんだよ。

「お、か、え、り〜?」
「……お、おかえり……ごめん、なんか」

 びっくりしすぎて転ぶかと思った。慌ててから離れて振り返ると、なぜか翔太とひかりがいて。の困惑した様子の理由が分かった。俺に黙ってたな、翔太とひかりが帰ってきてること。言えよ、こうなるって分かるだろ。そんなふうに恥ずかしさを噛み殺してから「ただいま」とだけ言っておいた。

「へえ、あたしたちいないとそんな感じなんだ〜?」
「ひかり、マジでやめろ。さすがにからかうのはあれだって」
「え、だってあたしたちお姉ちゃん取られてるんだよ? これくらいいいじゃん。ねえ、賢二郎さん」
「……取ってねえよ。忘れろ。ごめん」
「忘れな〜い」

 楽しそうなひかりから目を逸らしてに「なんで言わなかったんだよ」とクレームをつけておく。ここ最近の俺の言動からして、こうなる結末は予想できただろ。は照れながら「だってサプライズだったから」と言った。弟と妹を贔屓するのも程々にしてくれ。さすがに恥ずかしすぎて翔太とひかりの顔が見られない。二人を見ないようにとりあえず靴を脱いで自分の部屋に向かった。鞄、コート、ジャケットを適当に置いてからそそくさと風呂に向かう。最悪だ。いや、最悪じゃないけど。
 それにしても、翔太もひかりも帰ってくると教えてくれていればどうにか休みを合わせる努力をしたのに。いや、努力はしても合わせられないかもしれないけど。でも、せっかく帰ってきたなら時間を作りたかったな。脱いだ服を洗濯機に突っ込みながらため息をこぼす。風呂から上がったらどんな顔でリビングに入ればいいんだろうか。誰も傷付かない贅沢な悩みだな。そう少し呆れてしまった。
 酔いが回っても困るのでさっさと風呂から出た。適当に体を拭いて服を着て、若干気が重いままリビングへ向かう。どうやらまだ全員寝ていないらしい。いつもなら寝ている時間だろうに。まあ、たまにはいいか。翔太もひかりもと話したいことがたくさんあるだろうし。
 リビングのドアを開けて、一応「まだ寝てないのか」と声をかけておく。翔太が「うん」と小さく笑って返してきた。どうやらさっきのことはなかったことにしてくれているらしい。大人の配慮だ。申し訳ない。そう思いつつ、その配慮に全力で乗っかっておく。

「ねえねえ賢二郎さん」
「何?」
「お姉ちゃん、幸せだって。よかったね」

 と翔太が少しだけ不思議そうな顔をした。まあ、よかったね、という言い方は二人からすれば変に思えるだろう。俺からすればひかりからようやくもらえたお許しのようなものだ。思わず「そうか」と言いながら笑ってしまった。ちゃんと覚えてるよ。必ず幸せにします、って言ったもんな、俺。ひかりはどうやらそれを無理だと思っていたのだろうけど。そんな俺の顔を見てひかりが「うわー、ちょっとだけムカつく」と嬉しそうに言った。
 ひかりがあくびをこぼした。翔太がそれを見て「もう寝るか」と言って立ち上がる。ひかりも同じく立ち上がってから、「あたし明日デートで〜す」と上機嫌にピースまで向けてきた。どうやらうまくいっているらしい。相手がずっと片思いしていたタクヤだと俺は知っているから微笑ましく思ったが、と翔太はそういうわけにもいかないらしい。「拓也か」と翔太が忌々しそうに呟く。それにひかりが「逆に拓也じゃなかったほうが嫌でしょ?」と返すと、翔太はちょっと寂しそうな、それでいて悔しそうな顔をしていた。
 翔太も明日は地元の友達と遊ぶ約束があるらしい。帰りは少し遅いかも、とのことだった。明日は俺が帰るまで一人か。そんなふうに思っている俺の隣でが「楽しんできてね」と笑う。寂しいなんて表情はどこにもない。それに少しほっとした。
 翔太とひかりが「おやすみ」と言いながら出て行く。階段を上がっていく音を聞きながら「相変わらず元気で安心した」とに言うと「ね」と笑顔が返ってきた。階段を上がる音が止む。ドアがしまった音がかすかに聞こえてから、の髪に手を伸ばす。なんか、一日一度は触らないと気が済まなくて。はそんな俺をおかしそうに笑う。なんとなくムカついて「なんだよ」と軽く睨むと、「何でもない」と誤魔化された。その上に俺の手を避けつつ立ち上がるものだから、少しだけムッとしてしまう。なんで避ける。翔太とひかりがいるからだろうか。疑問に思っていると「じゃあ、おやすみ」とリビングで言われたものだからハテナが飛ぶ。もしかして自分の部屋で寝ようとしてるのか? そのまま聞いてみたら「そのつもりだけど?」と言われて眉間にしわが寄る。なんでだよ。いいだろ、夫婦なんだから。
 一緒に寝ていると気付かれたら恥ずかしい、というの意見は無視してをリビングから放り出す。階段に向かうように背中を押して「先に行ってろ」と言えば、「分かりました」と苦笑いをこぼして階段を上がっていった。
 歯を磨きに洗面所へ行ってから少し反省。好きだと言ってもらえた日から、少し強引になっている気がする。慢心だな。ひかりに怒られる前に態度を改めよう。歯磨き粉のふたを閉めて元の場所に戻したら、背後から物音が聞こえた。反射で振り返ると、洗面所のすぐ隣にあるトイレに翔太が入ろうとしているところに遭遇。歯ブラシをくわえながら何とはなしに見ていると、翔太がとんでもなく気まずそうな顔をして「あ、俺トイレ」と謎の宣言をしてトイレに入っていった。いや、そりゃトイレのドアを開けてるんだからトイレだろ。なんだ?
 不思議に思いながら歯を磨き、背後で翔太がまた部屋に戻っていった物音を聞く。振り返って「おやすみ」ともう一度声をかけたら、またしても気まずそうにしつつ「おやすみ」と返してくれる。何がそんなに気まずいのだろうか。そう少し考えて、ああ、と思い至った。いつまでも中学生みたいでかわいいよな、あいつ。そんふうに笑ってやる。
 部屋に戻ってに「翔太と鉢合わせただろ」と聞いたらまさにその通りだった。まあ、自分の姉が相手になると気恥ずかしいものなのだろうか。男兄弟しかいないしそういう状況に出くわしたことがないからピンと来ないが。
 スマホのアラームをいつも通り設定してから枕元に置く。に「おやすみ」と声をかけたら同じように返ってくる。電気を消してベッドに寝転ぶと、の呼吸音だけが俺の耳に届く。ちらりと時計を見て頭の中で計算。嫌がられたらやめればいい。そんなふうに考える自分に若干呆れてしまうが、これは申し訳ないが本能だ。止められるものならとっくに止めている。最近忙しかったし、と言い訳をしつつ上半身を起こしてに顔を近付ける。ぱちっと目を開けたに唇を重ねた。腰の辺りを少しだけ触った瞬間に、思いっきり頭を叩かれた。やっぱりだめか、なんとなく分かってたけど。

「痛いんだけど。嫌ならしないから、叩くな」
「ご、ごめん、びっくりして。まさかしようとすると思わなかったから」
「なんで?」
「時間が時間だし……何度も言うけど、翔太とひかりいるんだよ? 気付かれたら嫌でしょ」
「まあ気付かれたくはないけど」

 一応食い下がってみる。「どうしても嫌?」と聞いてみたら、やんわりと断られた。断られたらもちろんやめる。ちょっとだけ拗ねるけど。どれだけ自分勝手なんだよ。拗ねていることに気付いたらしいが頬を突いてきた。なんだそれ、かわいいな。性懲りもなくそんなことを考える自分に呆れながらも「妻が冷たい」とだけ言葉をもらしてしまった。

「ごめんってば。でも、二人がいる間だけだから。ちょっとだけ我慢して」
「我慢した先にいいことがあるなら我慢するけど」
「たとえば?」
「それは自分で考えろ」

 今はそれを楽しみにしておくことにした。がしてくれるならなんだっていいよ。そんなことは知らないから困っているんだろうけど。教えてやらない。
 ひかりが俺に言った言葉を思い出す。純愛じゃん=Bそれを鼻で笑ってやる。純愛なわけないだろ。こうやってやたら触りたくなるしちょっかいをかけたくなる。泣いている顔も案外かわいいと思ってしまう瞬間もあるし、スーパーのチラシを睨んで眉間にしわを寄せている顔を見て笑ってしまったりもする。大事にできているか、と自問すると、分からないという自答になってしまう。そんなきれいな言葉、自分に即しているなんておこがましくて言えない。
 が笑いながら「なんで最近くっついてくるの」と聞いてきた。まあ、自覚がないわけではないけど、結構ぐっと堪えていることが多いだけに指摘されたことには驚いた。知らない間に近くに寄っていってしまっているのだろう。なんで、と聞かれても。普通だろ、と答えたらは「何か不安なことがあるとかじゃないの?」と首を傾げる。不安なことなんて一つもない。あるわけがないというのに。

「特別な理由なんてないだろ。好きだから近くにいたいだけ」

 そういうもんだろ、分からないけど。の頭を撫でつつ「早く寝ろ」と言っておく。日付がもう回っている。少し寝相を変えてからゆっくり目を閉じた。
 どうしてこんなに好きなのだろうか、と無駄なことを考える瞬間がたまにある。顔が好きだとか性格が好きだとか、言ってくれた言葉が好きだとかなんだとか。いつ考えても答えが出ない。最終的には、ただ好きなだけなんだよな、というものだった。好きだから一緒にいたいし、好きだから触りたくなる。俺にとって好きという感情に理由はない。一緒にいたい理由にはなるし、触りたくなってしまう理由にもなるけれど。
 想いが通じるまでは、ただただが笑っているだけでよかった。健康に、何の苦労もなく。それだけで十分満たされていたし、それ以上のものはないと思った。好きだから。でも、想いが通じてからは同じように好きでいてほしくなって、そばにいてほしくなって、と欲張りになってしまった。好きだから。何もかもすべて、好きだからそうなってしまうのだ。本当に弱ってしまう。
 純愛かは分からないけれど、ただ、一直線にのことを愛しているということは胸を張って言える。じゃなきゃ、結婚してほしいと言わなかったし、こんな無茶な人生設計もしなかった。何もかも、のことだけが好きで、愛していて、誰にも譲れなかっただけだ。高尚な理由などどこにも存在しない。だから、まあ、混じりけがなくて単純という意味では純∴、なのかもしれないけれど。それでもやっぱり、俺にはそんなきれいな言葉で表せるものだと思えない。至極当然で当たり前の感情だから。
 突然、唇に何かが当たって驚いた。目を開けるとすぐそこに少しだけ照れているがいて、固まってしまう。そんな俺の顔を見て苦笑いをこぼしたが「ごめん。今度こそおやすみなさい」と言って顔が隠れるほど布団をめいっぱい被って背中を向けてしまった。
 聞きたい。俺がやけにくっついてくることに理由を求め、なぜ結婚してまで一緒にいようとしたのかに理由を求め、のことが好きだということ自体に理由を求める。そんなに聞いてやりたい。なんで今、キスした? そう聞いたらは明確に理由を答えられるのだろうか。きっと困ってしまうだろうと思う。だって、理由なんてないから。どこにも理由なんてものは存在しないし、必要がない。それをいつか分かってくれるんじゃないかと期待してしまう。
 後ろから抱きしめる。温かい体だ。入院してきた日に触った肩の冷たさはどこにもない。それが嬉しくて少し力を強めてしまった。でも、は何も言わない。受け入れてくれた。それがあなたなら、まあ別にいいよ≠ナはなくあなただけはいいよ≠ニいうことであると思いたい。

「賢二郎」
「何」
「好きだよ」

 願わくは、今の言葉に「俺も」と軽く答えられるくらい、当たり前に、理由など必要がないくらいに当然のものに成りますように。今の俺にはできない。まだ当たり前になっていないから。特別で、とても、得難いものに思えてならない。どれだけ噛みしめても足りないくらいの言葉に聞こえてしまう。
 笑ってしまいながら「知ってる」と呟いた。の手を握った。小さな手。好きだな。そんなふうに思いながら指を撫でたら握り返してくれる。温かい手だ。それをしっかり感じた。

「俺のほうが好きだけどな」

 今は、そう言っておく。理由などどこにもなくて、特別なことなどどこにもない。本当に何もないのだ。好きなだけ。この子の笑顔が、声が、言葉が、信念が、優しさが。ずっと俺は好きなだけだ。それ以外は何もない。たった一つの想いしか持っていない。そのたった一つしかないものを俺がもらってほしいと思うのもたった一人、だけ。ただ、それだけのこと。そんなふうに想いながら眠りに落ちた。


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