正直、ここ最近ずっと落ち着かない。そわそわする。遠足前日の幼稚園児みたいなそわそわ感だ。ガキかよ。自分で自分に呆れながらも、嫌な感じじゃないからやめられずにいる。
 調子に乗っている自覚はある。仕方がない。そりゃ、ずっと片思いしていた相手に好きだと言われたのだ。ここで浮かれないでどこで浮かれるんだ。これまでもそうだったけど、何をしていてもじっと見てしまうし飽きることがない。家計簿をつけている姿さえもかわいいなと思うほどだ。本当に浮かれている。でも、それくらい許してほしい。
 わけもなく手を触ってみたり、頬を突いてみたり、何かしているところをじっと観察したり。普通なら鬱陶しがられるようなことをたくさんしてしまう。正直、こっち見ろ、という意味でちょっかいをかけている自覚はある。が嫌がらないから最近はずっとの周りをうろちょろしてしまっている。少し反省。子どもじゃないんだから調子に乗るな。
 今日も今日とて、ほぼ趣味だという家計簿をつけている姿を眺めている。ペンの持ち方が好きだ。少し癖のある持ち方だけど、さらさらと文字を綴るリズム感が心地よい。考えるときに唇の辺りにペンをくっつける仕草が好きだ。レシートを几帳面に貼り付ける手付きが好きだ。言い出したらキリがない。一挙一動の何もかもが好きだと思えてしまうから。
 なんとなく悩ましげな顔をしているように見えた。いつもはじっと観察するだけに留めているが、今日は妙に構ってもらいたくなってしまった。なんて声をかけようか。ぐるぐると頭の中で考えている間もの横顔を眺めている。贅沢な考え事だ。本当に、浮かれている。


「あ、はい」

 が家計簿から顔を上げてこっちを見た。とりあえず名前を呼んでしまったけれど、なんて言おうか。ただ構ってほしかっただけ、とか言ったらさすがに困惑させそうだ。がペンを置いて立ち上がったから「いや、忙しいならいいけど」と言っておく。邪魔をしてしまった自覚はある。ちょっと申し訳なくなった。
 小さく笑いながら俺の隣に腰を下ろした。覗き込むように俺の顔を見つめてくる。きっとなんで呼ばれたのかを考えているのだろう。これまでは表情が読み取りづらくて何を考えているのか分からなかったけど、最近は少し違う。今は考えすぎて良くないほうへ予想を立ててしまっているのだろうと分かる顔をしている。家計簿をつけているところだったから、お金のことで何か良くないことがあったのではないか、とか思っているのだろう。それか俺の家族に何かあったのだろうか、とか。どれもこれも外れなわけだが。何でもかんでも理由を付けたがるのはもう癖になっているらしい。理由なく好きな子を呼んで何が悪い。いや、まあ、邪魔になっている可能性もあるから偉そうには言えないけれど。
 さて、なんという理由を無理やり付けようか。悪い想像ばかりしているのがよく分かるから少し笑ってしまう。もうしばらくこの顔を見ていたい気もするけれど、あんまり考え込まれても胸が痛い。

「大したことじゃないんだけど」
「う、うん」
「……抱きしめてもいいか」

 そうしたいことは嘘ではないしそういうことにしておくことにした。そんなことで、と呆れられるかもしれないがのことだから断りはしない、と、思いたい。じっと瞳の奥を見ていると、さっきまでの考え込んでぐるぐるしていた瞳が真ん丸になっていた。それから少しだけ変な顔をする。これ、笑いを堪えている顔だな。嫌がられてはいないらしい。ちょっとほっとした。
 瞬きをするたびに睫毛がかすかに光る。瞳も同じようにきらりとしていて、いつもまっすぐに見つめ返してくれる。揺れるたびに髪も美しく光るし、白い肌もつるりとつややかだ。何もかもが光って見える。本当、こんなふうに見えていると知られたら気味悪がられるだろうな。そんなふうに笑いつつ、喋らずに固まっているの膝を軽く叩く。「聞いてんのか」とちょっと申し訳なく思いながら聞いてみると、が小さく笑った。

「いいんだけど、わたしはじっとしてればいいの?」
「……いい」

 そういえば、勢いで抱きしめたり抱きしめられたりはあったけど、こうやって改まって抱きしめるのははじめてだ。なんか、変に緊張してしまう。平常心をどうにか保とうと一つだけ咳払いをしてしまった。じっとの顔を見つめていたら、不意に目を逸らされた。やっぱり嫌なのだろうか。少し不安に思ったが、その頬がほんの少しだけ赤らんでいるのが分かって、安心した。かわいい。恥ずかしがっている。そのうちまたこっちを見てくれるだろうと思っていたら、その通りまたこちらに視線を戻してくれた。
 抱きしめるだけでこんなに緊張するのは生まれて初めてかもしれない。そりゃ、はじめて女性を抱きしめたときは緊張したけど、それとは少し違うというか。強く抱きしめすぎてしまわないだろうか、なんて心配をしたことは今まで一度もない。それくらい気持ちが強いのだろうけど、いつかを押し潰してしまうんじゃないかとたまに心配になる。
 いつも、困る。を前にすると、曖昧に笑っていた高校生のを思い出してしまう。重なって見えてしまう。そのたびに好きな子とこうして一緒にいられるようになったんだな、と痛いほど感情が揺さぶられる。
 別に俺はを助けただとか、を救い出せただとか、そんな大それたことは思っていない。ただ、俺の前で笑っているだけで、どうしようもなく、たまらないのだ。この感情になんと呼べば良いのか分からない。恋だとか愛だとか、そういう言葉で収まるとは到底思えなくて。こんなに、なぜだか泣きたくなるような感情が俺に在ったなんて思いもしなかった。
 どうしてなのかとかどこか好きなのかとか、そんなことは本当にどうでもいい。理由なんていらない。理由なんてないのだ。無理やり理由を付けるならば、だったから、というだけだろう。やっぱり理由になっていない。きっと辞書をひっくり返してどんなに言葉を尽くしても一生言葉にはできない。そう思う。
 そっと右手を伸ばす。指先がの艶があって白い肌に触れる。見た目は白いけれど、触れるとその皮膚の下に血潮が通っているのだとしっかり分かる温もりがある。好きだ。この体温が、何よりも。頬を包み込むように触るとの顔がより赤くなった。きっと、のこの表情を見たことがあるのは俺だけなのだろう。これからも、そうであればいいのに。俺だけに見せてくれればいいのに。横髪を撫でながら手を後頭部に回す。きらめく髪が好きだ。ずっと触ってみたかった美しい髪は触るだけで指先から溶けてしまいそうなほど甘い香りがして、いつも夢かと疑ってしまう。もちろん、今も。
 体を引き寄せたらすんなりと俺に身を預けてくれた。左手を背中に回してぎゅっと抱きしめる。たぶん、結構強く抱きしめている自覚がある。は驚いているだろう。それでも力を緩められない。体温が、息づかいが、匂いが。どうしようもなく好きで、どうしても離れられなくて困る。後頭部に回していた右手も背中に回すと余計に力が強くなってしまった。あとで謝ろう。ちょっと反省しながら、の首元に顔を埋めた。
 一生このままでいられたらいいのに。そんな柄でもないことを思ってしまった。まあ、もしそんなことになったらにとっては困り事だろうけど。好きだと言ってくれたのは嬉しいけど、こんなに俺の気持ちが強いと知ったら気味悪がられるんじゃないかといつも冷や冷やしている。どうにか隠し通しているつもりだけど、は内心どう思っているのだろうか。未だにその胸裏はよく分からない。
 の手が動いた。気付いたときには、そっと俺の腰の辺りに手が添えられていて、正直とんでもなく驚いている。そんなこと、されると思わなかった。どうすればいいか分からなくてとりあえず、と言ったような動きだった。抱きしめ返そうとしたけど、どうしていいかよく分からなかったのだろうか。そうだとしたら、ちょっと、気味悪いくらい口元が緩んでしまう。見られたら本当にまずい。そう思ったけど、どうしても治まりがつかなくて。ゆっくり呼吸をしてからゆっくりと顔を上げた。どんな顔をしているのか見たくて。
 やっぱり、かわいい顔をしていた。こんなの見逃したら死にきれない。じっと俺の顔を見たまま様子を窺っているらしい。変なことをしたかな、と考えているのだろう。がすることの何一つ、変なことも嫌なこともないというのに。
 また首元に顔を寄せて、たまらず唇を当てた。それにびっくりしたの体がぴくりと震えたからとりあえず離れておく。は俺が唇を当てたところに手を当てて真っ赤な顔をしていた。たぶん、自分がそんな顔をしているなんて分かっていないのだろう。小さく深呼吸をしたのが分かって、かわいくてたまらない。

「一応言っとくけど」
「うん?」
「俺以外にはこんなことさせるなよ」

 それだけだ。俺が望むのは。最近は少し欲張りになってしまった自覚はあるけど、これだけは譲りたくない。俺じゃない男でもいいなんて、思ってほしくなくて。我が儘なのは百も承知だけど、それだけは、どうか。
 そんなふうに思っている俺を見透かしているかのように、がほんの少しだけ口角を上げたのが分かった。笑いを堪えている。なんだよ、なんかムカつくな。ちょっとだけを睨んで「なんだよ」とだけ言葉を出しておく。ここで笑ったら一生恨むぞ。そんなことを考えていると、がゆっくりと瞬きをした。

「賢二郎だけにしかさせないよ、こんなこと=v

 好きな人だから、と言葉が続いた。思わず、黙ってしまう。頬がまだ赤い。瞳が潤んでいる。まっすぐに俺だけを見つめている。が。
 賢二郎くんにだけは触らせてあげる、って言ってもらえるくらい好きになってもらわなきゃ=A母親の言葉だ。ずっと俺の中に在り続ける言葉。大事にしなくちゃいけない。好きな子なんだから。それを理解した子どものころのことを思い出した。男家族で育った俺にとって、女の子に優しくするというのは結構難しいことで。冷たい言い方をしたら泣かれるし、思ったことをそのまま言ったら怖がられるし、いつも通りの表情でいるだけなのに怒っていると思われる。そんな俺が好きな子を大事にするなんてことはできるのか、とげんなりしたものだった。
 俺なりに、のことを大事にしてきたつもりだった。それが果たして本人に届いているかは分からなかったけど、俺のすべてを懸けて優しく、特別大事にしてきた、と俺は思っている。でも、多少強引なところもあっただろう。からすれば意味不明な言動もあっただろう。泣かせてしまったこともある。怒らせてしまったこともある。嫌われたらどうしようと思ったけど、離れられなくて。閉じ込めているんじゃないかと反省もした。それでも、離してあげられなくて。
 瞬きをして、次に目を開けた瞬間。やっぱり好きだと思った。優しくしたいと思うのも、特別だと思うのも、目の前のただ一人だけだ。抱きしめるのもキスをするのも肌に触れるのも、だけだ。だけにしかしない。強くそう思った。だから、俺だけを許してくれたことが、嬉しくて。胸が痛いほどに愛おしいと思った。
 気付いたら唇を重ねていた。目を開けたままのと至近距離で目が合う。きれいな瞳だ。宝石でも埋め込まれているのかと思うほどに。いつまでも見ていられる。きれいだよ。宝石よりも何よりも。
 そっと唇を離してから、なんだか名残惜しくてまた軽く唇を重ねる。今度はすぐに離れてからの顔をじっと見つめると、今にも火が出そうなほど真っ赤になった。かわいい。ずっと、そのままでいてほしいくらい。

「俺もう寝るけど」
「……わ、わたしも、寝ます」
「なんで敬語」

 恥ずかしがっている。かわいい。腕を離してから立ち上がる。の頭に右手を置いてくしゃくしゃと撫でておく。離れても甘い匂いがする気がして、笑ってしまった。


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