目が覚めた瞬間、混乱した。隣に誰もいない。起き上がっても誰もいなくて、昨日のあれは夢だったのかと慌てた。いや、夢落ちとか最悪すぎるだろ。どんな顔してに声かければいいんだよ。いやでも本当に夢だった可能性は拭えない。がっくりしそうになった瞬間、枕元に視線を落としたら、髪の毛が落ちていた。長い髪だ。俺のじゃない。どう見てもの髪。確かにここで寝ていた、というのは、事実らしい。
 もしかしてやっぱり嫌だったとかか? まだ朝の八時前だ。俺の仕事が休みだとは知っているし、もう少しゆっくり眠れるだろうに、いない。慌ててベッドから出て部屋のドアを開ける。リビングからテレビの音が聞こえる。いる。ほっとしつつ階段を急いで下りてリビングのドアを開けた。コーヒーの匂い。は俺を見つけると「おはよう」といつも通り、とんでもなくいつも通り声をかけてきた。クソ、ムカつく。思わず呟きながらその場にしゃがんでしまう。ちょっとくらい意識しろよ、好きなんだろ、俺のこと。

「朝からカリカリしてどうしたの? とりあえずコーヒー飲む?」
「飲む。ムカつく。本当にムカつく」
「だから何が?」

 子どもみたいに喚いてしまう。なんだそれ。なんかこう、照れたりとかちょっと雰囲気変わったりとかしろよ。俺ばっかりかよ、空回ってんの。しかもあんまり眠れなかったし。当たり前だろ。好きな子が隣で寝てるだけで眠れないのに、寝顔かわいいし、なんか良い匂いするし。眠れるわけがない。そんな俺に対しては「ぐっすり眠れたよ」とか言うものだから、余計にムカついた。
 ふらふらとソファに歩いていって、勢いよく横になる。昼まで寝る。眠すぎる。二時間とか一時間しか寝てないんだぞ、こっちは。どっかの誰かが無防備なくせにかわいすぎてな。今日もまた馬鹿みたいなことを言っている自覚はあるが、本当のことだ。のことになると馬鹿になることはもう諦めている。
 コーヒーを机に置いてくれた。苦笑いをこぼしつつ隣に座ろうとしているのが分かって体を起こす。座り直してからコップを手に取って一口飲んだ。おいしい。一つ息を吐いていると、が「もうしないから、ごめんね」と言ってきた。なんでだよ。思わずを見てしまう。

「なんでそうなるんだよ」
「え、いや、寝不足で倒れちゃったら大変だし」
「いい。倒れない。気にするな」

 自覚がなさすぎる。好きな子と一緒に寝たくない男がいるわけないだろ、ふざけるのも大概にしろ。はきょとんとしてから「分かった」と笑いながら言ってくる。分かってないだろ、絶対。思わず「なんでそんな余裕なんだよ。ムカつくんだけど、本当に」と文句をつけてしまった。
 よく分からない、というような顔をしている無自覚らしい。好きだと言われたのは嬉しいけど、いまいち実感がないというか。本当に好きか? そんな面倒な男のようなことを聞いてしまいそうになる。動物とかに対する好きと一緒じゃないだろうな。少し疑っていると、が笑いながら、照れる気持ちはもちろんあるけど、それよりも気持ちを受け入れてもらえることが嬉しいから、と言った。なんだそれ。なんでそれ、が言うんだよ。言うなら俺のほうだろ。そんなふうに頭を抱えてしまった。
 俯いてから、突然の手が俺の毛先に触れた。びっくりして顔を上げると「あ、ごめん。なんとなく」と手を離して、もう触りません、というようなポーズを取られる。いや、別にいいんだけど。これまでから俺に触るようなことがあまりなかったから驚いてしまった。過剰すぎたな。反省しつつ「別にいいけど」と答えたら「いいの?」と嬉しそうな顔をされた。
 少し下を向いて触りやすいようにしてみる。が髪に触れてきた。髪をすくったり撫でたり。何が面白いのか分からないけど、飽きることなく触っているから俺も黙って待つ。
 ぱっと手が離れる。それから「満足した」と笑うので、「そうか?」とハテナを飛ばしながら返しておく。男の髪なんて触っても何も面白くないだろ。大して手入れもしてないし。そんなふうに思っていると、が何かを思い出したように笑った。
 が朝ご飯を準備してくれて、二人で一緒に食べた。どこかへ出かけるでもなく、二人でずっと話をした。これまでの休日も似たような過ごし方をしていたけど、今日はいつもより少しだけ距離が近くなった気がして、正直気が気じゃなかった。正直もうずっと抱きしめて離したくないくらいの気持ちだったけど、最初からそんなことをして嫌われたら元も子もない。ぐっと堪えて話すだけに努めた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 歯を磨き終わったを捕まえた。ずるずると引きずって自分の部屋に連れ込むと、不思議そうな顔をされてしまってまたがっくりする。とりあえず、当たり前のように自分の部屋に行かれたらさすがに悔しすぎて困るから連れ込んだのはいいが、嫌がられたらどうしよう。そんなふうに思いつつも出すつもりはなかったので電気を消してやった。

「明日は遅くなるから夕飯先食べてて」
「分かった。遅くてもうちで食べるんだよね?」
「できれば」

 ベッドに先に入って寝転んでもが入ってくる気配がない。立ったままのを見上げて「寝ないのか?」と聞く。ちょっとぼんやりした声で返事をしたが隣に入ると、ちょっとだけ何かを気にするような素振りを見せてきた。いいのかな、と思っているのだろう。表情で分かった。無視だ。いいに決まっている、と自分で分かるまで無視。そう決めた。
 寝返りを打って、背中を向けていたに顔を向けた。俺のベッドに髪が広がっている。やっぱり良い匂いするし、今日も眠れないな、これ。そう分かるのに出て行くつもりはこれっぽっちもない。
 が寝返りを打ってこっちを向いた。俺がのほうを向いていると思わなかったのだろう。びっくりされてしまった。顔が近い。には気付かれないように枕のほとんどを譲って自分は枕なしで寝ようとしていたとはいえ、それでもかなりの至近距離だった。いや、無理だろ。ちょっと申し訳なく思いつつ「何もしないけど」と前置きをした。自信はないけど。

「本当に少しだけ、近付いてもいいか」
「……余計に狭くなるけどいいの?」
「いい」

 返事を聞く前に体を近付けた。嫌ならぶん殴れ。怒らないから。そんなふうに内心ヤケクソになっている。一つの枕に頭を乗せれば必然的に体のどこかが触れてしまうくらいには近付く。布団の中での脚に自分の脚が当たる。冷え性なのだろうか。少し冷たくて心配になってしまった。
 それにしても、まっすぐじっと見てくる。観察されているのがよく分かって、とりあえず手での目を隠しておく。「あんまりじっと見るな」と呟くと、が「ごめん」と笑って。あんまり観察されると邪なことを考えていると気付かれそうだ。考えるに決まってるだろ。いや、そういう直接的なことじゃなくとも。抱きしめたいとか、手を繋ぎたいとか。思うだろ、普通に。言い訳を一通り自分の中で吐き出す。の顔に触れている手が、じんじんと熱い。が熱いんじゃなくて俺の手が熱いのだ。
 顔を近付けてから、の目を覆っていた手を離した。思っていたより顔が近くて驚いたのだろう。が瞬きもせずに真ん丸な目で見つめてくる。かわいい。笑ってしまった。自然に指で頬を軽く撫でてしまうと、ようやく、の頬が少しだけ赤らんだ。むに、と頬を少しだけつねってやる。「照れんの遅いだろ」と笑ってやってから、また頬を指で撫でる。いつまでも触っていられる。そんなふうに思いながらだと、表情が緩んでしまうのが自分でよく分かった。

「一応、念のため確認するけど」
「あ、うん? 何?」
「好きっていうのは、友達としてじゃないほうの意味でいいんだな?」

 ちょっと気になっていたことだ。俺の勘違いだったら恥ずかしくて死にそうだから確認しておく。はどういうつもりで俺が聞いてきたのかすぐ分かったらしい。なんだか申し訳なさそうな顔で言葉を探し始めた。
 の指が俺の頬に触れた。「なんだよ」と言ってもやめる気配がない。いくらでも触ってくれていいけど、質問には答えてもらわないと困る。答えによって、このあとどうするか決めるつもりだから。
 上手く言葉にできない様子だった。それでも懸命に伝えようとしてくれる声が、表情が、体温が、心の底から好きだ。いつも思うことだけど。嫌なところなんてない。今感じるすべてが好きだな、と思う。これまで人を好きになったことがないらしい。だから、今の自分の気持ちが恋とか愛とか、そう呼ばれる物なのか分からない、と。家族愛なのかもしれないし、恋愛感情なのかもしれないし。でも、友達に抱くものとは違うし、翔太とひかりに抱いているものとも違う。はっきりと、愛しいと思う。はそう、絡まった糸をほどくようにして話した。最後に「こんなことしか言えなくてごめんね」と苦笑いをこぼして。
 言葉のすべてをしっかりと噛みしめるように、ゆっくりと瞬きをした。それからまた目を瞑って「十分」とだけ呟く。それから目を開けると、がびくっと小さく震えて、顔を真っ赤にしたのが分かった。何をされるか、さすがに分かったらしい。
 手を離して、上半身を起こす。左肘をの近くについて見下ろす。髪が頬にかかっている。右手で髪を払っていると、が小さく息を吐いたのが聞こえた。それがしっかり聞こえるくらいの距離。瞳が少し潤んでいる。恥ずかしくなると涙が出るのだろう。今はこぼれるまではいかない。いつか泣かしてみたいな。こっそりそう思った。瞬きもせずに固まっている。「目」とだけ言ったら、余計に目が潤んだ。右手で肩を掴むと、ぴくりと少し体が震えたのが分かる。なかなか目を瞑ってくれない。どうやら、緊張して瞑れなくなっているらしい。そう分かったら笑ってしまう。その顔も好きだ。そんなふうにくつくつ笑うと、が悔しそうな顔をする。その顔、やっと見られた。

「そんな顔はじめて見た。いい気味だな」

 拗ねられたのが分かる。緩く胸の辺りを叩かれたので余計に愉快で。「もっと叩いていいよ」と言ったら逆にやめられた。叩いていいのに。そう呟いたら「もういい」とだけ言われた。なんだそれ。かわいいな。
 もう一つ、根に持っていることがある。顔を近付けてから「引き返すなら今だぞ」と言ってやった。あれ、相当ムカついたんだぞ。そう視線で伝えると、なんだか観念したようにの強張っていた顔が柔らかくなった。なんだ、もっと悔しがれよ。ちょっとだけ残念だった。
 鼻先が触れるほど近くに瞳がある。目を瞑れ。そうじっと瞳を見つめるけどなかなか瞑ってくれない。なんだよ。拗ねるぞ。そのうち額が触れ合うと、の呼吸がほんの少しだけ震えたのが分かった。たぶん無意識なんだろうけど、俺の服をぎゅっと握りしめている。その手もほんの少しだけ震えているのが分かった。いちいちかわいいな。これだけで治まるだろうか。落ち着かせるように小さく呼吸をしたら、俺も震えてしまった。きっとに気付かれただろう。笑われるかと思ったけどそんなことはなかった。の体から力が抜けたのが分かって、それから、ゆっくりと目を瞑ってくれた。
 そっと唇を重ねたら、の肩が震えた。ぎゅっと目を瞑っている顔がかわいくて目を瞑れない。あー、どうしよう。離れたくない。いつまでもこうしていられる。こんなふうに思ったの、はじめてだな。ぼんやりそう思っていたら、強張っていたの肩から力が抜けていく。ぎゅっと力を入れて瞑っていた瞼も和らいで、俺の服を掴んでいた手ももう震えていなかった。泣きそう。好きになってくれたんだな。そう実感した。
 離れてすぐにの視界を遮るように頭を撫でた。顔をそっぽ向かせるように力を入れたら「ちょ、何」と慌てた様子で手を掴んでくる。力で負けるわけないだろ。絶対顔を見られたくなかった。顔を見られないように頭を掴んだまま体を近付けて、ぎゅっと抱きしめる。これで見えないだろ。しばらく弱く抵抗して抜け出そうとしていたけど、そのうち頭を寄せてくれる。勝った。そんなふうに満足しつつ、目を瞑った。


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