とりあえず、名前呼びに慣れてくれ。そこをツッコんでおいた。は「さっきわたしのこと名字で呼んだくせに」と目を逸らす。さっきのはわざとだ。ずっと名前で呼んでるだろうが。そう言ったら笑ってくれた。
 が「じゃあ、おやすみなさい」と笑いながら言って去ろうとするから肩を掴んだ。まだだ。翔太とひかりの部屋に入った理由が分かっていないし、その笑い方は何かを誤魔化すときのものだから。「まだ何かあるだろ」と言えば、やっぱり誤魔化そうとしてくる。「言うまで離さない」としっかり肩を掴んだら、が口ごもる。かわいい。そんなふうに見ていると、ちょっと悔しそうな顔をされた。それもかわいい。

「いや、あの、大したことじゃなくて」
「なら言えるだろ。なんだよ」
「笑わない?」
「何かによる」
「……なら言わない」
「冗談だって」

 は終始少し恥ずかしそうに、悔しそうにしていた。若干の困惑も見える。それでも離してやるつもりはない。話すまで絶対に。そうまっすぐ見つめていると、また少し顔が赤らんだ。

「眠れなくて」
「眠れない? 何かあったか?」
「お、落ち着かなくて」
「なんで?」

 眠れない。落ち着かない。やっぱり体調が悪いのか? 顔を覗き込んで見てみるけど、恥ずかしそうな表情と赤い顔がかわいいことしか分からない。だめだ、医者として終わった。はじまる前から終わったんだけど。じいっと観察しながらそんな馬鹿なことを思っていると、目を逸らされてしまった。
 翔太とひかりの部屋に入った理由なんて思い当たる節が一つもない。あるとすれば、二人のことが恋しくなってしまったか、だけど。だからって勝手に部屋に入るような子じゃない。何かしら困ったことがあったから入ったのだろうけど、とんと思い当たらなかった。

「なんだよ、言わなきゃ分からないだろ」

 じっと瞳の奥を見る。ふと、の赤かった顔がいつも通りに戻った。潤んでいた瞳もいつも通りきらめくだけになって、表情も戻った。急にどうしたのだろうか。じっと俺を見つめたまま黙っている。ひらひらと顔の前で手を振ってみる。「起きてるか?」と思わず笑ってしまった。もしかして、怖い夢を見たから、とかな。からかうつもりで「一人で寝るのが怖くなったのか?」と額を弾いてみた。は額を右手で押さえて、ちょっとだけ驚いた顔をする。たぶん、俺の様子が変だからだろう。その自覚はある。でも、今日くらい許してほしい。そりゃ変にもなるだろ。

「怖いなら一緒に寝るか」

 もう一回照れた顔が見たくて、そう言ってみた。余裕で笑っている俺を、横から突き刺すようにがまっすぐな瞳で「うん」と言った。うん? 何が? そんなふうに固まってしまいながら、自分の発言を思い返す。怖いなら一緒に寝るか。うん。うん、って。分かった瞬間に瞬きをしてから、から目を逸らす。嘘だろ、いや、冗談だよな?

「好きな人がそばにいないと眠れなくなっちゃった」

 少し笑ってそう言った。顔を見ることができない。絶対かわいい顔をしていると分かるのに。声だけで破壊力は十分だ。これ以上乱されたら心臓が持たない。勘弁してくれ。
 視線だけに向けた。笑っている。面白がってるだろ、絶対。とりあえず「急すぎるだろ」と恨み言を呟いておく。だって、こんなの、夢にも見たことがない。好きだと言ってくれただけでもう、十分すぎるんだけど。

「やめたほうがいいならやめようか?」
「……いや、やめなくていい、けど、小出しにして」
「それ、久しぶりに会ってすぐ結婚を提案してきた賢二郎が言う?」
「耳が痛い、やめろ」

 全くその通りだ。俺が言える立場ではなかった。断られることを前提で言ったことだし、あのときは俺も必死だった。もう少し配慮した言い方をできればよかったんだが。そんな気遣いが俺にできるわけがない。だから、承諾してくれたときは本当に驚いた。それほども切羽詰まっていたのだろうけど。とりあえずは全部、十年以上片思いした男が拗らせた結果だと思って許してほしい。そう言っておいた。
 咳払いをしてからドアを開ける。「どうぞ」と言ったらが物珍しそうにじっと顔を見てきた。馬鹿にしてるだろ。ちょっと睨んでから「追い出すぞ」と心にもないことを言ってしまう。はそれを笑って「ごめん」と言い、部屋に入った。
 隠し事はなしだ。そう思ってこの部屋が空き部屋だと言っていたのは嘘だろう、と言ってみた。は面食らったような顔をしてから「どうして?」と聞いてきた。机の引き出しに入れてある書き損じの履歴書。それを取り出したら とても驚いた顔をしていた。書き損じている場所、中途退学と間違えたであろう「卒」の字を指差す。は少し表情を強張らせて、履歴書を見つめていた。たぶん捨てれば良いのに、と思っているのだろう。捨てるかよ。そう思って、またきれいに折りたたんで引き出しにしまった。

「もう嘘吐くのなしな」

 いろいろと。まだ俺が知らないこともあるだろうし、自身も嘘を吐いた自覚がないこともたくさんあるだろう。でも、今日からは全部なしだ。俺の言葉には素直に「うん」と言ってくれた。
 お互いベッドの近くに立ったまましばらく黙ってしまう。なんか、、全然緊張している感じもないしどきどきしてる感じもないな。それはそれで悔しいんだけど。普通、男女が一つのベッドで寝るってなったら多少は緊張してもらえるものじゃないのだろうか。緊張どころか、普通に眠たそうにしているように見えるんだけど。ちょっとがっくりしつつも、とりあえず断りは入れておくことにする。

「……先に言っとくけど、何もしないし何かするための準備もないから安心して寝ろ」
「別に何も言ってないよ」
「俺が居たたまれないだけ。聞き流せ」

 本当にそういうものは一切置いていない。間違ってもそういうことをするつもりはなかったし、何よりそういうものが部屋にあると疑われる気がした。それが何より一番心外だったから、潔癖なほどそういうものは部屋に置いていないのだ。
 そんな俺に対してが笑って「そういうつもりだったわけじゃないけど、嫌ではないよ」と言った。心臓が飛び出るかと思った。本当、こいつ。いろんなところがぐらつきながら「お前、本当、俺を振り回すの好きだよな」とだけ言い返しておく。それ以上はもう何も言えなかった。というか何も言うな。墓穴を掘りそうだから。
 吹っ切れたらしいがベッドに押し込んできた。勘弁してくれ。一応男なんだけど。そう思いつつとりあえずベッドに横になる。にとってはそんなことは頭にないのか、それとも信頼してくれているのか、そもそもどうでもいいのか。どちらにせよ、あまり意識されていないことはよく分かった。くそ、なんだそれ。そう思っている俺の隣に普通に入ってきたは満足そうに笑っている。なんだその顔。かわいいな。


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