一週間ぶりに帰宅。ほっとしながら「ただいま」と言ったら、の様子がなんとなく変だった。ちょっとどもっていたし、変な顔をしている。なんだ? 体調が悪いとか怪我をしたとかそういうわけではなさそうだけど。怪訝に思いながらじっと見てみるけど、分からない。が笑って「何?」と聞いてくるものだから「いや」と誤魔化しておく。勘違いか。のことになると多少過敏になっている自覚がある。束縛しているように思われても嫌だから、確信が持てるまでは黙っておこう。
 何事もなかった、と報告を受けた。言われた通りにしていたし、あれ以来訪問販売も来なかったそうだ。それならいい。いいんだけど、今後も気を付けるように。そう言ったら「はい、分かりました」と笑った。くそ、かわいいな。いちいちそう思ってしまう自分にそろそろ呆れてきた。
 もう十時を回っている。夜は新幹線の中で食べたし、風呂に入るか。そう思っているとが「お風呂沸いてるよ」と言った。有難いことだ。もう少し肩の力を抜いてくれてもいいのだけど。そんなことを考えながら「じゃあ入る」と伝えて、リビングから出た。
 疲れた。本当に。のことが心配すぎて気疲れしたし仕事自体も慣れないことが多くて大変だった。ぐったりしつつ服を脱いでいると、脱衣所に置いてあるごみ箱の中にカラフルな包装紙が捨てられていた。あれ、これって。そうしゃがんで見ると、ひかりが好きな入浴剤の袋だ。が気分転換に使ったのか、ひかりが帰ってきていたのか。後者な気がするな。後で聞いてみよう。そう思いながら風呂場の扉を開けた。
 それにしても、のことが気になる。あの微妙な顔。もしかして、帰ってきてほしくなかった、とか? うわ、それリアルだな。ちょっとへこみつつ顔を湯船に浸ける。よく言うよな、なんだっけ、亭主留守で元気が良い、だっけか。普段から家を開けて家に金を入れるだけでいいってやつ。いやまあ、それでもいいという気持ちで俺は結婚を提案しているから、そう思われても仕方ないけど。やっぱりへこむ。それだったら本当にどうしよう。
 湯船から顔を上げる。いや、どうしようもないだろ。そりゃ、家族で住んできた家に入り込んできた好きでもない男なんか家にいないほうがいいに決まってる。はあ、へこむな。一週間家を空けたからもそれに気付いてしまったのかもしれない。へこむ。さっきからへこむ、しか言葉が出てこない。脳みそが死んでるな。今日はもう考えないでおこう。
 無心で髪と顔と体を洗って、無心で体を拭いて着替えて、全くの無表情で脱衣所を出た。そのままリビングのドアを開けて中に入った。はソファに座って雑誌を読んでいる。その背中に「ひかり帰って来たのか?」と声をかけながら近付く。入浴剤の袋があったから、と言えばは「う、うん、土日に帰って来たの」と言った。なんでどもった? 首を傾げつつ隣に座る。俺に会いたがっていたらしい。なんだそれ、かわいいな。若干照れつつ「あっそ」とだけ返しておいた。
 そういえば足。捻ったところ大丈夫なんだろうか。一週間以上経ったとはいえ違和感があったり痛みがあったりしたら一回病院に行ったほうがいいし。じっと観察している俺に気付いたらしい。「大丈夫だよ」と笑われた。いや、信じられない。本当かよ。よく観察してみたけど、とりあえず赤くもなっていないし腫れてもいない。とりあえず大丈夫、か。一応気にしておこう。
 明日は休みだし、どこか行きたいところとかあるだろうか。きっとスーパーくらいしか行っていないだろうし。そう思って「明日、どこか行くか?」と聞いてみる。買い物に行きたいとか、観たい映画があるとか。そういうの、言われてみたいというか。そんなふうに淡く思っていたが、からは「帰って来たばかりなんだから休んだほうがいいんじゃないかな」と言われてしまった。まあ、そう言うと思ったし、行きたいところがあれば俺じゃなくて友達かひかりを誘うか。「まあ、じゃあ」とだけ返して目を逸らした。なんで勝手にへこんでるんだか。
 がもう寝る、と立ち上がる。がいなくなるなら俺もここにいる意味はない。なら俺も、と一緒に立ち上がる。
 テレビを消して、が廊下に出てからリビングの電気も消した。「おやすみ」と声をかけて階段を上がろうとしたのだけど、俺が上がるより先にが「おやすみ」と言いながらなぜだか階段を上がっていった。不思議に思いつつ思わず足を止めてしまう。翔太かひかりの部屋にでも行くのか? の部屋、リビングの目の前にある和室だろ。首を傾げていると、が階段を上がりきってすぐにある俺の部屋のドアノブを握った。
 ああ、なるほどな。俺のベッドで寝ろ、という言いつけをちゃんと守っていたらしい。笑ったら絶対拗ねる。堪えつつ様子を見守っているとが「あっ」と声を出した。気付いた。すぐにこっちを見たが薄暗い廊下でも分かるくらい顔を赤くさせている。かわいいな。余計に笑いを堪えていると、静かにドアノブから手を離した。

「……ま、間違えました」
「いや、別にいいけど」

 堪え切れなくて若干笑いがもれた。階段を上がりつつ「寝ていってもいいぞ」とからかってやる。割と本気だ。別に俺はいい。笑っている俺から目を逸らして、は恥ずかしさを隠すように早口で謝って階段を下りていった。そのまま和室の戸を開けて慌ただしく部屋に入ってしまう。まだ笑いが止まらない。かわいすぎるだろ。なんだそれ。そう思いながらドアを開けた。
 部屋の中はが空気の入れ換えをしてくれていたこともあってか何も変わりなかった。どうやら枕カバーやシーツ、布団のカバーまでしっかり洗濯されているらしかった。
 持っていたスマホが震えた。見てみるとひかりからの着信。こんな時間に? 寮の消灯時間はどうした。不思議には思ったが緊急連絡だとまずいしすぐに出た。「もしもし?」と言う俺にひかりが小声で「出張お疲れ様〜」と言う。やっぱり消灯時間過ぎてんじゃねえか。大丈夫かよ。そんなふうに苦笑いをこぼすとひかりは「大丈夫、同室の先輩にどうしてもってお願いして協力してもらってるから」と言った。悪い先輩が同室になったらしい。変わらないかわいい妹でいてくれよ。一応注意しておいた。

『ねえねえ、お姉ちゃんと話した?』
「話? 何の?」
『……あ〜お姉ちゃん、あたしとの約束破ったあ〜』
「何の話だよ」

 ひかりがしくしく泣き真似をした。約束? 話? 何のことかさっぱりだが、ひかりの言い草からが俺に何か話すことがあったらしいことを悟る。帰って来たときに微妙な顔をしていたのはそのせいか。言うタイミングを計っていたのかもしれない。ひかりに「どういう話?」と聞こうとしたが「あたしが言っても意味ないもん」と楽しそうに言う。なんでこんなに上機嫌なんだよ。よく分からない。首を傾げていると、ひかりが「いい?」と少しだけ大きな声を出した。そのあとすぐに「あ、ごめんなさい」と誰かに謝る。同室の先輩だろう。なんだ、結構厳しくしてくれる人だな。安心した。ひかりはすぐに咳払いをしてから、「いい?」と小声で言い直す。

『お姉ちゃんから賢二郎さんに大事な話があるから、お姉ちゃんが話そうとしてきたらちゃんと聞いてね』

 それだけ、おやすみなさい、と一方的に電話を切られた。言い逃げかよ。内容も何も教えてくれなかったし、本人に聞くしかないな。でも今日はもう部屋に戻っているし、明日聞くか。
 そのときだった。ギシ、と床が軋んだような音。今の音、多分ひかりの部屋の前を通ったときに鳴る音だな。だろう。集中して耳を澄ましていると、かすかに足音が聞こえてきた。何してるんだ? 翔太の部屋の前まで足音が近付いてきて、そのままドアが開いた音。翔太の部屋に入ったのだろうか。何のために? その数十秒後にはまたドアが開いた音がした。そうっと廊下を歩いているらしい。こっちに向かって来ている。用を終えて階段を下りようとしているのだろうか。なんだったんだろうか。そう思っていると、足音が止まった。たぶん俺の部屋の前で。なんだ? 用があるなら声をかけてくればいいのに。そう思った瞬間、あ、と思った。大事な話。それだろうか。
 向こうからドアを開ける気配はない。そうっとドアに近付いて、開けてみた。すると、思った通り階段を下りようとしているがそこにいて。俺の顔を見てとんでもなくびっくりした顔をしている。

「何してんださっきから。何かあったか?」

 翔太とひかりの部屋に入っただろ、と言ったら余計に驚愕の顔をされた。図星か。何のために? 何か用がなければはそんなことをしない。何でもいいから理由を話してほしくてじっと顔を見てしまう。あと、大事な話も、気になるし。良い話でも悪い話でも、早めに話してくれたほうが助かるんだけどな。
 何でもいいからとりあえず言ってみろ、と言ってみた。は口を少しだけ開けたままじっと俺を見つめる。月には雲がかかっているのに、満月みたいに真ん丸な黒目が光る。薄暗い中でもきれいな髪だと分かる艶やかな光と、きっと陶器のようになめらかなのだと分かる白い肌。毒だ。夜に好きな子の顔を見るのは、正直、男だから良くないことを考えてしまう。には絶対言わないけど。
 そのときだった。がきゅっと自分の手を握りしめた。下唇をぎゅっと噛んで、ほんの少しだけ、頬が赤くなった。きらりと光る瞳がほんの少しだけしっとりと潤んだ。その表情は、正直、嫌いな物を見たときや見たくない物を見たときとは真逆のものに思えて。まるで、その、何かを恋しく思っているような、そんな、今まで見た中で、一等かわいい顔だった。
 いや、まさか、な。そう思うのに。「大丈夫、何でもない。おやすみ」と逃げようとするの手を掴んでしまった。自分で分かるくらい強い力で。それに驚いたが振り返るとほぼ同時に、月にかかっていた雲が晴れて、優しい月明かりが廊下に差し込んだ。すべてを照らし出すように、逃がさないように。月明かりに照らされたの顔は、俺が思っていたよりずっと、真っ赤だった。熱があるとかそういう赤さじゃない。それがどうしてなのかは、さすがに見れば分かった。

「言ってくれたほうが、嬉しいんだけど」

 がほんの少しだけ不思議そうな顔をしたから、大事な話があるとだけ聞いている、と伝えた。の顔がさらに赤くなった。たぶんひかりのことだと分かったのだろう。そんなに顔を赤くするような大事な話って、何。手を掴む力をさらに強めた。心臓がうるさい。期待するな、違ったらへこむのは自分だぞ。そう思うのに、心臓の高鳴りが止まらない。
 こんなシーンを何度も夢に見た。何度も妄想した。あるわけないけど、と最後に付け足して。告白されたいわけじゃない。手を繋ぎたいとかキスしたいとか体に触れたいとか、そんなことより何より、想いが伝わればいいのに、といつも思った。この想いがに届いて、が染まってしまえばいいのに。そうずっと思った。返ってこなくていい、なんていうのは嘘だ。ただかっこつけただけ。好きな子に好かれたいなんてこと、誰だって思い描いたことがある当たり前の願望だ。

「あのね」

 の声がほんの少しだけ震えていた。揺れる瞳の光と同じくらい繊細に。月明かりが眩しいほどに夜空は晴れている。雲なんてどこにももうない。きっと俺の背後にある窓から美しい星空が見えるのだろう。それが分かるくらい、の瞳や髪や肌が、きれいに光っているから。きらきらと、星屑を生み出すように。
 緊張してしまう。でも、嘘だろ、どうせ夢だろ。そうに違いない。こんなこと、現実に起こるわけがないのだから。何を言われるか皆目見当がつかないふりをした。ふりをしているのに、瞳の奥が熱い。の手を握る力が全然抜けてくれない。どんなに自分を誤魔化しても無駄だった。嘘だろう夢だろうと思っても、分からないふりをしても。この瞳が、手が、俺の何もかもが、目の前にいるに、どうか言ってほしい、と叫んでいた。その瞳をはまっすぐに見つめ返してくれた。その手をはしっかり握り返してくれた。どこも、拒絶などしていなかった。

「わたし、白布のことが、好きだよ」

 きっともう、今日の夜空に雲はかからない。月はずっと優しく輝くし、星は静かにきらめき続ける。今日だけじゃなくこれからの夜はずっと。そんな夢みたいなことを思った。
 が小さく笑って「ごめんね」と言った。片手で自分の頭をかく。ゆらりと揺れた髪がスローモーションに見えた。それから、俺の顔をじっと見ているその瞳の瞬きさえも、スローモーションに見えてしまう。その何もかもがかわいくてたまらない。
 好きな子なら、なおさら大事にしなくちゃ。母親が昔に言った言葉を思い出した。自分なりに大事にしていたつもりだったけど、上手く伝わらなくて相手を苦しめた。大事にすることがこんなに難しいと思わなくてどうすればいいかずっと悩んでいた。俺はそういうの得意じゃないから、と半ば諦めようとさえした。
 ちゃんと好きって伝え続けたらきっと返ってくるよ。ひかりの言葉を思い出した。返ってこないということは、俺の伝え方が足りないってことなのだろうか。そう思った。大事にするのも好きだと伝えるのも苦手なんじゃ、どうしようもないな。そんなふうに思ったけど、本当に返ってきたらいいな。そんなふうに思って自分なりに伝えることはやめなかった。
 これは、ちゃんと、伝わったと、思っていいのだろうか。視界がほんの少しぼやけた。ダサい。ここで泣くかよ、普通。俯きそうになった俺の顔にが手を伸ばしてきた。バレてる。ダサい、本当に。
 が伸ばしてきた手を掴んだ。そのままぐいっと引っ張ったら、いとも容易くの体が揺れた。すっぽりと俺の腕の中に収まった体をぎゅっと抱きしめると、勝手に涙が出そうになった。ダサい。ダサいけど、これ以上に求めたものはない。泣いて何が悪い。

のことが好きだ、ずっと」

 笑ってしまった。嬉しくて。じんわりと伝わってくるの体温が愛おしい。ずっと知っていたもののように思えるし、ずっと探していたもののようにも思える。小さく笑ったがそっと背中に腕を回してくれた。こんなことってあるんだな。夢だったらどうしよう。唇を軽く噛んでみたらちゃんと痛くて、また笑ってしまった。


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