出張六日目。他院での勉強会と多少の研修をしているときだった。院内を歩いているときに聞き覚えのある声が聞こえてきた。誰だったか、と目を向けて思わず体が固まった。やばい。逃げよう。そうすぐに目を逸らして歩いて行こうとしたのに。

「白布くん?」

 心臓が嫌な音を立てた。やばい。バレた。元原さんだ。大学四年生のときに付き合った元カノ。ゴム穴空け事件で別れた、俺史上最悪の出来事を起こしやがった張本人だ。なんでこんなところに、と思ったがよくよく考えれば元原さんも医師免許を取って医師として働いているのだからありえない話ではない。関西のほうにいるとは知らなかったけれど。
 ギギ、と鈍く振り返って「あ、どうも」と軽く頭を下げる。立ち去ろう。さっさと逃げたほうがいい。この人、本当にやばいから。そう思っていると元原さんがとんでもなく困ったように笑って「ごめん、何もしないから。大丈夫よ」と言った。信じられるかよ。既成事実を作ろうとした上に不法侵入、待ち伏せ、付き纏い。そんなことをしてきた相手を簡単に信用できるほどお人好しではない。
 元原さんが首から提げているネームプレートを見て思わずハテナが飛んだ。名字が違う。加藤? でも下の名前が早苗だから元原さんで間違いない。それから左手を見ると結婚指輪をしていた。

「結婚したの。二年前にね」

 笑って指輪を見せてくれた。そうだったのか。それならまあ、少しは安心した、けど。気まずいことに変わりはない。「ああ、おめでとうございます」と曖昧に言ったら元原さんも「白布くんもね」と指輪を見ながら言ってきた。
 なぜ俺は女性に流されやすいのか。気付けば外のベンチに腰を下ろして元原さんと並んで座っていた。どういう状況だ、これ。昔のことだからもう元原さんの中ではなくなったことになっているのだろうか。俺からしたら冗談じゃないって感じなんだけど。

「ずっと、一言文句を言いたくて」
「は?」

 思わず声が漏れた。文句? この状況で? 迷惑行為をしてきたあなたが? そんな俺の態度がすぐに分かったらしい。元原さんは大笑いして「その節は本当にごめんなさい」と言った。笑いながら言われても申し訳なさが伝わってこないんですが。

「もちろん私が悪いに決まってるけどね、でも、一つだけ教えてほしいの」
「……なんですか」
「白布くん、片思いしてる子がいたでしょう」

 びっくりした。思わず押し黙ってしまうと「やっぱり」と元原さんは笑った。

「私がその子に似ていたんだろうけど、私を見る目が懐かしそうだったから。寂しかったんだからね」

 こつん、と腕を叩かれた。思わず「すみません」と言ってしまう。元原さんは「あはは、何年か越しにまた傷付いてるんだけど」と余計に笑った。それから、当時元原さんは医者の家系だからと両親から成績のことをいつもうるさく言われていたことや、お姉さんの彼氏が元原さんに言い寄ってきていたことからお姉さんとの仲が険悪になっていたことを話してくれた。どれもこれも聞いたことがない話だ。そういう家族の問題があって、少し、俺に依存していた自覚があると情けない顔をして言った。

「白布くんは今まで付き合った誰よりも優しかったけど、好きな子≠ノ向けた優しさなんだなあと思ったら、悔しくて。意地になっちゃった。ごめんね」
「……ものすごく怖かったです」
「だよね。本当にごめんなさい、反省してます」

 元原さんは俺の結婚指輪をじっと見てから「相手、そのときの子?」と変わらない大人っぽい笑みを浮かべた。こうして見てみると似ていない。失礼ながら、そんなことを思う。元原さんに「はい」と答えたら「よかったね」と裏表のない声で言ってくれた。
 普通に話ができた。卒業してからのこととか、旦那さんのこととか。失礼は承知で「旦那さんは、その」と聞いてみたら元原さんは大笑いして「正攻法で捕まえました!」と言った。なぜだか俺がほっとした。あのときの元原さん、本当に怖かったからな。そんな俺に「失礼じゃない?」とバツが悪そうにしつつもちょっと怒っていた。
 元原さんが俺のことをまっすぐに見た。なんだか泣きそうな顔で。思わず黙ってしまうと、小さく笑われた。

「奥さんと私、似てる?」

 は元原さんよりは少しだけ子どもっぽいところがある。意外と照れたり拗ねたりするし、よく見るところころ表情が変わる。大人っぽく見えて実は子どもみたいにかわいい子だ。責任感は強いけど、誰かにすがったり助けを求めたりはしない。笑顔は明るくて本当にかわいい。切れ長できれいな目というよりは、丸くてかわいい目をしている。
 本当に失礼を承知で思う。どうしてこんなことを聞いてくる人を、俺は好きになったのだろう。こうして見てみれば明らかに似ていないし、たぶん、俺があまり好きではないあざとい人だというのに。重ね重ね失礼だが。口に出すのは失礼すぎると分かっているから決して口には出さない。もちろん、人として尊敬するところはあった。でも、女性としての魅力は今の俺にはもう分からなくなっていた。本当、最低な男だったんだな、俺。内心で反省した。

「いえ、似てません」
「……ムカつく〜」

 ばしんっと背中を叩かれた。痛いんですけど。あまりに力強かったから背中をさする。ちなみに、旦那さんどんな人ですか。お返しに聞いてみたら「白布くんよりずーっとかっこよくて優しい人!」と言われた。それは何より。俺の妻も元原さんよりずっとかわいくて優しい人ですけどね。あと、ゴムに穴を空けるような人でもないです。恨み言っぽく言っておくと、「本当それ、申し訳なかったと思ってます。忘れてください、お願いします」としっかり頭を下げられた。


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