本当、衝動的にというか、考える間もなく「馬鹿か!」とスマホに向かって怒鳴ってしまった。電話の向こうにいるは弱々しい声で「だ、だって」と言うけど、今回ばかりは俺がどう考えても正しい。引いてやるつもりはない。そのまましばらくしっかり怒ってやった。
 だから出張なんて行きたくなかったんだよ。しかも一週間もの期間、場所も関西だから気軽に帰ることはできない。くそ、帰りたい。翔太に会うのは楽しみだけど何よりが心配すぎる。
 家を出る前に戸締まりはしっかりしろと自分の気が済むまで言ったし、何かあったら連絡しろとも言った。でも、まさか訪問販売に来たセールスマンに家に一人だと素直に言うとは思わなかった。話を聞いたら怪しそうだったから余計に。本当にセールスマンだったのか疑わしすぎる。相手はとにかく夫と話したい、という感じだったというから余計に。家に男がいないかを探ってるんじゃないか。名刺も見ていないし社章も見ていないというものだから頭を抱えた。本当に帰ってもいいか。今すぐにでも新幹線に乗りたい。だが、そうもいかないのが社会人だ。思わずホテルのベッドを叩いてしまった。
 心配すぎる。このままずっと電話を繋げたままにしたいが、そういうわけにもいかない。ともかく夜は二階の一部屋とリビングの電気を付けること、洗濯物には必ず男物を混ぜること、再度戸締まりを絶対に怠らないこと、何かあったら些細なことでも必ず連絡すること。そのすべてに了承させた。

「俺の部屋で寝ろ。鍵かかるんだろ?」
『えっ、でも、』
「いいからそうしろ。いいな?」

 絶対に嫌とは言わせないからな。そういう意味を込めて低い声で言っておく。唯一鍵がかかる俺の部屋で寝るのが安全に決まっている。できる限りの防犯でしかない。何かあってから後悔しても遅い、というか何かあったら本当に、無理なんだけど、俺の気持ちが。やっぱり帰ってやろうかな。そう思っている間にも仕事用のスマホに明日の日程が送られてきた。くそ、なんで俺医者なんだ。今この瞬間だけ無職になりたい。
 馬鹿なことを考えても、もう明日の予定に向けて準備をしなくてはいけない。名残惜しいというか心配というか、いても立ってもいられないのは山々なのだが、電話を切るしかなかった。なんでこんな時間にリモートで会議しなきゃなんねえんだよ。明日でいいだろ、明日で。そう思いつつ再度戸締まりと俺の部屋で寝ることを念押しした。
 電話を切ってからため息が止まらなかった。帰りたい。なんで帰れないんだよ。帰れよ。そうは言っても帰れない。今この瞬間に何か起こっていたら、と想像しただけで帰り支度をはじめてしまいそうなほど不安でたまらない。もう一回電話するか? そう思ったけど、今の今話したばかりだ。さすがに何かあればすぐに連絡がある、と、信じたい。時計を見たらもうリモートを繋げなければいけない時間だった。なんだこのクソタイミングは。最悪かよ。イライラしながら準備をした。
 仕方なくリモート会議に参加しながらちらりとプライベート用のスマホを見る。着信も通知もなし。寝たか? 俺の部屋で寝てるだろうな? いろんなことを考えていると「白布く〜ん?」と声をかけられた。ハッとして顔を上げると「どうした? 体調悪い?」と聞かれてしまう。「いえ、すみません」と返して、こっそりスマホを手に取った。おやすみ、とだけ送っておく。返ってきたら大丈夫ということだ。そう思っていたらからもおやすみ、と来た。よし。大丈夫。スマホを置いてとりあえず一つ息をついた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「姉ちゃんに連絡してるの?」

 午前で仕事を終えてから翔太の家に来ている。昼食を作ってくれるというので有難く待っていたときにそう声をかけられた。翔太の言う通り、本当は一時間に一回連絡したいくらいの気持ちなのだが、ぐっと堪えて電話一回とメッセージ二回に抑えている。「心配で」と言ったら翔太はなんだか嬉しそうに笑った。笑ってる場合じゃない。
 翔太まで不安にさせるのは嫌だったけど、あったことをとりあえず話しておいた。気付いたら翔太からも連絡してやって、と付け足して。すると、翔太はパスタの麺を茹でながら「それってさ」とびっくりしたような顔をして、が俺に言ってきたのと同じ社名を口にした。なんで翔太がセールスマンがどの会社のやつか分かるんだ? 不思議に思っていると「その人、賢二郎さんがうちに来る前も来たことある」と言った。

「姉ちゃん仕事でいなくてひかりが出たら男の人いる?≠チて聞いてきたから俺が出たことある」
「何のセールスだった?」
「ネットの回線だよ。女の人だと詳しくないって思ってるんだと思うよ。俺が出たときも子どもだったからだと思うけどすぐ帰ってった」

 翔太はけらけら笑って「うちの周り、おじいさんおばあさんが多くてネット回線なんて何もしてないうちが多いから、狙い目なんだろうね」と言った。なるほどな。とはいえ、普通名刺かチラシくらい置いていくだろ。翔太が出たときも特に何も置いていなかったそうだ。なんだそれ。がっくりしつつ、ほっとした。いや、警戒は続けるけど。
 その間に翔太が作った昼食が出てきた。パスタを作ると言うからパスタソースを温めたやつかと思っていたのに、しっかりソースは手作りだし野菜がしっかり入っている。感心していると照れくさそうにした。

「姉ちゃん、どんなに忙しくても絶対バランスが取れたものを出してくれたから。俺も頑張って作ろうと思って」

 料理好きだし、と言ってフォークを渡してくれた。それから付け加えるように「あとお医者さんに変な物食べさせたくないし」と言う。なんだそれ。医者だってインスタントだろうがファストフードだろうが野菜ゼロだろうが食べるぞ。そう言ったら「不健康じゃん」と笑われた。

「大学、どう?」
「楽しい!」

 にこにこと笑った。はじめは関西のノリについていけなくて苦労もしたらしいけど、一度馴染んでしまえば人と仲良くなるのは早かったそうだ。友達がたくさんできて、サークルもアルバイト先も良い人ばかりだ、と楽しそうに話してくれる。それを食べながら聞いていると、翔太がハッとした様子で縮こまって「ちゃ、ちゃんと勉強もしてるよ」と申し訳なさそうに言う。なんで急に。不思議に思ったが、すぐに理由が分かった。学費がどうのとか有意義な時間を云々とか、そういうことを思ったのだろう。馬鹿なやつ。やっぱ、血の繋がりってちゃんとあるんだな。笑ってしまった。

「勉強なんて二の次でいいからな」
「えっ」
「楽しいなら楽しいことをしたほうがいい。まあ、留年されたらちょっとびっくりするけど」

 翔太は呆気に取られてからすぐぶんぶん首を横に振る。「それはない! 絶対ないから!」と言う。さすが首席入学。その調子で首席卒業したら姉ちゃん喜ぶぞ。そうからかったら、翔太が微妙な顔をした。え、何かまずいこと言ったか? 素直にそう聞いたら「賢二郎さんも喜んでよ」と拗ねられた。なんだこいつ、実の弟よりかわいいな。思わず頭を乱暴に撫でてしまった。


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