激務すぎる。ぐったりしながら風呂から出てリビングのソファに腰を下ろす。今すぐにでも寝たい。眠すぎる。でも、まだ髪も乾かしていないし、何より、今日はまだあまりと話していないし。そう思ってもは俺が眠たいとか疲れているとか、そういうことに敏感だからわざとあまり話さないようにしているらしくて。無理に話させるのも申し訳ないから一緒にいるだけになっている。まあ、それでも十分なんだけど。
 キッチンで洗い物をしているをぼんやり見つめる。髪を一つにまとめている。ゆらゆら揺れる毛先が、やっぱりきれいだ。高校生のときに思っていたまま変わらず。やっぱり触りたくなる。
 また、思い出してしまった。の体温とか、匂いとか。気色悪いな、と自分に言うのだけど一度思い出すと頭から離れてくれなくなる。呪われているみたいだ。でも、いい呪いだな。いや、気持ち悪い男であることに変わりはないけど。一人でそう笑った。



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 家まであと車で五分ほど。今日はいつもより早く上がれた。いつもより一時間くらい早いからからしたら夕飯の支度とかのスケジュールがずれてしまうだろうから少し申し訳ないけど。
 そんなことを考えていたらお腹が空いてきた。仕事を辞めてからは前にも増してしっかりした食事を作ってくれるようになったけど、負担なんじゃないかと少し心配している。見た感じそこまで料理が好きというわけじゃなさそうだった。それでも毎日メニューが被らないようにとか、一品でも増やせるようにとか、そういう工夫をしてくれているのがよく分かる。料理に関しては本当に何も力になれないから、せめて「おいしい」ということは口に出すようにしている。思っているだけでは伝わらない。何度も身に染みて分かっているからだ。それに本当においしいし。
 家について玄関の鍵を開ける。ドアを開けたらリビングから顔を出して「おかえり」と声をかけてくれた。いつものことだ。別に出迎えなんてしなくていい、と言ったけどはそれでもいつも出迎えてくれる。今日はエプロンを着けているから夕飯を作っている最中だったらしい。邪魔したみたいでなんとなく申し訳ない。「ただいま」と息をつきながら言うと、が「ごめん、ご飯まだできてない」と言ってきた。なぜ謝る。「謝ることじゃないだろ」と言いながら靴を脱いだ。
 が「あと十分くらいでご飯できるけど」と言うので先に食べることにした。お腹空いてたし。あとで風呂は俺が洗って、と考えながらの後ろを歩いていると、一つに結んだ髪の揺れ方がいつもと違った。左右均等に揺れていない。なんでだ? よく観察して見ると、明らかに足を庇っている。それに気付いたらすぐに「おい」と自分でも分かるくらい低い声が出た。

「ん?」
「足、何した」

 明らかにが固まる。やっぱり。どう見ても怪我だ。痛いのを我慢している。なおさら出迎えなんてしなくていいし、夕飯も何か買いに行くとか食べに行くとかでいいのに。そりゃ、出迎えてくれたら嬉しいし、夕飯はが作ってくれたもののほうがおいしいに決まっているけれど。痛いのを我慢されるのは望んでいない。

「ちょっと捻っただけ」
「ちょっと≠フ説明をしろ」

 が少し考えているのが表情で分かる。誤魔化そうとしている。若干目を細めつつ部屋をぐるりと観察してみた。足を捻るなんて転んだとか落ちたとかそういう状況に違いない。階段から落ちたとか転んだとか、そういうことならは素直にそう言うはずだ。それを誤魔化そうとしている、ということは何か無茶をしようとして捻ったということに決まっている。何かしら部屋に変化があるはず。家具を動かしたとか、何か重たいものを持とうとしたとか。
 注意深く部屋を見ていると、机の上に朝には見た覚えのないものが置かれていることに気が付く。なんだ、あれ。じっと見てみるとどうやら電球のようだ。なんであんなところに電球が? リビングについているものの形じゃない。階段か廊下のところのものだろう。廊下のところは翔太とひかりがまだ家にいるときに替えた覚えがある。となると、階段のところか。

「電球替えただろ」
「う」

 図星だった。大方切れかけていることに気付いて、俺に頼むのも悪いからと自分で替えようとしたのだろう。物入れに少し高い丸椅子があったはず。それに乗ったに違いない。
 よほど怒った顔をしていたのだろう。が慌ててそんなに痛くないから大丈夫とか明日には引いてると思うとか笑って言ってきた。捻挫舐めるな。本人が大丈夫と思っても大丈夫じゃないときだってあるんだよ。俺も高校に入ったばかりのときに捻挫をしてしまって監督からランニングや激しく動く練習は禁止された経験がある。あのときは焦って動かそうとしてしまったけど、自分がこういう立場になってから監督の判断は正しかったと分かった。
 ご飯を作り終えたら大人しくするから、と言われた。何とも言いがたい。すぐにでも休ませたいけど、途中まで作ってある料理を俺が引き継げるわけもない。一応「やる」と言葉にはしてみたが「無茶だよ」と言われてしまった。ぐうの音も出ない。不満に思いながらキッチンに立つの足下にしゃがむ。少しだけ腫れているようにも見えるが、病院に行くほどではなさそうだ。絶対安静。何かしようとしたら絶対阻止だな。そう思いながら立ち上がる。無理に動こうとする可能性があるから出来上がるまで監視することにした。
 野菜を切る手をじっと見る。手際が良い。もうずっと翔太とひかりのために食事を作ってきたからだろう。レシピも何も見ずに料理を作れるってすごいな。俺、絶対無理。感心しながら見ていると自然と体が近付いてしまっていた。でも、は笑うだけで邪魔だとも何とも言ってこなかった。卑怯だと重々承知で、気付いていないふりをしてそのままの位置に立っておく。
 しばらくそのまま様子を見ている内に夕飯が出来上がった。持って行こうとするを無理やり食卓に座らせて運んでいく。なんだか申し訳なさそうにしていたけど、なんとなく今までの申し訳なさそうな顔と違う気がする。なぜだろうか。よく分からないけど、少しだけ表情が和らいだように見える。それならそのほうがいいけど、何かあったのだろうか。
 じっと俺の顔を見ているから気になった。もしかして熱があったり気分が悪かったりしないだろうな。声をかけながら熱があるかどうかだけでも知りたくての額に手を当てた。顔色もよく見たかったから少し顔を近付けると、がびっくりしたようにそれを避けようとした。あ、やってしまった。勝手に触った上に顔を近付けてしまった。そりゃ、びっくりするよな。こんなふうに避けられたのははじめてで驚いてしまったけど、当たり前の反応だ。何を思い上がってるんだか。反省しながら「悪い」と謝る。気を付けよう。最近、調子に乗って距離を縮めようとしていた自覚はある。反省だ。何、自分が特別になったつもりでいるんだよ。
 目を逸らしたを見つめる。好きだ。でも、やっぱり、俺だけがそう思っているのだから、調子に乗るのは良くない。ひかりに怒られるな。思わず苦笑いがもれた。


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