深夜二時前。思わず舌打ちをこぼしたら看護師が「災難だったねー」と笑った。本当ですよ。そんなふうにもう一度舌打ちをこぼしてしまう。白衣にまでついた血を見て、げんなりした。
 酔っ払って路上で寝ていた男が救急搬送されてきた。倒れたときに頭を打ったのだろう。血はもう止まりかけていたが処置をしようとして少し目を離したときだった。診察台に座って待たせている間の一瞬だけ、女性看護師が一人で相手にしなくてはいけなくなる。酔っ払いの行動は予測不可能だ。診察台から落ちたりしたら困る。相手は酔っ払いで何をしでかすか分からないから見ておいて、とまだ歴の短い女性看護師にこそっと伝えておいた。それが宜しくなかった。
 あろうことは酔っ払いは女性看護師にセクハラまがいな言葉を投げかけながら手を伸ばしたのだ。女性看護師の「やめてください」という声に慌てて手を止めて間に割って入った。酔っ払いが俺に「邪魔すんなよ〜!」と舌っ足らずに叫んでから続けて罵声を浴びせてきた。いや、俺が入らなかったらあんた痴漢でお縄だぞ。内心そう思ったけど相手は酔っ払いの患者。厳しい言葉を投げかけるのは気が引けて。一応丁寧にご遠慮願った。
 怒りが治まらない酔っ払いが鞄の中を漁り始めた。スマホを取り出して逆に通報とかか。そう呆れて見ていた数秒後、まさかのカッターを取り出したものだからさすがにビビった。とはいえ俺と若い女性看護師しかいない。まだ若い看護師のトラウマになったら可哀想だし、相手は酔っ払い。俺より体格も小さいし、俺がどうにかするしかなくて。「警察沙汰になります。やめましょう」と落ち着かせようとしたが、時すでに遅し。カッターの刃がしっかり俺の左腕を切りつけた。
 そこからは大騒ぎだった。パニックになった若い女性看護師が叫び声を上げて他の人を呼びに行くし、血を見て冷静になったらしい酔っ払いがあわあわして「俺じゃない」とか言い出すし、興奮したせいか酔っ払いは頭から余計に血が出てくるし、俺も俺で血がだらだら出るし。なんだこれ。ふっと頭が冷えて冷静になった。とりあえずカッターを取り上げてから酔っ払いの患部を消毒。縫う必要もないレベルだ。自然治癒でどうにかしてください。そう言いながらガーゼを当てて包帯を巻いてやる。それから自分の腕の止血。そこでベテランの女性看護師がやって来た。血が落ちた床を見て「救急車! あっ病院ここじゃん!」と叫んだのは、ちょっと面白かった。
 当直に入っている先生もやって来て、酔っ払いの家族もやって来た。簡易医務室の惨状を見てどちらも言葉を失ったし、酔っ払いの家族は即行で膝をついて頭を下げてきた。「申し訳ございません!」と奥さんらしい女性に言われて困ってしまって。酔っ払いも隣に座らせて頭をガンガン床に押さえつけ始めるものだから、余計に弱った。血が止まりかけているので頭はちょっと、と言えば奥さんはハッとした様子で顔を上げてくれた。とりあえず俺も大事にしたくなかったから、今回限りということでなかったことにした。奥さんは最後まで「そういうわけには」と言っていたが、粘り強く「大丈夫です」と言った。
 疲れた。こんなに疲れたのは久しぶりだ。腕痛いし。そううんざりして任されていた業務をこなしていたが、途中でガーゼにしっかり血が滲んできた。また簡易医務室に戻ってガーゼを替えていたときだった。近くにスタッフルームがあるから様子を見に来てくれた休憩中の看護師たちが簡易医務室の入り口で少しざわついている。今度はなんだよ。そうげんなりしながら「ってぇなマジで」と呟いてしまう。痛いに決まっている。刃物で切りつけられたなんて経験ないし、ぶっちゃけ普通に怖かった。刺されるかと思ったし。これでもっと傷が深かったら警察を呼んでいた。それくらいの大事だった。
 そんなふうに包帯を巻いていると、慌てた様子の足音が聞こえた。思わず入り口に視線を向けると、「は?」と思わず間抜けな声が漏れた。巻いている途中だった包帯がするりと落ちてしまう。そこにいたのが、部屋着姿のだったから。

「あんたは本当に馬鹿なんだから!」
「だ、だって! 僕も白布先生が刺されたんだと思って!」
「だからってなんであんたが家族の人に連絡するのよ! そういうのはちゃんと状況が分かってからって教えたでしょう?!」
「白布先生新婚だし急いで教えなきゃって思っちゃったんです! 電話しちゃった途中でちょっとした怪我だって知ったんですけど間に合わなくて! 申し訳ありませんでした!」

 ベテラン看護師と新人看護師のそのやり取りで大体を把握した。本当に、何度もよく確認してから行動に移せと周りが言っているのに、なかなか治らないやつだ。良いやつであることに間違いはないし、患者さんからもよく褒められてはいるのだが。「お前何回言ったらそのせっかち治んだよ」ととりあえず言っておいた。
 それにしてもが黙りこくって瞬きさえもしない。ぴくりとも動かないことが心配で「そういうわけだから、全然大丈夫。向こうも酔っ払ってただけだから」と簡単に説明しておく。まあ、刺されたと思っていたんだろうから驚いても無理もないだろう。心配してくれたのだろうか。それにしてもなんで部屋着のままなんだ? 夜だから外は少しひんやしているし体が冷えて風邪を引くかもしれないだろ。来るにしても着替えてくればよかったのに。そんなふうに思っている間もは無反応だった。さすがに困って「聞いてるか?」と目の前で手を振ってみる。
 ぼろっとの瞳から大粒の涙がこぼれた。ぎょっとして「別にかすり傷だから、大丈夫。ほら」と腕を見せる。そんなにひどい怪我に見えただろうか。いや、でもなんで泣く? 俺何かしたか? はぼろぼろと涙をこぼしたまま、俺の左腕をじっと見た。しばらくは傷が残るだろうけど一生残るほどの怪我じゃない。血が派手に出ていて見た目がひどいだけだ。大丈夫、ともう一度言おうとしたときだった。
 事あるごとに小さな体だと思う瞬間があった。高校生のときに、部員全員分のタオルが入ったカゴを運んでいるとき。ボトルを懸命に運んでいるとき。部員の誰かと並んでいるとき。そして、翔太とひかりを抱きしめていたとき。小さな体だと思った。触ったら折れてしまいそうだとさえ思った。
 はじめて、小さいけれど温かくて大きく思える体だと思った。どんなに小さくて華奢でも、人を思う気持ちが大きくて、どうにか包み込もうとするような。胸の奥が痛かった。好きで。好きでたまらなくて。いや、というか今は、が抱きついてきたことが衝撃的すぎて、正直内心軽くパニックだった。

「……なん、だよ、大した怪我じゃないって言ってるだろ、大丈夫だから」

 恐る恐る、嫌がられないようにそっと、抱きしめ返した。やっぱり小さくて華奢な体だ。でも、目で見ていた印象とは少し違っていた。それを噛みしめていたら余計にが泣き出した。子どもみたいにわんわんと。が入院してきて俺の前で泣いたときと同じくらい。いや、どうしよう。なんで泣いているのか全く分からない。何かしただろうか。戸惑いながら落ち着かせようと恐る恐る背中をさする。細い。背中も小さい。俺なんかが触っていいのだろうか。でもこうする以外に何も思い浮かばなかった。
 とりあえず話を逸らそう。ここまでどうやって来たのか、と聞いたらがぐずぐずと泣きながら「じてんしゃ」と言った。あまりに驚いて「はあ?!」と声を上げてしまった。がばっとを引き剥がして両肩をしっかり掴む。今、深夜二時だぞ? 家からここまでは自転車だとたぶん三十分くらいかかるはず。普通なら車か公共交通機関で来る距離だ。いや、昼間なら自転車という選択肢もあるだろうけど。こんな深夜に一人で、こんな無防備な格好で飛び出してきたってことか? 危ないに決まっている。変なやつが道中にいたらどうするんだよ。あと、事故にでも遭ったら。いろいろ言いたいことが頭に浮かぶ。
 目の前で俺の顔を見つめて泣いているを見て、少しだけ呼吸が止まった。もしかして、心配してくれたのだろうか。こんな深夜に自転車で家を飛び出るくらい。着替えるのも忘れてしまうくらい。取り乱して泣くくらい。生きた心地がしないくらい。そう思ったら、怒るに怒れなくて。ため息をついてしまった。怒れるわけないだろ。くそ、負けた。言いたいことのほとんどを飲み込んでしまう。
 あまりにも、嬉しくて。泣いているのに申し訳ないとは思ったが、気持ちが治まらなかった。が俺に対してどういう気持ちなのかは分からないけど、今この瞬間だけは、許される気がして。一度引き剥がした体をもう一度抱き寄せた。

「本当、だから目が離せないって言ってんだよ」

 だから結婚したんだよ。そう笑ってしまう。その数秒後、ハッとした。を抱き寄せたまま恐る恐る簡易医務室の入り口のほうを見ると、看護師たちがにこにこと微笑ましそうに笑っていた。咳払いをしつつ、名残惜しかったけどそっとから離れた。
 詳細をに説明してから、トラブルに巻き込まれた女性看護師がに謝罪し始めた。いや、あれは完全にあの酔っ払いが悪い。謝ることじゃない、と頭を上げさせる。それでも申し訳なさそうにするものだからも困っている。それから、誰が聞いてもあなたが悪いなんて思わないし自分もそんなふうに思っていない、と慌ててが言った。あなたが傷付かなくてよかった、と笑って。
 自転車で帰ると言い出すものだからさすがに怒った。ああ分かった気を付けて帰れよ、と言うと思ったのか。有無は言わせない。タクシーを呼んでいると「自転車はどうするの?」と言ってきた。俺の車に乗せて持って帰るに決まってるだろ。思わず「黙ってろ」と言ってしまってちょっと後悔した。苛立つとすぐにそういう言い方をしてしまう。自分にがっかりしてしまった。
 タクシーが来るまで一緒にいられないことを謝ってから仕事に戻る。一緒に持ち場へ戻る看護師が隣でくすくす笑っていることに気が付く。「なんですか」と咳払いをしながら聞いてみると、その人も咳払いをして「いえ、大変失礼しました」とまだ少し笑った声で言った。これ、しばらくからかわれるやつだな。最悪だ。いや、最悪じゃないけど。
 気持ちの悪いことを言う自覚はある。でも、なんだか、着ている白衣から少しだけ、の匂いがする気がした。うわ、本当に気持ち悪いな、自分。そう考えるのをやめようとするのだけど、やめてもさっきを抱きしめたときのことばかり思い出してしまう。勘弁してくれ。本当、こっちは高校生のときからの片思いなんだぞ。前にもこんなふうに思ったことあったな、そういえば。
 好きなんだから仕方ないだろ。諦めて開き直ることにした。ずっと好きだった子に抱きつかれて、抱きしめ返したのだ。あっさり、ハイもう過ぎたことだから仕事に集中、なんて思えるかよ。頭から離れるわけないだろ。そんなふうに思っていると看護師がまた笑った。今度はなんですか。そんなふうにちょっと睨ませてもらうと「いえ、なんだか百面相しているので面白くて、つい」と余計に笑われた。


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