洗面台に手をついて項垂れる。先日、上司にほとんど無理やり連れて行かれた会食で一人の女性にやたら絡まれた。その喋り方や仕草が、思い出したくもない大学時代の元カノの恐ろしい記憶を呼び覚まさせるようなものだった。どうにかこうにか逃げようとしたのに、あまりにもしつこく連絡先を聞かれたから教えてしまった。何か言われても妻がいるからと言えば諦めるだろう。そう思っていたのに。
 俺の何がいいのかさっぱり分からない。別にどこにでもいる普通の顔だし、性格がいいわけでもないのに。しかも結婚してるって言ってるだろ。指輪だってしている。それでもぐいぐい来るものだからどっと疲れた。帰り際にはホテルに、とダイレクトに誘われてドン引きだったし。一回くらい奥さん怒りませんよ、と言われてブチ切れる寸前だったのを同僚がどうにか止めてくれたほどだった。
 これだけ態度に出せばさすがに興味は失せただろう。そう思っていたのに、同僚から「逆にそれがかっこよかったって言ってた」と聞かされてがっくりした。馬鹿なのか? それが逆にかっこいいってなんだよ。意味不明。どうしろって言うんだよ。
 ため息を吐きつつ洗った手を拭いてリビングに戻る。の隣に座る前にスマホの通知ランプが光っているのが目に入る。誰だろうか。座りながら手に取って見てみると、思わず舌打ちがこぼれた。あの女だ。「ご飯また行きましょうね」という文章とともにハートマーク。そのあともう一通は「今度は二人で行きましょうね」と追撃のハートマーク。ふざけんな。誰が行くかよ。面倒だな。膝に肘を置いて背中を丸める。とりあえず「結婚しているので女性と二人では行けません」と当たり前のことを返した。これが普通の女友達なら話は違ったかもしれない。ただ、相手はダイレクトにホテルに行こうとか一回くらいならと言ってきた女だ。気遣ってやる謂れはない。そもそも、こういうタイプの女は俺じゃなくてもいいのだ。肩書きとか職業とか、それさえ自分の好みにマッチしていればいいだけ。だから、こっちが引け目に感じる必要はない。
 返信が来た。鬱陶しく思いながら画面を見ると、ため息が溢れた。なんだよこの女。「え〜ちょっとくらいいいじゃないですか。遊びましょうよ」、そんな文章打ってて恥ずかしくないのか。倫理が吹き飛んでいる。もう返信してやる必要はない。「そういうことを言う人だとは思いませんでした。妻に疑われたくないのでもう返信もしません」とはっきり返信してやった。
 ふと、のほうを見ると、やけにじっと俺のことを見ていた。何か話したいことでもあっただろうか。何か言いたげな顔をしているように見える。

「何?」
「えっ?」
「こっち見てるから」

 なんで自分でびっくりしてるんだよ。不思議に思いながら「何?」と顔を覗き込む。目を逸らさない。珍しい。こういうとき、大抵目を逸らして誤魔化してくるのに。じっと俺の顔を見たまま言葉を捻り出そうとしているように見えた。いつまでも待てるな、この状況。のんきに内心そんなことを考えていると、「あの」と慎重に口を開いた。

「……え、えーっと」
「なんだよ」
「お、怒らないでほしいんだけどね」
「うん?」
「あの、先に謝るんだけど、あの、見ようと思って見たわけじゃなくて」
「何が?」
「ちょっと見えて気になっちゃって、その、見てしまったというか」
「いや、だから何だよ。怒らねえよ」

 全く何のことか見当がつかない。なんでこんなに言いづらそうなんだ? 俺が怒るようなことなんてないだろ。何となく申し訳なさそうな声色と表情にますます訳が分からない。これは誤魔化されたら一生言わなくなるやつだ。誤魔化されないようにじっと瞳の奥を見つめ続ける。逃がさないぞ、という意味で。

「スマホの通知が、あの、見えちゃって」

 その一言で一瞬思考がフリーズした。スマホの通知。俺のスマホの設定はメッセージが届くと画面がついてすぐにメッセージが少しだけ読めるようにしてある。が言いづらそうにしていて、俺がスマホを机の上に置いていった間に来ていたメッセージといえば、あれしかなかった。サーッと血の気が引いた。もしかして他の女性とのことを疑っているのだろうか。いやいや、そんなわけないだろ。慌てて言葉を出すとは「いいの、あの、ごめん、見えちゃって気になっただけだから。口出してごめんなさい」と至極申し訳なさそうに言う。申し訳なさそうにするな。なんでだよ、怒れよ。そう思ったけど、まあ、にとっては好きな男じゃないんだから、怒りはしないか。……待て、なんかムカつくな。怒れよ!
 ソファから立ち上がろうとするの肩を乱暴に掴んでしまった。力尽くでまたソファに座らせてから「俺が良くないから見ろ!」とあの女とのトーク画面を見せた。は見ないように顔を背けたけど、本当に困るから無理やり見させた。そのトークを読んだらしいに状況を説明した。向こうがなぜだか言い寄ってきているだけだということ、全く関わりがないと言っても過言ではない相手だということ。しつこいくらいに説明した。そんな勘違いのされ方は御免だから。
 こういうのが一番嫌だった。昔の話を蒸し返すのは嫌だし本当相手にも悪いけど、のことが好きで忘れられなくて誰とも上手くいかなかったと言っても過言ではないのだ。それくらい好きな相手に他の女性に気があると思われるのは本当に、勘弁してほしい。何ならスマホを一日の終わりに見せてもいいくらい、何もない。俺がこんなに好きなのはお前だけだからな、と声を大にして言いたいくらいだというのに。
 まあ、とはいえ。のことだから、誘いに乗ればよかったのに、とか思っているんだろうな。女性とそういうことをする店に行っても構わない、と笑って言ってくるような相手だ。俺に一切気はないし、むしろどうしてそうしないのかと疑問に思っている。何度言えば分かるのだろうか。いつもそう呆れているけど、もう慣れた。俺だけが好きなのだから仕方がない。

「内心なんで誘いに乗らなかったのかな、とか思ってるだろ」

 呆れつつ言った。図星だろ、どうせ。は少し目を丸くして固まっている。やっぱり。どうせ、そのほうが俺のためになるだろうに、と思っていたに違いない。自分と結婚していなければ誘いに乗っただろうに、とさえ思っているかもしれない。残念だったな。そんなこと思っても無駄だからな。もう俺はと結婚してるし今が何より幸せだし、がたとえそれを望んでいたとしてもそうしてやるつもりはない。俺は何があっても以外の女性に触れるつもりもなければ心を寄せるつもりもない。覚えとけ。内心そうまくし立てておく。
 ふと、がなんだか、微妙な顔をした。はじめて見る表情だ。少し傷付いたというか、寂しそうというか。なんでそんな顔をしたのか分からなくてじっと顔を見てしまう。何の顔だ? 何を考えているんだ? よく、分からない。

「ううん」

 なんだか必死な顔でそう言われた。ううん。否定の相槌だ。なんで誘いに乗らなかったのかと思っているだろ、という俺の問いかけに対する否定。否定した。そうじゃない、と。どうして他の女性の誘いに乗らなかったのかな、とか思ってるだろ。ううん。ううん?
 思わず固まってしまう。とりあえずしどろもどろ「なら、いいけど」と返しておく。これまでのならさっきの言葉に肯定まではしなくても否定はしなかったはずだ。「白布のためになるから」とか「わたしはそれでもいいよ」とか、そういうふうに言ったはず。でも、今は否定した。そういう話題でちゃんと否定されたのははじめてで。頭がこんがらがってきた。つまり? 俺が他の女性の誘いに乗らなくてよかった、って、意味か? いや、飛躍しすぎか? 乗らなくてよかった? 乗ってほしくなかった? いや、どっちにしろ飛躍しすぎだ。深い意味はないに違いない。
 ああ、そうか、妻がいる身でそういうことをしたら体裁が悪くなるから、俺にとってはデメリットだからという意味か。そうか。きっとそうだな。いや、そうか? そんなふうに困惑しながら、少しだけ頬がなぜだか赤らんでいるの横顔を、瞬きも忘れて見つめてしまった。


戻る