翔太が家を出る日。全員で駅まで見送った。正直仕事を休めそうな感じはなかったが、それまでの仕事を詰めに詰めまくってどうにかした。さすがにこの日に不在、というのはなんとなく嫌で。は少し心配そうに「仕事忙しいの?」と帰るたびに声をかけてくれたが、休みを取るためだとは言わなかった。「ちょっと」と誤魔化してどうにかした。無理して来なくていい、とか言われたらへこむから。
 改札をくぐる前に翔太を呼び止めた。血縁者ではない俺がこういうものを渡すのも変かと思ったが、どうしても渡したくて。前に翔太が俺の部屋に来て問題集を見せてきたときに、ふと俺の机に置かれている万年筆を見て「古そうだけど、買い換えないの?」と聞いてきたことがある。それは元々は父親のものだった万年筆で、俺が子どもの頃から家にあったものだ。まだ小学生くらいのときに俺がやけにそれを気に入っていたことを父親が覚えていた。だから、俺が大学生になったときにくれたのだ。「賢二郎なら大事に使うだろうから」と言って。その話をしたら翔太は「いいなあ、そういうの」と小さく笑っていた。
 翔太には父親も母親もいない。祖父母も。幼い頃に他界して、家族はとひかりだけ。男家族が一人もいないのだ。ひかりはからお古をもらったりしているようだけど、翔太は滅多にないのだろう。男兄弟ばかりの俺からするとよく分からなかったが、高校時代にたまたま兄貴からもらったカーディガンを着ているのを見た太一が「そういうのちょっと憧れるわ」と言っていたのを思い出す。憧れるか? 兄貴のカーディガンとか何の憧れの要素もないのに。そう言ったら「俺姉貴しかいないからさ〜」と言っていた。それと似たようなものだろうか。
 だから、と言うとまた自己満足になるが。翔太に時計を渡した。父親が万年筆とともにくれた時計だ。大学生にもなったのだから時計くらい少しいいものを付けなさい、と言って。大学時代はよく付けていたけど、色味やデザインが俺の好みというわけではなかった。自分で時計を買ってからは大事にしまってあるだけになっていた。時計は人の時間を刻んでこそ価値があるものだ。使われないくらいなら誰かに使われたほうがいいに決まっている。
 一応事前に父親に「翔太にあげるつもりなんだけど」と言ったら「翔太くんなら大事にしてくれそうだからいいよ」と承諾してくれた。そのあと笑いながら「律儀なやつだな」と言われてちょっと気恥ずかしかった。いや、まあ、父親がくれたものを妻の弟にあげるってなんか、どうかと思って。しどろもどろそう説明した。父親はなんとなく優しい声で「いいじゃないか。大事な家族なんだから」と言ってくれて、ほっとした。
 その時計を付けた翔太を見て、渡してよかったなと思った。分かりやすく嬉しそうにしている。まだまだ子どもだ。ちょっと時計が大人っぽすぎる気はするが、翔太は基本的には大人びているし本人も早く大人になりたがっている。すぐに似合う男になるだろう。嬉しそうにされると俺も嬉しい。翔太の肩を叩いて「ホームシックになったら帰って来いよ」と一丁前に父親のようなことを言ってしまった。でも、翔太はそれにも、嬉しそうな顔をしてくれた。「うん」と子どもっぽい笑顔を向けて。
 翔太が改札をくぐってどんどん小さくなっていく。それを見送ったがぐずぐずと泣き出した。それをひかりが大笑いして「お姉ちゃん、結婚してから泣き虫になったよね〜」との背中をさする。ドキッとした。いや、今のは俺が泣かせたわけじゃないし。ひかりに怒られるようなことは何もしてない、はず。そうっとひかりに視線だけを向けたらバチッと目が合ってしまって思わず目を逸らした。まずい。怒ってる、か? 恐る恐る視線を戻すと、ひかりがくつくつと笑っていた。の背中をさすりながら、一度の顔を覗き込んだ。「もう泣きすぎだってば」と言いながら。優しい顔だ。ひかりは噛みしめるようにの横顔を見つめてからまた俺に視線を戻した。にっこりと、かわいらしい顔で笑いかけてくれる。怒って、ないな? そんなふうに情けなくもほっとした。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あたしね、本当は最初、お姉ちゃんが賢二郎さんと結婚するの、嫌だったんだ」

 びくっと肩が震えた。ひかりを高校の寮に送る途中のことだ。車内にはもちろんもいる。今日はひかりが助手席に乗りたいというからが後部座席に座っている。なんで今この瞬間に言うんだよ。ちょっとビビりながら黙っていると、ひかりが小さく深呼吸をした音が聞こえた。

「お姉ちゃんが毎日大変そうにしてたから、結婚したら友達の家のお母さんとかお姉さんみたいになれるのかなって思って、それならそのほうがいいじゃんって思った」

 友達の家に遊びに行くと、にこにこと笑顔でクッキーを作っている母親や、にこにこと笑顔でジュースを持ってきてくれるお姉さんがいつもいた、と。はいつも仕事で家にいなくて、家にいるときはいつも疲れているのに無理に笑っているように見えた、と。だから、結婚して代わりに働いてくれる人ができれば、家にいてにこにこしてくれるんじゃないかと思った。そうひかりは笑った。

「でもそれってさ、あたしとお兄ちゃんじゃ、お姉ちゃんの助けにならなかったってことになるのかなって思ったら、悔しくて、どこの誰かも知らない男の人に、お姉ちゃんを取られるのが嫌だったんだ」

 姉のことを一番に考えて、姉が言うことはなんだって叶えてきた。学校の話が聞きたいと目が′セっていたら学校の話を時間が許す限りしたし、部活に入って楽しい学校生活を送ってほしいと目が′セっていたらその通り部活に入って楽しんだ。ひかりはそうやってを一番に考えてきたはずだ。それを、どこの誰だか知らない男が突然やって来て、結婚しますさんのことは必ず幸せにします、なんて言ってきたわけだ。そりゃ、嫌だろうな。俺だって嫌だ。挨拶に行ったときにひかりは歓迎する感じが全くなかった。の前ではにこにこ笑って祝福するように見せていたけれど、俺の前では違った。決して口には出さなかったが、あれは言うならば、そうだな。「お前はお呼びじゃねえんだよ」、と言いたげだったというか。それを堪えていたのはが俺のことが好きで結婚を決めた、とそのときは思っていたからだろう。後にバレるわけだが。

「なんかね、賢二郎さんには悪いなって思うんだけど、お姉ちゃん、結婚するってなっても、全然嬉しそうじゃなかったのが、ずっと気になってて」

 言うのかよ。ちょっと動揺してしまう。それは言わないほうがいいだろ。が気に病むから。でもまあ、ひかりには何も言えない。本当に取ったわけじゃないけど、ひかりにとって俺は永遠に姉を奪った簒奪者でしかない。いくら心を開いてくれてもそれに変わりはないから、何を言われても仕方がないのだ。
 さて、最後に何を言われるのか。ぎゅっとハンドルを握って覚悟しておく。多分別れろとは言わない。一応、認めてくれた、と思っているしが困ることは言わないからだ。絶対にこれからも大事にしろ、か、必ず幸せにしろ、か。臨むところだ。何でも言ってこい。そんなふうに思っていたら、ひかりがほんの少しだけぐずついた声で呟いた。

「でも、賢二郎さんと一緒に暮らして、お姉ちゃん結婚してよかったな、って思えたよ」

 はじめて、ちゃんと言葉にされた、と思う。思わず「なんで?」と聞いてしまった。口を挟むつもりはなかったのに。ひかりは俺の問いかけに明るい声で「ん〜とね」と言う。それからのほうを振り返って、小さく笑った声が聞こえた。どんな顔をしているのだろうか。気になったけど、運転中だ。ハンドル操作を誤るわけにはいかなくて。耳を澄ませる。そうすると、小さく、が鼻をすすった音が聞こえた。

「賢二郎さんがお姉ちゃんのこと、本当に好きなんだなって分かったから!」

 弾けるように笑う声。きっと、が一番好きな顔で笑っているのだろう。とよく似た、かわいい笑顔で。
 ひかりが姿勢を戻して俺の肩を小突いてきた。「でも、お姉ちゃんを取られたことは一生恨むけどね」といたずらっぽく言ってきたので、笑いながら「そもそも取ってねえよ」と頭を小突き返してやる。取ってない。輪に入り込んだだけだ。そう屁理屈を言っておいた。
 ひかりが通う女子校の学生寮に到着して、すぐに寮監らしき女性が出てきた。ひかりを見ると「ひかりちゃんね〜!」と声をかけてきた。どうやら新しく入る生徒のことは把握しているらしい。きっといい学校だな。そう思いながらと二人で頭を下げると不思議そうに「ご両親、にしてはお若いですけど?」と聞かれた。まあそうなるよな。ひかりの姉とその夫です、と答えようとしたら先にひかりが「お姉ちゃんと、お姉ちゃんの旦那さんです!」と明るく言った。寮監の人は「あら、そうなんですか」と特に気にしない様子だった。
 諸々話を聞いて、ひかりとはそこで別れる。が「ご飯はちゃんと食べること、夜はちゃんと寝ること。いい?」と心配そうに言うと、ひかりは笑って「うん!」と元気に答えていた。子どもじゃないんだから分かってる、と言うところだろう。俺からはお前が言うな、と言ってやりたいところだった。でも、姉が純粋に心配しているのだと、そして、寂しがっているのだとひかりはよく分かっている。いつまでもひかりのそれ≠ヘ治ることはないだろう。でも、悪いことじゃない。そう思った。
 家に帰る車内、やっぱりはぐずぐずと泣いた。どうやら本人は泣いていることに気付いていないらしい。手を伸ばして、指で涙をすくい上げるととても驚いていた。

「翔太のときもそうだったけど、泣くことじゃないだろ」
「だ、だって、すぐには会えなくなるんだから仕方ないでしょ」

 まるで家に帰ったら一人きり、みたいな言い方をする。ちょっとムカつく。こういうときはなんと言えばいいのだろうか。俺がいるからいいだろ、はちょっと、図に乗りすぎているだろうし。迷いに迷って、とりあえず頭をぐしゃぐしゃと撫でた。いや、まあこれが図に乗りすぎだな。そう少し反省しながら、口を開く。

「まあ、これからは俺で我慢しろ」

 ぱっと手を離す。結局気の利いたことは言えなかったし、これはこれで図に乗っている気がする。でもなんて言えばいいか分からなかった。でも、俺、いるし。出て行くつもりも出て行かせるつもりもない。一人じゃないだろ。まあ、残ったのは好きでも何でもないただの元同級生だけど。ぐだぐだとそんなことを考えている間もは黙っていた。いたたまれなくて「なんか言えよ」と軽く小突いておいた。


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