金曜日の午前十時前。リビングのソファに腰を下ろしてスマホを見ている。持っている中で一番気に入っている軽めのアウターを着てここで待つこと約十五分。若干、緊張している自分がいる。
 昨日の夜、寝る前にひかりが声をかけてきた。とんでもなく得意げな顔をしていたからちょっとビビってしまった。ひかりは笑いながら俺に「明日、めちゃくちゃ楽しみにしててね」とだけ言って自分の部屋に戻っていった。その言葉ですぐに大体の意味を理解した。
 今日はと出かける約束をしている日だ。その前にひかりがの服を選ぶと意気込んでいた。先週末に二人で買い物に行っていた。車を出そうかと言ったら「それじゃあ面白くないじゃん」とひかりが言って俺の出番はなし。二人は買い物から帰ってきてもこそこそしていてどんなものを買ったのかは全く知らないままだ。
 俺とは九年ぶりに再会して即結婚、という順序をすべて無視した形でここまで来たし、そもそも恋愛結婚ではない。交際期間などもちろんない。所謂デート≠ニいうものは一度もしたことがないまま。
 当たり前だ。は俺のことが好きで結婚してくれたわけじゃないし、俺もそういうことは求めなかった。俺の仕事が休みの日に買い出しについて行ったり、たまに外食をしたりはしているけれど。どれもこれも何かのついで、ということが多い。だから、今日が正真正銘、はじめて二人で出かける日というわけなのだ。
 まあ、今日のこれもデート≠ニいうものではない。俺はのことが好きだからどこに行くにしても楽しいけど、はそういうわけではない。むしろ二人で出かけることを了承してくれただけで十分だ。が行きたいところに行って帰ってくるだけでいい。が行きたがるところなんてこれっぽっちも思いつかなかったから本人に聞くつもりでいる。
 一応、のことだからどこでもいいと言い出す可能性を考慮した。翔太にが好きな場所を聞いてみたら「あんまりどこかに行きたがることはないけど、子どもの頃は海が大好きだった」という情報を手に入れた。どこでもいい、と言われたらとりあえず海のほうへ走りながら適当にぶらつけばいい。ドライブになっても構わない。俺は何でもいいのだ。
 階段を下りてくる足音が聞こえる。スマホから顔を上げて思わずドアのほうへ視線を向けるが、ドアが開く様子がない。トイレにでも行ったのだろうか。不思議に思っていると、突然勢いよくドアが開いた。

「賢二郎さんおまたせー!」
「あ、ちょ、ひかり!」
「どう? あたしが選んだんだよ! かわいいでしょ?」

 スマホをポケットに入れる。少し恥ずかしそうにしているは俺のほうを見たりひかりのほうを見たりと忙しそうにしている。その顔、結構好きなんだよな。滅多に見せてくれないけど。そう思いながらポケットから財布を取り出す。が首を傾げているのが分かったがとりあえずスルーして、一枚札を取り出してひかりに渡してやった。昼食は翔太と二人でどうにかしなきゃいけないわけだし、正直夕飯も今日だけ我慢してもらうつもりだ。「これで好きなもの食べろ。釣りはやる」と言ったらが驚愕の表情を浮かべた。まあ、チップのような意味も含んでいる。はもちろんそんなこととは想像もしていないだろう。札を受け取ったひかりは大体の意味を察しているらしい。にこにこと笑いながらじっと俺を見てきた。

「言葉で言ったほうがいいと思うけどね」

 そう言ってから「お兄ちゃんとお寿司取っていい?」と言う。相変わらず敵わない。若干バツが悪くなりつつ「好きにしろ」と返したら、ひかりは嬉しそうに「お兄ちゃん今日お寿司にしよー!」と元気にリビングから出て行った。
 ひかりの背中を見送ってからが「甘やかしすぎじゃない……?」と不安そうに言う。無駄遣いする子ではないと分かっているけど、さすがにちょっと。そんなふうに。リビングのドアに向いていた視線が俺のほうに向く。どうやらじっと見ていたのがバレたらしい。目をぱちくりとさせてから苦笑いをこぼした。「せっかく選んでくれたから着替えるに着替えられなくて」とよく分からないことを言う。俺が見ているのは服が似合っていないからなのだろう、と思っているに違いない。本当、馬鹿なやつ。恥ずかしそうな顔を見てこっそり悪態をついてしまった。
 普段からあまりスカートやワンピースを着ているところはあまり見ない。きれいな脚なのにもったいない、と思うこともあるけど、いろんな意味でそのほうが有難いと思う場面も多かった。はなんというか、結構隙が多いし自分が女性であるという自覚が少々足りていない。好意を持っている俺からするとたまに、まあ、困る瞬間もあるから。
 白くてまっすぐな脚。ただ単純にきれいだな、と思う。ふわふわと揺れるスカートも、ひかりがセットしたらしいいつもよりきらきらして見える髪も、きれいに化粧をした顔も、何もかも。何より一等きれいだ。かわいい。ぼんやりそんなことを思いつつ玄関へ向かって靴を履く。隣でいつもの動きやすいスニーカーではなく女性らしいパンプスを履いているをまたじっと見てしまう。いつものラフで動きやすい感じも嫌いじゃないけど、こういうほうが、似合うと思う。靴を履き終わってからの真正面に立ってじっとを見下ろすと、ちょっと居心地悪そうにが顔を上げた。「さっきからどうしたの?」と苦笑いをこぼされる。言葉にしたほうがいいと思うけどね。ひかりが言った言葉を思い出してから、口を開く。

「いや、はじめて見たけどそういう格好もかわいいなって思って」

 素直に言えた。照れずに。心から思ったことはどんな言葉でも照れずに言えるもんだな。内心でそう考えていると、が俺から目を逸らした。ちょっとだけ顔が赤い。「それはどうも」と小さな声で言ったものだから、余計にかわいくて。「照れるなよ」と笑ってやった。はちょっと不満げなまま立ち上がる。こっちを見てくれない。少しだけむくれているように見えた。
 車に乗り込んでから「とりあえず適当に走るから興味あるところあったら言って」と伝えた。も行きたいところは特にないみたいだ。とりあえずの目的地を聞かれたから「海」と答えると、なんだか意外そうな顔をされる。子どものころに好きだと聞いたから、と言うと、は少し面食らった顔をして押し黙ってしまった。外したか? でも、翔太から聞いたから間違いないはずなんだけど。一応他のところでもいいけど、と提案してみたがは最終的に「海がいい」と曖昧に笑った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 薄ら雲がある空は穏やかで、風が強いけれどちょうどいい天気だ。きらめく海の果てを見ていたら、なんとなくほっとした。肩の力が抜けて、なぜだか頭の中がきちんと整頓されたような。そんな気がした。ああ、俺、疲れてたんだな。仕事とか環境とか、そういうことじゃなくて。考えること≠ノ疲れていたんだろう。素直にそう思った。
 ずっと、考えていた。本当にこれでよかったか、と。結局俺はただの偽善と自己満足でを縛っただけなんじゃないか、とずっと考えていた。ここまできたら手放すつもりはもちろんないし、途中でやめることのほうが無責任だと断言できる。でも、それでも、が本当はどう思っているのかが気になった。もちろんは教えてくれない。聞いても本心は話してくれないに決まっている。気まずくなることが嫌で聞いていないままだ。
 ひかりは純愛≠セと言ってくれたが、その実そういうわけでもない。とまだ再会していない間に別の女性と付き合ったし、好きだと思っていたはずだった。の影を探していたとしてもそれは事実だし、俺は自分のことをそんなきれいな言葉で表せるとは思わない。フラれてからもずっと忘れられずに誰とも付き合っていなかった、ならそう言われてもいいかもしれないけれど。
 ふと、が俺を見ていることに気が付いた。顔を向けて「なんだよ」と聞いてみる。せっかく海に来てるんだから海を見ろよ。いつでも見られる顔じゃなくて。は曖昧に笑って「なんでもない」と誤魔化した。いつものことだ。もう慣れた。

「ねえ、やっぱり下りてみようよ。ちょっと歩くだけ」
「危ないから却下。怪我させてひかりに怒られんの俺だぞ」
「子どもじゃないんだから転ばないよ」

 珍しい。そんなふうに思う。は何がしたいとかどうしたいとかはあまり言わないし、言ったとしても反対されたらすぐに諦める。やっぱり海、好きなんだな。そう思いながらもどうしようか迷う。がスニーカーなら問題なかったけど、今日は履き慣れていない靴だ。しかも風が強いから煽られて動きづらいだろう。砂が目に入るかもしれないし。却下の要素しかない。

「ちょっとだけ。だめ?」

 ぐ、と自分の中で音がしたのが聞こえた。これ、わざとやってんのか? 好きな子にそんなふうにお願いされてだめだと言える男はいない。負けた。若干悔しくなりながら堤防を歩いて行く。階段を見つけてから「ちょっとだけだからな」と言う。は嬉しそうに「うん」と笑った。かわいい。夢かと思うくらいに。
 岩を組んである階段を下りづらそうにしているを見て、手を貸そうかと思った。でも。好きでもない男の手を触るなんて嫌か。そう思ってやめた。転ばずに階段を下りきったはまっすぐ海を見つめて「きれい」と呟いた。その瞳が光る水面と同じように光って、髪は風になびいて波のようだ。ふわりと揺れるスカートも、服についたリボンも。何もかもが、何よりもきれいだと思った。
 考えたって無駄なのだ。これが偽善と自己満足からはじまったことだったとしても、もしが本心ではもうやめたいと思っていても。俺はきっとそう簡単に逃がしてやれないのだ。それくらい、好きだと瞳に映る何もかもが教えてくれる。きれいだ。何よりも。それだけが俺にとっての答えだからもう変えようがない。が俺と一緒にいると息が詰まって死んでしまう、と泣き出さない限り、いくら考えたって無駄だった。
 が海を見つめたまま進もうとする。足下に落ちている先の鋭い木の枝が見えたから、慌てて声をかける。が立ち止まってから「歩くなら足下を見ろ」と木の枝を指差した。言ってから反省した。もっと優しい言い方があるだろ。いくらそう思っても優しく、というのがいまいち分かっていないから「だから言ったんだよ」とまた優しくない言葉が出て行った。
 好きな子だけに優しくするにはどうするのが一番いいんだろうか。じっとの顔を見ていたら自然と手を差し出していた。好きでもない男の手に触るのは嫌だろうと、階段を下りているときに引っ込めた手だ。嫌がられたらまた引っ込めればいい。俺ができる最大限の優しさはこれくらいしか思い浮かばなくて。
 不思議そうに手を見つめたが「何?」と首を傾げた。鈍い。若干がっくりした。全くそういうふうに見られていないということだろうか。それはそれで悔しいし、少し、へこむ。「転ばれたら本当にひかりが怖いから。だから、手出せ」と言ったら、一つ間を空けてから当たり前のように手を取ってくれた。
 こんなにあっさり、手を繋いでしまってもいいものなのだろうか。もしかして髪を触らせてくれたときと同じ感じだろうか。「白布ならまあいいか」みたいな。ならそれもあり得る。ほんの少し騒がしくなった心臓をなだめるように息を吐く。期待するな。にそんなつもりはない。中学生じゃないんだから手を繋いだくらいで舞い上がるな。そんなふうに。
 一人でそう考えているところに「あ」というの声がカットインしてきた。ハッとして顔を上げる。が足下を見ている。靴に砂が入って気持ち悪いとか何か踏んだとかだろうか。いろいろ聞いてみると「なんでもない」と「大したことじゃないから大丈夫」としか言わない。
 まだひかりたちが俺を白布さん、と呼んでいた頃にひかりに言われたことは未だに胸に刻まれている。「お姉ちゃんを泣かしたり、お姉ちゃんに怪我させたりしないでね」。そう言われる前にはひかりの笑った顔が好きだ、と言ってくれると教えてくれた。つまり、万が一を泣かせたりが怪我をしたりしたら笑顔でいられなくなるからね、という意味だと俺は受け取っている。今思い出しても怖い。とんでもない妹になるくらいはひかりをかわいがってきたのだろう。翔太のことも同じく。それはそうか。きっと、自分よりも大事だと当たり前に言うに違いない。そう思ったらこっそり笑ってしまった。

「気分悪いのか?」
「いや、違うの、本当に大したことじゃないからいいってば」
「大したことじゃないなら言えよ。何?」
「……か、貝殻が、きれいだなって思っただけ。ね、大したことじゃないでしょ」

 びっくりした。貝殻がきれい。なんだ、そんなことか。そう思いながら足下に視線を落とす。貝殻。どれのことだ? こういうのに疎い自覚はある。「どれ?」と聞いてみると「これ」と指差して教えてくれた。しゃがんでよく見ると薄いピンクの小さな貝殻が落ちている。よく見つけたな、こんなの。砂浜に少し同化して見えづらいというのに。すぐに見つけてきれいだと思うその感性が素直にすごいと思った。俺はこういうの、基本的に自分で見つけられないし見つけても何も思わないから。でも、がきれいだと言ったらきれいに見える。人の心というのは不思議なものだ。永遠にどういう原理で動いていてどこに在るのかなんてことは解明されないだろう。
 視野を広く持て、と父親によく言われていた。狭く小さい範囲だけを見ていたら、それ以外の可能性を見落としてしまうからと。可能性は多ければ多いほどいい。選ぶ道が増えるし自分のためになるから。それはそうだと思っていた。高校三年生までは。
 牛島さんがいないチームに白布賢二郎というセッターは必要なのだろうか。そう思っていた俺を監督は叱ったし、部員たちも正セッターに相応しくないとは言わなかった。どうして何かよく分からなかったけれど、一つ後輩の五色が精神的に崩れかかっていることに気が付いた瞬間に、分かった。スポ薦で入った一年生セッターより、一つ後輩の背が高い二年生セッターより、俺のほうが長く五色や他のメンバーと関わって実際にトスを上げてきた。だから、些細な変化や調子の良し悪しに気付ける。それはいくらセットアップが優れた選手であろうが、背が高く他に武器のある選手だろうが、一日で得られるものではない。俺は、最も選手それぞれのことを把握して対処できるセッターである、と評価されていたのだろう。
 ずっとコートを広く見ていた。チームメイトの調子はどうか。相手チームの動きはどうか。味方のベンチの様子はどうか。相手のベンチの様子はどうか。もちろん、高校二年生のときもチームメイトの調子には気を遣っていたつもりだった。でも、調子が悪い選手の士気を上げるのは俺じゃなくて三年の先輩だったことが多くて。そのほうが上手くいくと俺も思っていたから何とも思っていなかった。広く広く、誰の調子があまり良くなくて誰が調子が良いか。それだけを把握することに努めていた。それはもちろん悪いことではなかっただろう。そのときは、そういう見方がチームに合っていただけのこと。自分の立場が変わってそれに気付けなかったのは俺の落ち度だ。外周五十周しておけばよかったな。懐かしく思いながら笑った。

「これを見つけてきれいだって思えるのほうがよっぽど、いろんなものが見えてる」

 ああ、そうか。今になって分かった。が入院してきたときに、を大泣きさせたことがある。若干トラウマだからあれ以来触れたことはなかったけれど、今の今まで、それほどは追い詰められていたのだろう、と思っていた。だから泣いたのだ、と。
 違ったんだ。あれは、苦しくて泣いたんだじゃない。怒りと悲しみで泣いたのだ。俺に対して、自分に対して。高校のときにいつも曖昧に笑う顔が忘れられない。高校を辞めて働くと言ったときの顔も。くしゃくしゃの履歴書を思い出す。異常なほど翔太とひかりを思って学校に行かせたがる。知っていたつもりだった。は高校をちゃんと卒業したかったのだろう、と分かっていたつもりだ。でも、俺が思っていた以上に、悔しかったのだろう。
 でも、はきっと、自分の意見を言えるような状態じゃなかった。聞いた話ではおばあさんはが高校を辞める少し前に認知症になって介護が必要だったそうだ。その上にまだ幼い翔太とひかりがいる。両親は他界していて、頼れる親戚はいない。何が何でも、すべてを無視してでも高校を卒業したい、なんてことは、言いたくても言えない。誰か助けて、と言ってしまいたかっただろう。でも、言えない。誰も助けてくれないと知っているから。言って助けてくれるならとっくの昔に言っていただろうから。
 自分のことも少しは考えろよ。俺はにそう言った。優しさのつもりで言った。少しは自分を大事にしろよ、と言いたかった。でも、それが、にとっては何よりも、腹立たしかったに違いない。今分かった。
 思わずの手を強く握ってしまった。それから「ごめん」と声が漏れた。突然の言葉にが驚いているのが分かる。当たり前だ。今更すぎる話だし、この話をするつもりは一生なかった。好きな子を泣かせてしまった記憶なんて持っていたくなかったから。でも、この記憶は必要だ。あれこそががはじめて俺に見せてくれた本心の塊の涙だったから。

「入院してきたとき、無責任なこと言って悪かった」

 がこれまでの人生すべてを懸けて歯を食いしばってきたことを、俺はないがしろにしようとした。そんなふうに歩んできたことを知らなかったとはいえ、勝手に捨てさせようとしたのだ。その事実は消えない。きっとの記憶からも消えないだろう。のことが好きだから、どうにか笑ってほしくて言った言葉だった。でも、それがにとってそういう言葉になるとは限らない。小学生の頃に好きな女の子を泣かせてしまったときと同じだ。本当、いつまで経っても成長しないな。思わず視線が俯く。伸びた前髪が目にかかって鬱陶しかった。でも、顔を上げることができない。
 そんな俺の顔をが覗き込んできた。じっと俺の顔を見つめて数回瞬きをする。少し上目遣いになっているその顔が、やっぱり、かわいくて。ちょっとバツが悪くなる。ずっとかわいいとかきれいとかそんなことしか考えてないな。どれだけ好きなんだよ。そんなふうに自分に呆れた。
 遠くでカモメが鳴く高い声が聞こえた。はその声にくすぐられたように突然笑う。なんだか俺のことを笑っているみたいに見えて悔しくて。でも、やっぱり、笑った顔が一番好きだ。「笑うな」と言いつつおでこをつつく。はそれでも、俺が一番好きな顔で笑っていた。


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