九月、いつも通り仕事をしていると「簡単な処置だから」と言われて一人患者を任された。捻挫だろうとのことだ。骨折は恐らくしていないだろうけど、念のために確認と本人がテーピングの巻き方を知りたいらしいから教えてほしいと言われた。すでに診療室にいるとのことだったので少し急いで診療棟を歩いた。
 診療室に入るとすでに女性が待っていた。「すみません、遅くなりました」と謝罪しながら椅子に座る。電子カルテに目を通していきながら、ふと、彼女の名前で目が止まる。見たことがある名前だ。けど、知り合いではない。そもそもこれくらいの年齢の知り合いはあまりいない。なんだったか。ちらりと顔を見てもやはり知り合いではなかった。知らない顔だ。もちろん病院関係者でもない。けれど、確実に知っている名前だった。
 女性から捻挫の経緯を聞いた。すでにレントゲンは撮り終わっていたので確認したが骨折はしていない。そう説明したらほっとした顔をした。
 父親の介護中に捻挫をしたのだという。「母親と二人でやってるのにすごく大変で」と苦笑いをこぼす。痛み止めをもらえないかと聞かれて驚いた。休むことなく介護に戻ろうとしている。「安静が第一ですよ」と言ってみたが「母一人ではどうにもならないので」と笑うだけだった。

「正直、介護がこんなに大変だなんて思っていなかったんです。昔の同僚に若い女の子がいて、その子もおばあさんの介護をしているって言ってたんですけどいつもにこにこしてて、つらそうな顔なんて見たことがなかったから」

 女性はへらりと笑って「介護って簡単なんだって思ってしまったんですよね」と少し俯いて言った。そのあと、独り言のように「元気かな」と呟く。昔の同僚。若い女の子。おばあさんの介護。今の言葉で思い出した。翔太とひかりに、自分の連絡先を書いたメモを渡しに来た女性。彼女が、その人だった。
 テーピングの巻き方を、と言われたのでできる限り分かりやすいように、簡単に巻けるように教えた。休むつもりはないらしい。「できる限りでいいので安静にしてください」と言ったら女性は「仕事はどうでもいいんで休んでやりますけど」とけらけら笑った。これは何を言っても聞いてくれなさそうだ。ちょっと苦笑いが漏れたけれど「何かあったらまたすぐ来てください」と言って、湿布と痛み止めを処方した。
 女性が松葉杖を持ちつつ「ありがとうございました」と言って立ち上がろうとする。思わず、言葉が出た。「元気ですよ」と。女性がびっくりしたように目を丸くする。当たり前だ。俺が笑ってしまうと余計に不思議そうにされてしまった。

、元気にしてます。何事もなく」

 何事もなく、は嘘だったかもしれない。少しそう思ったけれど訂正はしなかった。この女性にとっての何事もなく≠ノ間違いはないだろうから。女性は何度か瞬きをしてからゆっくりとまた椅子に腰を下ろした。しばらく黙ってから、驚いた様子で「さんの、えっと?」と聞かれる。まあ、突然のことだったし困惑させてしまうのも仕方がない。少し申し訳なく思いながら「夫です」と答えた。
 どうして自分が元同僚だと分かったのか、と聞かれたので翔太とひかりに渡したメモの話をした。女性はなんだか恥ずかしそうにして「あの子たちまだあれ置いてくれてるんだ」と呟く。それからまた笑って「捨てていいよ、って教えてあげてください」と言った。

「でも、ほっとしました。なんだかずっと気になっていたんです」

 その気持ち、身に覚えがある。俺もそうだった。懐かしく思いながら「ありがとうございました」と礼を言うと「いや、何もしてないですよ」と謙遜されてしまった。
 今度こそ、と女性が立ち上がる。荷物を持ってから俺のほうを振り返ると、今日ここで自分に会ったことは秘密にしてほしいと言われた。帰ったら話そうと思っていただけに面食らってしまう。きっとも喜ぶだろうに。そう思っている俺にその人が「私のことを思い出したら、嫌なことまで思い出すでしょう」と言った。

「優しくて、世間知らずで、頑張ってしまう子だから」

 なんだか申し訳なさそうな声色に聞こえた。優しい人だな。が言っていた通りに。内心でそう思いながら「知ってます」と返した。



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 夜、が風呂に行ったタイミングで翔太に「あのメモ、もう捨てていいってさ」と教えた。翔太は首を傾げて「どのメモ?」と言う。ひかりも同じく。まあ、そう言うだろうな。そう笑いながら「電話台の裏に貼ってあるメモ」と付け足すと、翔太が余計に首を傾げた。

「病院に来たんだよ、あのメモの人」
「え! お姉ちゃんの前の職場の人ってことだよね?」
「そう。捨てていいって教えてあげてって言われたから」

 話した内容を簡潔に話すと、ひかりが電話が置いてある棚に近付いた。テープで貼り付けてあるそれを剥がして持ってくると、じっとそれを見つめた。「もう捨てちゃっていいんだ」と呟いてから、翔太の顔を見る。「どうする?」とそのメモを翔太に手渡すと、困ったように笑った。

「お姉ちゃんに渡す?」
「でも内緒って言われただろ。賢二郎さんだって会ったこと秘密にしてって言われてるし」
「そっか〜。でも、なんか捨てがたいね。お姉ちゃんのためのメモだから」

 そう困ったように笑うと、翔太も同じような顔をして笑った。「お礼くらい言いたかったね」と言って。メモを渡しに来た日きり会ったことがないんだったな、そういえば。きっとあの女性からすれば二度と会うことはないつもりだろうから当然だが。彼女にとってはもう二度と会わないことこそが最大の餞なのだろう。そういう見守り方もあるのか。そんなふうに思った。
 どうにも捨てがたい様子だった二人に「俺が持っていようか」と提案してみた。自分で持っていたい、と言うかと思ったのだが翔太があっさり「うん」と言って渡してきたから驚いた。思わず「いいのか?」と確認してしまう俺にひかりが笑って「賢二郎さんから言ったんじゃん」とツッコミを入れてくる。全くその通りだ。苦笑いをこぼしつつ、受け取った。

「俺とひかりはいつか必ず家を出るから。これからずっと姉ちゃんと一緒にいる賢二郎さんに持っててほしいなって」

 な、とひかりの顔を見る。翔太の顔はいつになく落ち着いた大人っぽいものだった。ひかりも同じく。恐れ入る。本当にお互いのことが好きな家族だな。微笑ましいほどに、羨ましいほどに。改めてそう思った。
 風呂場のドアが開いた音が聞こえた。三人ともびくっと少し肩を震わせてから「内緒ね」と言い合ってから何事もなかったように別の話をした。受験のこととか、この前観たドラマの話とか。近付いてくるの足音を聞きながら、最後にもう一度だけ三人で笑い合った。


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