翔太は関西の国立大学、ひかりは私立白浜女子学園高校に志望校を決めた。翔太は学びたい分野に特化した学部のことをしっかり調べているし自分の学力レベルをよく理解している。基本的に学力に関しては何も心配していない。きっと無事に受験を終えられるだろう。
 ひかりのほうはあまり勉強は得意ではないようだったけど、運動神経は抜群にいい。白浜女子学園は自己推薦型のスポーツ推薦も行っている。一応試験もあるけど調べてみたら現代文と英語のみの試験だった。それならある程度範囲を絞って勉強できる。無茶な話ではない。ひかりは負けず嫌いだからそもそも心配していない。運動部は学生寮に入ることになるけど、ひかりなら楽しく三年間を過ごせそうだ。
 は二人の進路を聞いて少し動揺していた。まさかもう家を出て行くなんて思わなかったのだろう。翔太はともかく、ひかりが全寮制の高校を選ぶことは想像してなかったはずだ。俺の隣で二人の話を聞いている間、ずっと瞬きをせずにただただ驚いている様子だった。呼吸も忘れているんじゃないかと心配になるほど。思わず「今生の別れじゃあるまいし、そんな顔するなよ」と呆れながら呟いてしまった。
 ハッとした様子で慌てて「いいと思うよ」と笑顔を作った。その顔は好きじゃない。俺はもちろん、翔太とひかりも。翔太が俯いた。ひかりもほんの少しだけ眉を下げた。姉が寂しがっている、とすぐに分かっている。なんと言葉をかければいいか考えている。何もかける言葉はないだろう。この場合、言葉を発するべきは二人ではなくのほうだ。
 無理やり笑わなくてもいいし、言いたいことはそのまま言えば二人は分かってくれる。それだけの信頼関係はとっくにあるはずだ。

「……本当は二人が、この家から出て行っちゃうことが、すごく、寂しい」

 たぶんはじめて本心を話した、と思う。もちろんこれまで思っていたであろう、二人には学生として思い切り楽しんでほしい、というのも本心に違いない。でも、自分の感情を話している姿はあまり見ない。俯いていた翔太が顔を上げた。ひかりにいつもの笑顔が戻った。は一瞬二人から目を逸らして、またすぐに二人の顔を交互に見て、小さく笑った。

「でも、二人が、やりたいことをやりたいって言ってくれて、嬉しいから、応援するよ」

 ちょっと情けない声だった。でも、無理やり笑っているときなんか比べものにならないくらいいい顔をしている。そんなの横顔を見たら思わず「死ぬ気で勉強すればどこにでも受かる。絶対受かれよ」と二人に言っていた。
 二人が勉強をする、とそれぞれ部屋に戻っていく。リビングから出て行く前にひかりが振り返って「賢二郎さんちょっと」と呼んできた。「何?」と立ち上がりながら聞くと「勉強教えて」と言われる。それくらいいけど。なんでリビングじゃなくて部屋に行くんだ。ちょっと違和感を覚えつつもひかりの後に続いてリビングを出た。
 二階にあがると部屋に入る翔太がこちらを振り返った。それから「あ、俺も後で数学教えてほしい」と声をかけてくる。正直俺、翔太に教える自信ないんだけど。ちょっと苦笑いをこぼしつつ「分かる範囲でいいなら」と答えておく。翔太とはそこで一旦別れて、翔太の部屋の奥にあるひかりの部屋に入った。
 ひかりの部屋は女の子らしいかわいいもので溢れている。ぬいぐるみとか、洋服とか。ひかりが笑って「全部お姉ちゃんがくれたんだ」と言った。はときどき、記念日でも何でもない日にこういうものを買ってきてはひかりに渡していたのだという。翔太にも同様に。ひかりは「お姉ちゃんが一生懸命稼いだお金で買ってくれたって思ったら捨てられないの」と笑う。よくよく部屋を見てみると、机の上に置かれている文房具やノートはシンプルでシックな色合いのものばかり。流行りのものは一つも見当たらなかった。
 机の上に写真が飾ってある。まだひかりが幼い頃、祖父母が存命だったときの写真と、まだひかりが生まれて間もないころの両親との写真、そして、と翔太とひかりの三人の写真。その中に俺も入った四人での写真もある。あと、タクヤらしき彼氏との写真も。

「妹としての義務、果たしたよ」
「……早くないか?」
「お姉ちゃんって、賢二郎さんのこと好きじゃないでしょ」

 思わず体が固まった。ひかりはそれを見てにっこりと笑って「やっぱり」と呟く。そうして椅子に座りながら机に置かれている問題集をぱらぱらとめくった。

「変だなって最初から思ってたんだ。お姉ちゃん、恋愛なんかしてる時間なかっただろうし、デートに行ってるような感じもなかった。かわいい服も化粧品も何も買わなかったし。お姉ちゃんの性格上、彼氏ができたら彼氏に良く思ってもらえるように頑張るもん、絶対」

 分からないらしい問題のページを開いた問題集を俺に差し出してくる。差し出したまま「それに、賢二郎さんと話してるとき、よく申し訳なさそうにしてるから」と言った。全部見抜かれている。俺が、というよりはが。でも悪いのはじゃない。こういう状況を作った俺が悪い。さすがに誤魔化しきれなくて、言葉を見つけられない。とりあえず何も言えないまま問題集を受け取る。
 妹の義務は果たした。ひかりはそう言った。姉が好きでもない男と結婚して、同居している状況を良しとするわけがない。金をダシにして姉を取り込んだ悪い男。ひかりにとって俺はそんなふうにしか見えていないはずだ。実際その通りだし何も言い返せない。出て行けと言われるのか、姉と別れろと言われるのか。

「賢二郎さんって馬鹿だよね」
「……悪かったな、馬鹿で最低なやつで」
「え、あたし最低なんて言ってなくない?」

 ひどい、とひかりが笑った。何の裏もなさそうな笑顔。ちょっと困惑していると「お姉ちゃんとお兄ちゃんには内緒だよ」と前置きをしてから、机に置いてあるタクヤとの写真を手に取った。

「小学生のときからずっと片思いしてたんだ」
「……ならよかったな、タクヤから告白されたんだろ?」
「あれ、嘘」
「はあ?」
「あたしから告白したの。好きな子も彼女もいないなら、お試しでいいから付き合ってって」

 何かを隠しているのは分かっていたが、なぜそんなことを? 理由が分からないからひかりの言葉を待つ。そんな俺の様子が分かったらしいひかりがほんの少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。それからぼそりと「嬉しかったからお姉ちゃんたちにも言いたかったけど、あたしが必死すぎて馬鹿みたいだから嘘ついちゃった」と呟く。必死すぎて馬鹿みたい、って。それだと好きにならなくてもいいから結婚してくれって頼んだ俺も馬鹿になるだろ。そう苦笑いをこぼしてしまう。
 写真の中で笑うひかりは、本当に楽しそうな顔をしている。と笑顔がよく似ている。かわいくて、明るい笑顔だ。隣で笑っているタクヤも楽しそうにしている。それから両思いになれたのか、と聞いたらひかりは「うん」と笑った。付き合い始めて一ヶ月後にひかりから「楽しかった。ありがとう」と別れを切り出したら必死に引き止めてくれたのだという。俺も好きだ、と言われたと嬉しそうに教えてくれた。

「だからね、ちゃんと好きって伝え続けたらきっと返ってくるよ」
「……姉ちゃんの味方しなくていいのか?」
「お姉ちゃんの味方しかしてないよ」

 幸せになってほしいから、と言った。ひかりは写真を机の上に戻して、ペンケースを開ける。ああ、勉強を教えてほしいんだったな。勉強机に近付いて、机の上に問題集を置く。ひかりはシャーペンを握りながらちらりと俺の顔を見た。

「面倒見てやるからって脅してえっちしたりしてないよね?」
「するわけないだろ。変なこと聞くな、怒るぞ」
「もう怒ってんじゃん。キスは?」
「結婚式のとき以外したことねえよ。怒るぞ、本当に」
「純愛じゃん。お姉ちゃんのこと愛してるんだね」

 なんでお前が得意げに笑うんだよ。少しバツが悪くなりつつ「まあ」とだけ返しておく。ひかりは余計ににこにこと笑って楽しそうにしていたけど、それきりその話題には触れてこなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 これからのの仕事のことを話した結果、は仕事を辞めることになった。管理をすべて任せていた通帳をちゃんと全部見たら結構余裕があったからだ。予想外のことに少し驚いてしまった。そんな俺を見ては何か不備があったのか、と勘違いしたらしくて「ごめんなさい」と謝ってきた。いや、むしろ、徹底的に無駄のない管理に驚いたんだけど。あまりにもきっちりしていて正直頭が上がらない思いだった。
 の両親と祖父母が遺してくれたものだという通帳もはじめて見た。恐らく翔太とひかりの学費を払うためにできる限り使わずに残していたのだろう。俺の通帳は定期的にチェックしていたけど、やけに減りが少ないような気がする、とは思っていた。聞いてみたら電気代や水道代は元々別の通帳から落ちるようにしてあるから、と説明されていた。わざわざ変更してもらうのも面倒だろうからそこは口出ししないままだった。その分は俺の通帳から戻しておけ、とは言ってあったけど。どうやら名義のほうから戻していたらしい。もう少しちゃんと見ておけばよかった。そう少しを睨んだら素直に「ごめんなさい」と謝られてしまった。そのあとで名義のものもはじめて見せてもらったが、こちらもそれなりにしっかり貯金されていて驚いた。どれだけ働いたんだよ。そう呆れもした。あと、俺の貯金から出さないように頑張りすぎだろ。一応注意しておいた。
 ずっと仕事はいつか辞めてほしいと思っていた。働きたいというのなら仕方ないけど、そういうわけじゃないなら。は家事を俺や翔太やひかりにさせたくないようで、何でもかんでも全部自分でやってしまう。そんなことしなくていいから、と言われると何とも言いがたくて仕方がない。俺や翔太やひかりだって、にゆっくり過ごしてほしいと思っているんだけど。そう言ってもなかなか理解されなくて困ってる。仕事を辞めればそう思うことも減るんじゃないかと思っていた。
 ひかりは学生寮だがスポーツ推薦で合格すれば通常より費用が減額されるし、翔太は自分でアルバイトをして生活してみたいと言っていた。もちろん仕送りはするつもりだが、最低限でいいと今からすでに言われている。
 なんとかなるだろ、この感じなら。どう見積もっても十分だ。何度頭の中でいろいろ計算してみてもが無理をしてパートをしなければいけない理由がない。なら、辞めてくれたほうが俺は嬉しい。お金の心配はしなくていいから結婚してくれ、と懇願した立場からすれば当たり前だ。何より帰ったら必ずいてくれたほうが嬉しい。そんなふうにストレートに伝えたらは少しだけ驚いていたようだった。でも、最終的には辞めてくれることになった。
 幸せの形なんてものは人によりけりだ。仕事をしているほうがいいと言う人もいれば、できればしたくないという人もいる。がどちらなのかは反応だけではよく分からなかったが、少しは時間に余裕を持って生活をできるようになるだろう。そうであれば俺は嬉しい。がどう思っているかは分からない。でも、普通に笑っているから大丈夫なのだと判断した。
 体調も良さそうだし、最近は変に思い詰めている様子もない。元気だ。俺が恋した高校時代のかわいい笑顔のまま。一生変わらないのだろうと思う。ずっとこうであってほしいと思う。そのために柄でもないことばかりしているし、言い続けているのだから。
 じっと見ていたら、きらりと光る髪に目がいく。触ってみたいな。そう思うたびに小学生のころの苦い思い出がフラッシュバックする。泣かれたら本気でへこむ。嫌がられても拒否されてもへこむ。でも、気になるものは気になるんだよな。思わずじっと見つめていた俺に気付いたらしいが「何?」と聞いてきた。いつもならはぐらかして何も言わないけど、今日は言葉を出す前に少し視線を逸らしてしまった。どうしても、一度だけ。そんなふうに思ってしまう。

「嫌なら嫌って言ってくれればいいんだけど」
「うん?」
「……髪」
「髪?」
「ちょっとだけ、触ってもいいか」

 面食らったような顔をした。それから不思議そうに「別にいいよ」と答えられる。まあ、ならそう答えるよな。ほっとしたような、少しへこむような。我が儘かよ。自分に呆れてしまう。
 今の答え方はあなただけはいいよ≠ニいう感じではなかった。あなたなら、まあ別にいいよ≠ニいう感じだったというか。は大抵の相手にそう答えるだろう。優しい子だから。分かっている。分かっていたけど、本当、悔しいな。けど、許可はくれた。嫌がられてはいない。「じゃあ」と言いながら手を伸ばす。ダサいけど、少しだけ指先が震えてしまっている。そりゃそうだ。勘弁してくれ。こっちは高校生のときからずっと、この瞬間を夢に見たのだから。
 不思議そうにしているの髪に少しだけ触れる。一束摘まんだ毛先を親指の腹で撫でる。俺の髪とはやっぱり違う。さらさらしていて艶がある。女の子の髪だ。きれいだな。道理で目が離せないわけだ。そう思った。
 パッと手を離す。まずい、触りすぎた。さすがに変に思われただろうか。「どうも」とだけ言ってそっぽを向いておく。嫌がられていたらどうしようか。髪を触られることが嫌いな女性は一定数いる。調子に乗りすぎた。そんなふうに反省しているとが「なんだったの?」とやけにしつこく聞いてきた。そんなふうに何度も聞いてくるのは珍しくて、なぜだか少し嬉しかった。とはいえ理由を言ったらドン引きされるんじゃないか、さすがに。そう思ったけれど、なんだか誤魔化せなくて「引くなよ」と念のため前置きをしておいた。

「高校生のときからなんとなく触ってみたかった」

 絶対引いているだろうから顔は見ない。そのまま逃げるように「それだけ。おやすみ」と言ってソファから立ち上がる。顔を見られないようにさっさとリビングから出てドアを閉めた。
 まだ、感触が残っている。のものだというだけであんなに特別に思えるものなんだな。人から見れば髪に触っただけだ。それ以上のことではないだろう。けれど、ずっと触ってみたかった俺にとっては、忘れられない感触だった。ぐっと拳を握る。仕事、頑張ろ。こっそり呟いた。


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