濡らしたタオルを目に当てているをちらりと見てから、窓の外に目を向ける。まあ、所謂絶景なのだろう。ただの街の灯りだが、さすがにここから見るとイルミネーションのように見えなくもない。さすが高級ホテル。内装も高級感が剥き出しだ。正直好みではないけど、特別感があるのは分かる。
 がタオルを目から離した。真っ赤になっている。ちょっと笑ってしまったけど、安心もした。泣いているところを見たのはが入院してきた日以来だったけど、あの日の涙とは全く違う涙だった。できるだけ泣いてほしくはないけど、今日の涙はにとって必要な涙だったと思う。だから、よかった。
 白布家が浮かれまくった結果のスイートルーム。二人で泊まりには広すぎるだろ。それなのにベッドは一つだし。俺はいいけどはどう思っているのだろうか。表情からはよく分からなかったけど、思わず嫌な顔が出るほどは嫌がっていないということだけは確かだった。
 窓際に立って景色を眺めつつ、結婚式のことを思い出している。いい式だったな。新郎として出ていた人間が言うことじゃないかもしれないけど。翔太もひかりも楽しそうだった。俺の家族も、来てくれた人たちも。絵に描いたように幸せな式だった。はどう思っているだろうか。聞いてみたいけど、意見を押しつけることになりそうで聞けなかった。
 ふと視線を感じてのほうを見ると、バチッと目が合った。夜景を見ていたのだろうか。それにしては少し深刻な顔をしているようにも見える。俺と二人きりは気まずくて嫌なのだろうか。そう思って一人にしようかと提案してみたけど、慌てて否定されてしまった。気を遣わなくていいのに。そう言ったら苦笑いをこぼされた。

「一人だと落ち着かないから一緒にいて」

 少しだけ照れくさそうに言った言葉に、勝手に心臓が小さく跳ねた。俗に言うきゅんとした≠ニいうやつだろう。まあ、好きな子に「一緒にいて」と言われて反応しないやつはいない。誤魔化すように「それならいいけど」と返しておいた。また窓の外に目を向けると、ガラスに映った自分の顔が薄ら笑っていて気味が悪かった。
 ブブ、とスマホのバイブレーションの音が聞こえた。思わず目を向けるとちょうどが机の置いてあるスマホを手に取ろうとしている。スマホを見る横顔を見ていると、指が画面をスライドしていく。写真か何かを見ているのだろうか。このタイミングで見るなら結婚式の写真だろう。そう予想しながら近付いて「写真?」と聞いてみる。がスマホの画面を見せてくれた。どうやらひかりから送られてきたらしい。隣に座りながら一緒に見せてもらうことにした。
 スライドされていく写真を見ながらが小さくため息をこぼした。不満でもあっただろうか。「なんだよ」と聞いてみると、は慌てた様子で「違うの」と苦笑いをこぼした。もう少し体型を戻したかった、と言った。まあ、確かに痩せてはいるけど。別に変じゃないし十分きれいだ。もう少しだけ戻ったほうが健康的だろうけど、痩せていようが太っていようが俺には関係ない。きれいだった。誰よりも何よりも。
 子どものころを思い出した。初恋の女の子の髪を何も言わないまま引っ張ってしまった。それで、いじわるをされたと勘違いされて泣かれてしまった。最後まで好きだったとは思ってもらえなかっただろう。言葉にしなくちゃ相手に伝わらないし、相手に伝わらなくちゃ思っていないのと同じ。そういえば、そうだったな。
 が写真をスライドしなくなった。勝手に手を伸ばしてスライドしてやると、若干緊張が表情に滲んでいる自分が写っていて少し恥ずかしかった。でも、いい写真だ。素直にそう思う。

「きれいだったけど。普通に」

 少し照れてしまった。普通に、なんて言わなくてよかっただろ。自分にそう呆れたが出て行った言葉は戻ってこない。の横顔から推察するに、恐らく違和感は持たれなかったらしい。よく言葉を間違える自覚がある。こういうときだけはが少し鈍感で助かった、と思ってしまう。
 それにしても。やっぱ白のタキシードはないだろ。着せられている感しかない。若干納得できないままだが、ひかりのごり押しもあったし、何よりが「似合うよ」と言ったから、嫌と言えなくて。やっぱり無理やりにでも落ち着いた色に変えればよかった。普通に恥ずかしい。コスプレかよ。そんなふうに思っていると「似合ってると思うけどなあ」とが笑う。まあ、それなら、いいけど。結局そうなる。納得はしていないけれど。
 が笑っている写真がたくさんある。ひかりもの笑顔が好きなのだと分かる写真ばかりだ。いい写真しかない。あとで俺にも送ってくれと頼もう。そんなことを考えていると、ふと、の視線がこっちに向いていることに気が付いた。「何?」と聞いてみる。は俺の問いかけに目を丸くして、なぜだか不思議そうにする。なんだそれ。ちょっと笑ってやりながら「なんでお前が不思議そうなんだよ」と言っておくと、は一瞬だけ視線を俯かせて、また俺を見た。

「白布は」
「賢二郎。お前、絶対心の中で白布≠チて呼び続けてるだろ」
「ご、ごめん」
「で、何?」
「ああ、うん、変な人だなって思って」
「……急に悪口か?」
「ごめん、そういう意味じゃなくて」

 じゃあなんだよ。体をしっかりのほうへ向ける。ソファの背もたれに軽く頬杖をついておく。が苦笑いをこぼして謝ってきた。その顔、あんまり好きじゃない。何かを思い悩んでいる顔だ。あまり良くない方向に物事を考えて複雑怪奇にしている。俺からすればこの状況に何一つ複雑なところなどないというのに。は未だにこねくり回したくて仕方ないらしい。
 ぽつぽつとが語った話に瞬きを忘れた。まず、開口一番に「わたしは何もできることがない」と言った。ふざけんな、と言い返しそうになったがぐっと堪える。今は俺が話を聞く番だ。がこんなふうに改まって自分のことを話したことは今まで一度もない。ここを逃したら本心を聞けなくなる。そう堪えた。
 自分にはできることもないし、自分と結婚するメリットがないとはっきり言い切った。人としても女としても価値がないから、と。だから、結婚しようと言われたときに、俺に対してできることは女としての役割くらいかと思っていたと苦笑いをこぼした。前に金は払うからそういう関係になれと言ってきた人がいたから、それと同じことかと思った。淡々と、何でもないことのようには話した。続けて、自分と一緒にいて俺は何を得られるのか、と申し訳なさそうに呟く。
 言いたいことが山ほどある。見上げたら首が痛くて嫌になるくらい。正直、なぜ理由が必要なのかすらも俺にはよく分からない。は俺に何を求めているのか。言葉の一つ一つをほどいていこうとすればするほど、この状況をなかったことにしたいのではないかと思えて、心臓の奥が少し痛い。後悔しているのだろうか。けれど、きっと、ただの後悔ではないのだろう。俺を自分の人生に巻き込んでしまった、なんて馬鹿げたことを考えているに違いない。巻き込んだのはこっちだ。勘違いするなよ。そう喉の奥で反論しておく。大体は飲み込むことにするとして、一つ、聞き流せないことがあった。

「金でそういう関係になれって言われたって、誰に? いつ?」
「昔のことだよ。会社の社長に言われたけど、もちろん断ったよ」
「当たり前だろうが。なんて会社?」

 が少し困惑した様子で会社名を言った。聞き覚えがあるな、その会社。なんだったか。少し記憶を辿るために視線をから外して俯く。どこだ。どこで聞いたんだったか。恐らく仕事関係じゃないし、誰かとの会話で聞いたような、何かを目にしたような。そう考えて、あ、と思い出す。翔太とひかりが棚の後ろに隠すように貼り付けてあるメモ。あれに書かれていた会社名だ。が高校を中退してすぐ働き出したところだ。その会社の先輩がには秘密で連絡先を弟と妹に渡してきた。に何かあったらここに電話しなさい、と言い残して。が帰ってこなくなったり、悩んでいたりしたら、と。
 思わず「ああ、なるほどな」と呟いてしまう。当然が不思議そうに「何が?」と聞いてきた。翔太とひかりが今日まで秘密を守ってきたことを俺がバラせるわけがない。「こっちの話」と雑に誤魔化しておいた。
 当時の話を詳しく聞いてみたら、翔太とひかりの学費を出す代わりに愛人になれと言われたという。肉体関係を持てばその都度お金を出す、と言われたとも。そのときに一緒に働いていた先輩が、はじめは意地悪だと勘違いしていたが本当は優しい人でよく助けてくれた、と。そう懐かしそうに話してが笑った。
 はずっと気付かない。人に頼ると申し訳なさそうにする。人が助けてくれても申し訳なさそうにする。けれど、誰かが手を差し伸べてくれるということは、それだけ周囲の人間がを助けたいと思っている証だ。簡単に言えば人から好かれている証拠だし、それだけが人を大切にしてきた軌跡でもある。決して悪いことではない。むしろ、誇ることだ。元職場の先輩がわざわざ家に来てまでのことを心配したのだ。それだけ、その人に好かれていたということなのに。は気付かない。たぶん、一生。

「正直、男の人ってそういうものなんだって思ってたから、結婚を提案されたときは白布もそうなんだって思っちゃった。ごめんね」

 おい、さすがに失礼だろ。思わず目を細めて睨んでしまった。「失礼なやつ」と呟くと申し訳なさそうな顔をされた。今は申し訳なく思え。本当に失礼だから。まあ、そう思われても仕方ない経緯があるとは、理解した。

「そんなろくでなしと一緒にするなよ」
「ごめんってば」
「結構傷付いた」
「ご、ごめんなさい、本当に」

 のほうに向けていた体を正面に向ける。背もたれに深くもたれ掛かりながら一つ呼吸。目を瞑りつつ肩から力を抜いた。頭まで背もたれに預けると、上を向いた拍子に前髪が顔にかかってしまう。適当に手で払ってからもう一つ呼吸。それからゆっくり目を開ける。
 価値がないとか何もできないとか、そんなこと、言うなよ。声にはできなかった。それでも、痛いほど悔しくて、腹立たしくて。目の前にいるだけで、元気そうにしているだけで、笑っているだけで、こんなにも満たされている人間もいるってこと、忘れんなよ。いや、分かってないのだから忘れるも何もないか。

「言っとくけど、別にそういうことに興味がないってわけじゃないからな」
「あ、別にわたし、女の子とそういうことをするお店に行かないでとは言わないよ」
「そうじゃねえよ、ふざけんな」

 がっくりしてしまった。さすがに今のはがっくりするだろ。異性が相手なら誰でもいいと思われているのだろうか。普通にショックなんだけど。項垂れているとがどうやら自分の失態に気付いたらしい。慌てた様子で「今のはわたしが悪いです、申し訳ない……」と謝ってきた。その通り。反省しろ。
 それにしてもあまりしたくない話になってしまった。そりゃあ、俺だって男だ。好きな子と一緒の家に住んでいて気持ちが揺らがないなんてことはない。は無防備だし、あまり警戒心もない。信頼されているのはとてもよく伝わってくるが、まあ、男としては多少思うところはある。ただ、条件としてそういうことを求めるのは死んでも御免だった。
 背もたれに頭を預けたまま天井を見上げている。さっきから視界の隅にいるがじっと俺を見ていることには気付いている。申し訳ない気持ちから何か言葉を出そうとしているのは分かった。気にしなくていいのに。内心そう思うが言葉にはならない。気にかけてくれることは素直に嬉しい。卑怯なやつだな。自分の情けなさに小さく息を吐く。

「いいよ、わたし」
「…………は?」
「白布にはいろいろ助けてもらってるし、それくらいしかわたしにはできなから。白布なら別にいいよ」

 思わずの顔をじっと見てしまった。今、なんて言った? 思わず聞き返しそうになったのをぐっと堪える。それからすぐ、ぐっと拳を握ってしまった。
 賢二郎くんにだけは触らせてあげる、って言ってもらえるくらい好きになってもらわなきゃ。℃qどもの頃に母親に言われた言葉がまた頭に浮かんだ。白布ならいいよ=Aか。多少は特別扱いをされているのかもしれないけれど、俺がほしい言葉ではない。まあ、ほしいなんて口が裂けても言わないけれど。
 とりあえず名前呼びはそろそろ定着させてほしい。そこの文句をつけておく。それにしても、ここまでフラットな対応をされると、さすがに堪える。思わずため息がこぼれる。から顔を背けるようにソファの背もたれにもたれかかりながら反対側を向いてやった。本当、悔しい、泣くぞ。そんなふうに呟いてしまった。


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