三月十二日土曜日。空には薄らと雲がかかっているが、雨が降らなくて安心した。晴天ではないが悪い天気ではない。このあと晴れていくであろうと期待できるくらいの空模様だ。それで十分。そんなふうに思った。
 教会のステンドグラスを見つめる。色とりどりのそれがかすかに透けて光っているように見える。あまりこういうものに関心を持つタイプではないが、さすがに今日ばかりは思う。きれいだな、と。特別な光景に思えてならない。自分にもそういう割と普通の感覚があるのだと少し安心した。
 ろうそくの灯りだけがついている教会内は何とも言えない落ち着きに満ちている。誰も言葉を発さず、誰も動かない。俺はもちろんそうだが、来ている人たちも緊張していることが窺えた。扉の向こうはどうなのだろうか。ちらっと会った翔太はガチガチに緊張していたけれど。まあ、どうせ花嫁は緊張していないのだろう。そういう人だから。最近はそういうところも割と嫌いじゃない。悔しいことに変わりはないけれど。そう笑ってしまった。
 時間が来た。空気でそれが分かる。袖を少し直しながら扉のほうに目を向けると同時に扉が開いた。白いベール。子どものころは何とも思わなかったそれを、心からきれいだと思う自分がいる。高校生のころの自分はこんな未来を描いたことなどなかった。自分がこうなることも、こうすることも何もかも。想像などしたことがなかった未来は、純白で優しい光を放って、とんでもなく幻想的だった。
 ぎこちない足取りで俺の隣まで歩いて来たの手。翔太がその手を俺に託すようにこちらに導いた。その手をしっかり握ると、翔太が手を離した。その手が少し震えているのが分かる。緊張しすぎだろ。あとで労ってやらないと可哀想だな。翔太に薄く笑いかけると、少し照れくさそうではあったが小さく笑い返してくれた。
 今日までただの一度も、この日々を夢だと思うことはなかった。夢のような出来事だったにも関わらず、変に現実的に考えられていたしなんとなく使命感があった。俺が巻き込んだのだから、俺が言い出したのだから、と。何も考えずに生活を豊かにすることだけを考えていればいいと思っていた。
 だから、今この瞬間、はじめてと結婚するのだと実感した。現実的とかなんだとかそういうんじゃなくて。好きな子と結婚するんだな、と。夢から覚めたのに夢の中にいるような、現実なのに信じがたいような不思議な感覚。小さな手を握って強く実感したのだ。たった今、この瞬間に。相思相愛ではない。それでも、このシーンに何も心が動かないわけがない。思わず唇を噛みしめてしまった瞬間、牧師が優しく笑った。

「新郎賢二郎さん、貴方は妻となるさんに、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、妻を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」

 呪いだと思った。いついかなるときも愛していくと誓え、という呪い。俺にではなく、にとっての。いついかなるときも愛しているふりをしろ、という呪いだ。可哀想に。好きでもない俺とこんな誓いを立てなければいけないが可哀想でたまらない。今この場で走って逃げられても俺には何も文句が言えない。それでも、この手を離してやろうなんて、思えなくて。意外と自分がひどいやつだと思い知った。

「はい、誓います」

 強く手を握った。まだ少し冷たい手だ。握り返されることはない。けれど、振り払われることもなかった。それだけで十分だ。そう思ったら肩の力が抜けた。

「新婦さん、貴方は夫となる賢二郎さんに、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、夫を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」

 無理難題だ。健康だろうが、喜ばしいことばかりだろうが、金があろうが、なんだろうが、は俺を愛しているわけではない。好きな人ではない。そんな俺を愛せよと言われたって、には無茶な話なのだ。長く一緒にいれば情が湧くかもしれない。でも、それは愛と言えるのだろうか。俺は否だと思う。愛ではない。それはただの情。真に愛へと成ることはそうないだろう。
 一瞬だけの手が強張ったのが分かった。それに勝手に傷付く自分が情けない。傷付くのはのほうだ。俺は、金に物を言わせてと結婚したと言われても仕方がない卑怯な男だ。そんなに財力もないくせにな。大金持ちならまだこんな思いはしなかっただろう。いや、それもどうか微妙だな。そんなふうに一人でぐるぐると考えた。

「はい、誓います」

 まっすぐ澄んだきれいな声だ。好きだと心から思う。声一つでこんなに、目の奥が熱くなるほど想えるのに、決して返ってくることはない。それを望んだのは自分だ。何も言えることはない。それでも、気持ちは止まらなくて。
 にはめようとしているこの指輪は、完全に呪いになるのだろうな。こんなにも光っていてきれいに俺には見えるけれど、の瞳にそう見えることはない。足枷のように、首輪のように、消えない傷跡のように。いつか外したいと泣く日が来るかもしれない。そのとき俺は、素直に離してやることができるのだろうか。
 お互い同じ指輪をはめたあと、が動かなかった。段取りでは俺がベールを上げる前にが少しだけ頭を下げるはずだ。下げられなくてもベールは上げられる。けれど、それでは独りよがりに思えて。思わず小さな声で「おい」と声をかけてしまう。ハッとした様子のが慌てて頭を少し下げた。何を考えていたんだろうか。後悔しているのだろうか。確かめることはしない。何を言われてももう引き返すつもりは微塵にもないからだ。
 顔色がとても良くなった。まだ昔に比べたら痩せてしまっているけど、それもだいぶ戻った。無理やり笑うことも少なくなった。きれいな髪は昔のまま。昔と少しは違うところもあるが、それでもやっぱり、好きだと思う。だから、こんなにもきれいだと思うのだろう。きれいだよ。痛いほどそう思った。
 顔を上げたと目が合った。少し緊張しているのが分かった。この状況のせいなのか、これからすることのせいなのか、どちらでも構わない。その顔が見たかった。これまでも、これからも。少しくらい意識してほしいと思っているから。存分に緊張してくれればいい。顔を真っ赤にして、やっぱりできないとごねたっていい。拒否さえされなければ、今はなんだって喜ぶよ。変わらずずっと好きでいるから。
 華奢な肩を掴んだ。少し目が泳いでからゆっくりと目を瞑ったの顔に、俺まで少し緊張してしまう。キスってどうするんだっけ。そう思うほどだった。きっともう二度とない瞬間だ。だから緊張しているのだ。そう自分に言い聞かせた。
 そっと重ねた唇は柔らかくて少しだけ震えているように思えた。ごめん。思わずそう内心で謝る。好きでもない男とキスするなんて嫌だろう。それに、はじめてだったんだろうし。ゆっくり唇を離して目を開けると、一瞬だけ目が合った。けれど、すぐに目を逸らされる。何も思うことはない。当たり前だ。そう、少し拳を握りしめてしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 披露宴のために一旦控え室に下がったを待ちつつ一つ息を吐く。思ったより緊張したし、思ったよりすでに疲れている。着慣れない服もそうだし雰囲気もそうだ。が疲れていなきゃいいけど。ぼんやりそう思いながら披露宴会場の扉をじっと見る。それにしても、本当、信じられない。信じられないというかなんというか。言い表しがたい。自分が結婚することもそうだし、相手がだというのもそうだし。人生って何があるか分からないな。
 一つ息をついたところでがスタッフに連れられて歩いてきた。動きづらそうだ。ドレスはそういうものだから仕方ないのだろうけど。まあ、一緒に一度しか見られないかもしれないのだから目に焼き付けておこう。そうじっと見ていると、スタッフが「少々お待ちくださいませ」と言いながらどこかへ行ってしまう。二人きりになってしまった。今日二人きりになれたのははじめてかもしれない。時間も迫っているがどうしたのだろうか。不思議に思いつつの横顔をじっと見ていると、何かを思い詰めたような顔をしていることに気が付く。
 一週間前の会話を思い出す。「今ならまだ、なかったことにできるよ」。あれは相当ムカついたし傷付いた。なかったことにしたい、なんて俺が言うわけがないのに。言うならお前だろ。今もそう思っている。

「ここで逃げるなよ」
「に、逃げないよ」
「挙式前に逃げられるよりこのタイミングで逃げられたほうが本当に俺が可哀想になるからな。いいな?」
「だから逃げないってば」
「信用できねえよ」

 顔を見ながら笑ってやる。はちょっと居心地悪そうな顔をした。きっと自分のせいでどうとか、好きじゃないのになんとか、そんなふうに思い詰めているのだろうと分かった。馬鹿なやつ。結婚しようと提案したときも言っただろ。俺は卑怯な手を使ってお前を取り込もうとしているだけだ、って。なんでお前が思い詰めた顔してんだよ。でも、これが最後だ。ちょっとだけ悪あがきをしたくなった。

「一緒に暮らす内に俺を好きになれば良いのに、と思ったことは何度もある」
「……ご、ごめん」
「謝るなよ。泣くぞ」
「あの、でも、嫌いとかそういうわけじゃ」
「分かってる。諦めの悪い男が馬鹿な期待をこぼしただけだから忘れろ」

 我ながら馬鹿だな、と目を伏せてしまう。こんなことを言ってに余計な罪悪感を植え付けて。本当に呪いだな。やめておけばよかった。そう思いながら「めでたい日なんだから俯くな」と言っておく。
 どうして、とが言葉をこぼした。思わず言ってしまったらしい。意味は分かる。顔は扉のほうへ向けたまま「何が?」とわざと聞く。ずっとそう疑問に思っていただろう。でも、俺はずっとその答えは言っているはずだ。どうして分からないのか。

「白布はどうしてこうしようって思ったの? 特別な理由があるとか、やむを得ない事情があるとか、そういうのがあれば教えてくれたほうが有難いというか……」

 また笑いそうになった。特別な理由。やむを得ない事情。そんなもの、あるわけがない。何を言ってるんだ、と言葉が漏れそうだった。
 高校生のころのの笑顔を思い出した。初恋ではなかったけれど、生まれて初めて忘れられないくらいかわいい顔だなって思った。この子の特別になりたいと思った。母親が昔に諭してくれた賢二郎くんにだけは触らせてあげる、って言ってもらえるくらい″Dきになってほしいと思った。時が経つにつれ、好きになってくれなくていいから、どうか笑っていてほしいと思った。健康に元気で、何も不自由なく幸せでいてほしいと思った。幼い弟と妹を抱きしめて倒れまいと踏ん張る小さな背中が、どうかまっすぐ凜と伸びていてほしいと思った。願うだけだった。祈るだけだった。
 そんな俺の目の前に、弱って追い詰められたが現れた。願うだけではだめだ、祈るだけではだめだ。そう思った。自分でも分からない。金がどうとか人生がどうとか、そんなことよりもどうすれば俺が好きな笑顔が戻るのかだけを考えた。どうしてなのか。何もくれなくていいから一緒にいてほしいとなぜ思ったのか。
 顔をのほうに向ける。白い肌。艶のある髪。口紅を引いているとはいえ血色のいい唇。悲壮感は見えない。白いドレスを着て、化粧をして、愛されている。小さく笑う。俺のエゴでしかない。でも、きれいだ。何よりも。好きだ。何よりも。キスしたいだの体を重ねたいだの、そんな雑念はどこにもないくらい純粋に。好きだ。ただただ、好きだ。たったそれだけ。から顔を背けて、まっすぐにまだ開かない扉を見つめた。

「特別な理由なんてない。俺はただ、ずっと、お前のことが好きなだけ」

 何も特別なことなんてない。ずっと俺はそれだけだ。馬鹿げているとは思うだろう。けれど、本当だ。嘘はどこにもない。いつになったら伝わるのだろうか。
 何も言葉は返ってこなかった。その間に式場の人が戻ってきて、もう時間が来たのだと分かった。動かないに「手」とだけ言えば、慌てて俺の腕に手を回した。離すなよ。心の中で呪っておく。
 開いた扉。懐かしい顔がいくつか、ちょっとにやけるように笑っていてムカついた。笑うな。祝福だけしてろ。そう思いつつ、二人で頭を下げた。


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