二〇二二年一月初旬、引っ越しが完了した。平日休みの日に最終の引っ越し作業を済ませたのだが、その日からが職場に復帰するというから渋い顔をしてしまった。しかもスーパーと新聞配達の両方とも辞めずに続けるとは思っていなかった。できる限り働きたい、と言われてしまうと止めることもできなくて、「無理のない範囲で」と言うだけに留めておく。今は、だ。
 夕方までは少しずつ運び入れていた分の荷ほどきで手一杯だった。棚やベッドはバラして持って来られるものがほとんどだったので新調していない。とはいえ、運び入れるためにしっかり梱包をしているから新品を買ったときとほぼ変わらない労力を使ってしまった。若干疲れつつも配置を考えて諸々の置き場も確定させていった。
 部屋には引き出し付きの机が元から置かれていた。元々この部屋にあるものだからよかったら使って、と言われた。その机はどう見ても使われていた形跡があるもので、やっぱりこの部屋は元々の部屋だったのだと思う。広いからって俺に気を遣って部屋を移動したんじゃないだろうな。そんなふうに疑いながら引き出しを開ける。何も入っていない。とりあえず文房具類を入れておこうか。まあ、そういう細かいところは段ボールを全て開けてからの作業になるけど。そんなふうに思いながら引き出しを閉めた。
 机の位置を少し変えようと側面に回ったときだった。机と壁の間にある隙間に何かが落ちている。紙ごみらしき丸まったそれを拾い上げて広げてみると、履歴書だった。なんでこんなものが。不思議に思いながらじっと見つめてしまう。履歴書にはの名前が書かれていて、日付は恐らく最初に就職したところを辞めたらしいくらいのものだった。転職するときに書いたものだろう。丁寧に書かれたそれから真面目さが窺える。けれど、右側の志望動機や資格の欄には何も書かれていない。左側の氏名や連絡先、略歴のところしか書かれていない。それがどうしてなのかは、見た瞬間に分かっている。
 略歴のところ。中学卒業のあとに高校入学、そして、その次の行に書かれるはずあった「中途退学」。そこに「卒業」の「卒」の字が途中まで書かれていた。くしゃくしゃに丸めてごみ箱に入れたつもりがこの隙間に入り込んだのだろう。恐らく、あの温厚なが、苛立ちからなのか、これを放り投げてごみ箱に捨てようとしたであろう光景が頭に浮かんだ。
 卒業、したかったんだろうな。部活を辞めることになったときも俺が好きじゃない笑顔を浮かべていた。辞めたくなかったのだろう。それでもは誰にもそう打ち明けられなくて、どうしようもなくて。ぽろっとこぼれ落ちるように誤字となった自分の気持ちが、どれだけ見たくないものだっただろうか。
 くしゃくしゃの履歴書をきれいに折りたたんで、机の引き出しにしまった。少し引き出しを見つめて動きを止めてしまったが、一つ深呼吸をしてから、作業に戻った。



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 午後六時半。さすがに病み上がりだから、と早めの時間で上がらせてもらったが帰ってきた。粗方部屋は整ったし、これ以降は生活していく中で変えればいいか。とりあえず俺も下に、と思っているとリビングから翔太とひかりの声が聞こえた。何度か俺の部屋に来て手伝ってくれたり、翔太が昼食を作ってくれたりして助かった。ひかりもなんだかんだ言いつつも翔太と一緒に様子を見に来てくれてちょっと嬉しかった。
 机の上に置いたものをポケットに入れて部屋から出た。階段を下りていくと、音で気付いた翔太がリビングのドアを開けて「あ、姉ちゃん帰ってきたよ」と教えてくれた。それに応えつつ階段を下りきる。は病み上がりだし外食にするか、と思っていたのだが。リビングに入ったらもうすでにキッチンに立っていて小さくため息を吐いてしまった。料理ができない俺が口を挟めるところではない。翔太もひかりも、からやらなくていいと言われているようでちょっと微妙な顔をしていた。
 一応、外食はどうかと提案はしてみた。思った通りは「作れるから大丈夫」とのこと。まあ、本人がそうしたいならそれで構わないのだが。一応「しんどいとかあったら言って」と伝えておいた。
 ああ、その前に。手を洗おうとしたを呼び止めてリビングのほうに来てもらう。不思議そうにすると、同じく不思議そうな翔太とひかり。が「何?」と首を傾げたところで、ポケットからそれを取り出した。
 去年、なんとか時間を作って指輪を見に行った。は俺が即決で買おうとするととんでもなく慌てていたから、一旦持ち帰って考えておくと言ってあったものだ。どれがいいかはよく分からなかったからが選んだものの中からなんとなく似合いそうなものを勝手に選んで買った。ちゃんとプロポーズというものができていなかったと思うし、こういうイベントはちゃんと通っておいたほうがいい。そう思った。

「もう婚姻届は出した後だけど」
「は、はい」
「好きだ。必ず幸せにする。結婚しよう」

 より先にひかりが「キャ〜」と黄色い声を上げた。おい。雰囲気をぶち壊すな。その横で翔太は見てはいけないものを見たような顔をして、「え、なんで今プロポーズ?」と真っ当な疑問をぶつけてくる。まあ、そうなるよな。も赤い顔をしつつ同じようなことを聞いてきた。理由と聞かれると困る。少し考えてから「言いたかったから」としか答えが出ず、そのまま素直に答えておいた。
 変な笑い方は好きじゃないし、泣いている顔もできれば見たくない。不安そうな顔はもちろんだし、苦しそうな顔は論外だ。明るく笑っている顔が何より好きだけど、照れている顔もかわいくて好きだな。そう思ったら自然と笑ってしまった。



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「賢二郎さんって、高校のときはお姉ちゃんに告白しなかったの?」

 がお風呂に行っている間にひかりがそう聞いてきた。嫌なことを聞いてくる。苦笑いで濁していると翔太まで「そういえば」と興味ありげに混ざってきた。なんで毎回聞いてほしくないことを聞いてくるんだ。微妙な気持ちになりながら「ああ、いや……」と少し言葉を濁してしまった。それにひかりが即座に反応して「え、もしかしてフラれた?」と核心を突いてくる。だから、聞いてほしくないことを。ちょっとだけ笑ってしまう。

「惨敗」
「えー! お姉ちゃんやる〜!」

 翔太まで「え、え、なんて言われたの?」とちょっと恥ずかしそうにしながらも聞いてくる。聞くのは照れくさいが興味はあるらしい。しっかり男子高校生で安心した。とはいえ、できれば俺の口からは言いたくないことだ。「姉ちゃんに聞いてみろ」と最後まで濁しておいた。
 風呂場のドアが開いた音がした。もうすでにひかりも翔太も風呂に入った後だ。服を取りに行くために机に置いたスマホをポケットにしまいつつ立ち上がる。それをひかりが「あ、逃げる!」と言うものだから軽く頭をつついてやる。「風呂だ、逃げてない」と言い返すと、おかしそうに笑われた。
 がリビングのドアを開けて「次どうぞ」と声をかけてきた。それに「分かった」とだけ返して入れ替わりでリビングを出た。一度二階の自分の部屋に行って服を持ってからまた一階へ。の部屋の前を通って脱衣所に入る。
 の部屋は和室なのだという。入ったことはないが、何度かちらりと中が見えたことがある。置かれている家具はおよそ和室に合うものは一つもなくて、やはり俺が引っ越してくる前に部屋を移動した様子が窺えた。気を遣われている。いつまでのお客様扱いをされるのか見物だと思っていたが、未だに変わらないものだから少しへこんでいる。ひかりと翔太はだいぶ砕けた扱いをしてくれるようになったが。
 きっと、を好きになっていない世界の俺が今の状況を見たら、ものすごくうんざりすることだろう。正直人付き合いは得意じゃない。特に年下との関わり方が良く分からずに苦労することが多い。弟のように雑に扱うと怖がられるし嫌われるだろうし。かといって丁重に扱いすぎると俺のストレスがとんでもないことになる。年上も似たようなところはあるが、まだ扱いやすいというか。だから、結構年の離れた翔太とひかりのことはきっと苦手だと思うはず、なのだが。
 我ながら馬鹿というか、単純というか。が何よりも優先して大事にしてきた二人だと思うと、不思議と苦手だと思わなかった。どう接したらいいか分からない瞬間も大いにあったけど、今となっては自分の弟たちと何も変わらない。それくらい二人のことを家族だと思うようになっていた。いや、本当に単純かよ。服を脱ぎつつ笑ってしまった。
 風呂場に入りながら、告白したあの日を思い出した。あれは相当ムカついた。今でもが言ってきた言葉をすべて覚えているくらいムカつく記憶だ。まあ、そんな素振りを見せてこなかったやつが突然告白してきたら呆気に取られるとは思うが。俺なりに他の人より優しく接していたつもりだったし、自分からそれなりに話しかけたり仲良くしていたはずなのだけど。ささやかすぎるアピールだったのだろう。何一つに刺さっていなかったことが単純に悔しかった。
 いつも通りさっさと髪を洗って、顔を洗って、体を洗う。湯船に入って一つ息を吐いた。家ではシャンプーは全員が同じものを使っているらしい。俺の家もたまに母親だけが違うものを買っていたがほとんど一緒だった。話でしか知らないが、姉か妹がいるやつは女家族だけシャンプーが違うとかなんとか、そんな話をしていたのを覚えていた。そういうものなのかと思っていただけにはじめて風呂に入ったときは肩透かしを食らった気持ちだった。どれを使っていいか迷うかも、と身構えていたからだ。
 家のどこを見渡しても、一つもうちと違いすぎて困る、なんてことがない。多少の違いはあるが概ね生活が体に馴染んできて心地よくさえなってきている。それは偏に、が何もかもをきっちり管理しているからなのだろうと思う。食事の準備や洗濯の負担が増えるからと当番制にしようと思っていたのに、は「一人増えるくらいで何もないよ」と笑っていた。少しくらい楽の仕方を覚えればいいのに。そう思いつつできることはやるようにしている。ただ、下手に手を出すとが申し訳なさそうに「ごめん、遅かったね」と言ってくるものだからなかなか手を出せずにいるけれど。
 風呂から出てさっさと体を拭いて服を着る。曰く俺は風呂から上がるのが早いらしい。白布家は母親も含めて全員同じくらいだが、確かにたちは一人一人ゆっくり出てくるイメージがある。単純に人数の差もあるかもしれないし、もしかしたら全員、一人になれる時間を大事にしているのかもしれない、なんてことを思った。
 髪を拭きながらリビングに入ろうとしたとき、の声が聞こえた。翔太とひかりから俺をフッたときの話を聞かれているらしい。そのときになんと言ったか、と聞かれたのであろう回答が曖昧な上に「忘れちゃったなあ」なんて言われたものだから、ドアを開けながら思わず口が動いた。

「わたしと付き合っても後悔するから。わたしのことは早めに忘れて、青春を謳歌してね≠セろ」
「えっ覚えてるんだ!」
「忘れられるかよ」

 どこかの誰かさんにとってはどうでもいいことだっただろうけど。内心そう思ったが声には出さない。びっくりした様子だったが今度はバツが悪そうな顔をした。まあ、お互いあまり思い出したくないことだ。仕方がない。
 ひかりがに「今となっては結婚じゃん。ちょっとくらい好きだったんじゃないの?」と笑って聞いた。翔太が座っているソファの隣に腰を下ろしつつ知らんふりする。そんなことない、って返すんだろ。当たり前だ、は本当に俺に対して何も思っていなかったのだから。まあ、嘘で好きだったことにするかもしれないけれど。どっちの選択をするのだろうか。少し、興味がある。

「うーん。わたしがわたしじゃなかったら、付き合ってたかもしれないね」
「どういう意味?」
「翔太とひかりに言うのはちょっと申し訳ないけど、あのときのわたしと付き合っても、しら……賢二郎は苦労してただろうし、嫌な思いもさせただろうから。そうじゃなかったら頷いてたと思うよ」

 その言葉に純粋に驚いてしまった。今の言葉は恐らく嘘ではない。の本心だっただろう。一言も聞いたことがないものだった。わたしと付き合っても後悔するから≠ニ言ったの顔を思い出す。俺が好きじゃない笑顔を浮かべていた。最後くらい好きな顔で笑ってほしかった。でも、今となってはあの顔の意味を、少しだけ、喜んでしまいそうな自分がいた。


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