新聞配達の仕事を辞めてほしいと言ってみたら、案外あっさり辞めてくれて驚いた。復職して一ヶ月ちょっとの退職には少し抵抗があったようだけど。最後の出勤日、俺が家に帰ったらテーブルに立派な花が飾られていた。かわいい包みに入った贈り物もいくつか。それを見て小さく微笑んで「ありがとね、白布」と少しだけ清々しい顔をしていた。嬉しかった。でも、白布じゃないって言ってんだろ。そう軽く肩を小突いてやった。
 今日は翔太は友人と勉強会をするから遅くなるらしい。ひかりも遅くなると連絡をくれている。さすがは若者。まだスマートフォンを手にして数日なのにしっかり使いこなしている。まあ、友人が使っているのを横で見て覚えたのだろう。自分ならこう使うだろうと想像して。
 二人がスマホを持っていないと知ったとき、正直驚いた。自分が高校時代から当たり前に持っていたというのもあるし、今時の高校生はほとんどスマホを持っている。中学生も持っている人が多いだろう。それに、持っていなければ欲しがる子がほとんどだ。二人に聞いてみたらほしいとねだったことさえもないと言った。が一生懸命稼いだお金だから無駄遣いはしたくない、と。だから、とりあえず二人を連れて携帯ショップに行った。今後持っていたほうが便利なことは明確だ。好きなものを選んでこいと言ったのに、翔太もひかりも型落ちしたお買い得なものを選ぼうとするからちょっとムカついたな。だから、勝手に一番人気の最新機種を選んでやった。
 二人がスマホを持っているのを見たの驚いた顔、面白かったな。思い出して一人で笑ってしまう。二人が部屋に戻ってから「どうして」と申し訳なさそうに聞かれた。二人が一度も欲しがらなかったことを気にしていたのだろう。ねだられればは何も反対することなく買っただろう。だから二人は言わなかったに違いない。この兄妹たちの絡まった糸を少しずつほどいていって、何もかも縛りがなくなればいいのに。そう思いながらには「連絡したいときに困るから」と答えておいた。
 自分の部屋に戻ってから、机の引き出しを開けた。折りたたんであるくしゃくしゃの履歴書。それを取り出して、開いた。眠る前にこうしてたまに見るようにしている。きれいな字だ。見ていて落ち着く。誰も知らないの心の内を覗いている感じがして、少しだけ罪悪感はあるけれど。逃してやるものかと思える。そのために見返している。
 顔色が良くなった。ずいぶん、調子が良さそうにも見える。健康的になってきたし笑顔も多い。翔太もひかりもよく笑う。それは前からだったかもしれないが、悪いことではない。でも、やっぱり、思うことはある。



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「ねー、お姉ちゃんと賢二郎さんって一日何回ちゅーする?」

 ブハッ、とお茶を吹き出したのは俺の隣に座っていた翔太だった。そのまた隣に座っていたひかりの頭を引っ叩きつつ「そんなこと聞くなよ!」と声を荒げた。確かに吹き出しそうな質問だったが、まずは床を拭け。翔太にそう言いつつタオルを渡すと「なんでそんな冷静なの……」と赤い顔を俯かせた。本当、しっかり高校生で面白い。そのままでいてくれよ、なんて笑ってしまった。

「なんでそんなこと聞くんだよ」
「あたし彼氏できたんだよね〜」
「……かっ、彼氏?!」
「うん。先週告られてオッケーした!」

 彼氏、という言葉にも翔太も取り乱す。さすがに俺も驚いた。三人が話しているのを黙って聞いていると、ひかりの彼氏はタクヤという名前で小学校が一緒だったやつらしい。あとテニスが上手いとかなんとか。付き合おうと言われて別にいいかと思ってオッケーした、とひかりはにこにこ話した。
 あの顔は何かを隠している顔だな。たぶんこの場で俺だけがそう思っているだろう。ひかりの横顔を見ながら少し考えているが、さすがに何を隠しているかまでは推し量れない。いつか何を隠しているかは分かるだろうし、ひかりのことだ。隠す必要があるから隠しているのだろう。悪い結果にはならないに違いない。そんな確信があった。
 ひかりがタクヤと付き合いはじめた理由に驚いたらしいに翔太が「いや、姉ちゃんも似たようなこと言ってたじゃん」と言った。二人が高校時代に俺がフラれたときの話を聞いていたな、そういえば。わたしがわたしじゃなかったら付き合ってたかも、と。それを聞いて内心、お前がお前じゃなかったら俺は告白してねえよ、と思ったけど。けれど、あのときそう考えていたのなら少しは嬉しいのは本心だが。

「いやでも、し、賢二郎は違うでしょ?」
「なんで? 拓也くんと何が違うの?」
「だって、しっかりしてて真面目だし、いつも頼りになるし、一緒にいてなんとなく安心できるというか。告白されたら大抵みんないいかなって思う人だから違うの」
「でも拓也くんイケメンだよ?」
「賢二郎は誠実そうできれいな顔でしょ。だから違うの」
「違うんだ?」
「違うでしょ、どう見ても」

 は続けざまに、高校生のときからそうだっただの、一緒にいると落ち着いただの、助けてくれると安心しただの、思いやりがあるだの、当然のように話した。そのあまりの勢いに翔太もひかりも固まっている。当たり前だ。そんな勢いで話したら驚くだろう。きょとん、としたが「え、何?」とひかりに聞く。何、って。普通の反応だろ。そう思いつつちょっと顔を背けておいた。

「お姉ちゃん、賢二郎さんのこと好きすぎでしょ。勢いすごくてびっくりしちゃった」

 ひかりが翔太に「ね?」と笑いかけた。翔太も恥ずかしそうにしつつ目を逸らしたらしい。それが正しい反応だ。今のは、が悪い。そんなふうに思っていると翔太が「姉ちゃん、賢二郎さんも照れてるから」と言った。照れてねえよ。内心で返しながら余計に顔を背けておいた。照れてない。断じて照れていない。そんな俺に対してが「え、なんで照れるの?」と言った。だから。思わずため息が漏れる。熱を逃がすような大きいため息だ。

「照れてねえよ」
「いや、賢二郎さんめちゃくちゃ照れてるじゃん。写メ撮っとこ」
「撮るな。寄ってくんな。それよりそのタクヤとかいうやつ大丈夫なんだろうな?」
「話そらした〜」

 顔を覗き込むな。シッシッとひかりを追い払いながら雑誌を閉じて立ち上がる。照れてない。断じて。全く照れていない。その程度で照れるほどガキじゃねえよ。そうごちゃごちゃと頭の中で並べながらリビングから出た。
 照れていない。でも、普通に、喜ぶだろ。男なら誰だって。喜んだだけだから照れていない。誰にでもなく反論しておいた。


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