仕事終わり、荷物を運び入れるためにの家に寄ると、出迎えてくれたのはひかりちゃんだった。「あ、ど〜ぞ」とわざとらしい明るい声で言われて顔が引きつったのが分かる。の姿がない。まさか仕事に行ってるんじゃないだろうな。内心そう疑っているとひかりちゃんが「お姉ちゃんならお風呂だよ〜」と言われた。
 二階の広い部屋をもらったのだが、ここはが元々使っていた部屋なのではないかと思っている。まだちゃんと見られていないけれどなんとなく。こんなに広くて唯一鍵がかかる部屋が空き部屋なんて、いまいち信用できなくて。そんなふうに思いながらも、勝手に部屋を移動できるわけもない。持ってきた荷物を置いてドアを閉めた。
 一階に下りていくと翔太くんとひかりちゃんがいた。「お姉ちゃんまだだよ」とひかりちゃんが言うので、まあせっかく来たし顔くらいは見たい。そう思って「あの、ちょっと上がっても、いいですか」と若干気まずく思いつつ聞いてみる。翔太くんは慌てて「あ、もちろん!」と言ってもてなそうとしてくれた。ひかりちゃんはそれをけらけら笑いながら「ここに住むんだから上がるって言い方変なの〜」と言った。確かに。そう反省しながらリビングに入ったら、翔太くんが「痛っ」と声を上げたのが聞こえた。どうやら電話が置いてある棚にぶつかってしまったらしい。ひかりちゃんが「大丈夫?」と顔を覗き込むと「よそ見してた」とため息を吐く。
 紙切れが床に落ちているのを見つけた。拾い上げてみると、女の人の名前と会社名、携帯電話の番号が書かれている。何のメモだ? 不思議に思いながら二人に「落ちてるけど」とそれを渡したら、翔太くんが「それ!」と慌てた様子で俺から受け取った。明らかに様子が変だったけど、何の電話番号だったのだろうか。ひかりちゃんも同じように「お兄ちゃんが棚を揺らすから落ちちゃったんだよ」と少しだけ慌てていた。

「それ、誰の番号なんだ?」
「白布さんは知らなくていいよ。お姉ちゃんには内緒だから」
には言わないから。誰の番号だ?」

 ひかりちゃんが翔太くんの顔を見た。どうやらこのメモを隠そうと決めたのは翔太くんらしい。翔太くんはメモをぎゅっと握って少し考えてから、ぽつりと言った。

「まだ姉ちゃんが近所で働いてたときに」
「高校辞めてすぐ働いたところか?」
「はい。そのときに、姉ちゃんの先輩だって言う女の人がうちに来て、姉ちゃんに何かあったらここに電話しなさいって」
「……何かって?」
「詳しくは教えてくれなかったけど、帰ってこなくなったりとか悩んでいたりとかって言ってました」

 その女性はには秘密だと言って無理やりメモを握らせて帰っていったのだという。翔太くんとひかりちゃんはメモをどうしようか悩んだ末、棚の裏に貼り付けて隠した。それから一度もかける機会はなかったけれど、今でもに気付かれないようにたまにテープを貼り直したりさらに奥に貼るようにしているという。一体何だったのか分からないから、今でも何かあるんじゃないかと不安だから。翔太くんはそう説明してくれた。
 そのころのに何があったのか。今となっては知る術がない。その女性が善人か悪人かは分からないが、わざわざ家にまで来て連絡先を置いていくのだから完全な悪人ではない、と思いたい。それを前提として考えると、は自分に迫っている何かしら悪い状況に気付いていなかった、のだろうか。本人に隠して家族に連絡先を渡すのだからそういうことなのだろう。職場の先輩がわざわざ来たのだから職場で何かトラブルがあったのかもしれない。今はもうそこを辞めているわけだし、数年音沙汰がないのならもう大丈夫だろう。
 翔太くんとひかりちゃんにそう言ったら、翔太くんはほっとした顔で「そっか、そうだよな」と呟く。ひかりちゃんは「まあ、そうだろうとは思うけど」と言いつつ、そのメモをまた棚の裏に貼り付けていた。信用されていない。まあ、それは仕方のないことと割り切ってこちらも接するしかないか。
 まだが風呂からあがってくる感じがなかったので、せっかくだし二人と話そうと「翔太くんとひかりちゃんは、」と声をかけたらひかりちゃんが「なんかくん付けとちゃん付けって変じゃない?」と翔太くんに言った。内心で同意する。俺もなんか呼びにくいな、とは思っていたけどいまいち距離の詰め方を量りかねていた自覚がある。翔太くんが「呼び捨てで」と言ってくれたので有難くそうすることにした。ついでにたまに二人が使ってくる敬語も使わなくていいことと、名前呼びでいいことを伝えると、結構すんなり了承してくれた。
 あまり二人のことをちゃんと知らないままだったから、通っている学校とか部活のことを教えてもらった。その話の中で翔太が「高校に行かずに働きたいって言ったら姉ちゃん、すごいショック受けた顔してた」と苦笑いをしながら言った。それにひかりが「それ、大学受験の話もじゃん」とけらけら笑うと、翔太は少し気まずそうな顔をして「うん」とだけ呟く。少し顔を俯かせてしまった。どうやら現在進行形で進学のことで揉めているらしい。

「別に大学行かなくても生きていけるし、姉ちゃんに楽させたいから早く働きたいって」
「でもお兄ちゃん勉強好きじゃん。あたしは好きなことしたほうがいいと思うけどなー」

 翔太は言いづらそうにぼそりと「姉ちゃんに、嫌い、って言っちゃった」と目を背けて言った。その瞬間にひかりが「はあ?!」と翔太の顔を掴みながら明らかに怒った顔をした。怖。俺がこっそりビビっていると、翔太も「ごめん」と明らかに怯えた顔で言った。そんな翔太の頭をひかりが軽く叩いた。まあ、翔太が悪いのは明らかだ。話の流れがどうであれ、言葉がきつすぎる。本心でなかったことはよく分かるが。

「仲直りしたのか?」
「有耶無耶になってる……進学か就職かもそれ以来話してない……」
「お兄ちゃんサイテー」
「分かってるってば……」

 ため息を吐きつつ翔太が「だって」と子どもが駄々をこねるみたいに口を尖らせた。言葉に続きはなかったが、何を言いたいのかは一目瞭然。聞かなくとも分かった。
 たちは確かにお互いをとても好いている、信頼し合っている家族なのだろう。お互いがお互いを尊重し合っていて、お互いがお互いを理解しようとしていて。理想の家族の形だとは思う。けれど、いまいち、噛み合っていないというか。
 は恐らく弟と妹には学園生活を楽しんでほしいと思っているのだろう。やむを得ない事情があって高校を辞めるしかなかった自分と違って、やりたいことを好きなように、何も気にせず楽しめるように。勉強が好きなら大学まで通わせてあげたい、スポーツが好きなら部活をさせてあげたい。だから、一生懸命に働いているし、二人が自分を手伝うことを良しとしない。
 翔太は長男であるという自覚が強い。子どものころからひかりの面倒を見ていたのもあるだろうし、何より、高校を中退して生活を支えている姉をいつも見ていたからだろう。だからこそ、自分がやりたいことよりも姉を楽させたい、妹が我慢しなくてもいいようにしたいと思っている。
 ひかりは自分の意見を出さずに姉と兄に同意しかしない。誰よりも明るく気丈に見えるけれど、誰よりも二人の顔色をしっかり見て発言している。姉が求める発言は何か、兄が求める発言は何か。それに従ったことしか言わない。それ以外のことは噛み殺している。姉と兄を最大限に尊重し、部外者には容赦がない。実は一番過激派だと思う。
 絶妙に噛み合っていない。言いたいことを言ってほしいがために上手く気持ちを読み取れない姉と、言ってほしいと言われれば言われるほど言わない弟、言ってほしいと思われていることを読み取ってその通りにしか言わない妹。なんとも歪な家族関係だろうか。ちょっと苦笑いが漏れてしまう。当の本人たちは気付いていないし。単純なことであることは明白なのだが。

「賢二郎さんはどう思う?」
「まあ、人それぞれ優先したいものは違うし、何をどう見て幸福か平和かというのは一概には決められないだろ」
「何? なんて?」
「一つ言えるのは、翔太が本意では進学を望んでいる中で就職を選んだら、にとっては一生の後悔になるだろうなってことくらいだな」

 たとえ口では感謝しても。まあ、部外者が口を挟めることではないが。そんなふうに付け足すとひかりがばしんっと背中を叩いてきた。怖い。一挙一動に恐怖しか感じない。「痛いんだけど」とだけ言って背中をさすると、「え、ごめんね?」とにこにこされた。余計に怖い。

「部外者って言い方がムカついたから〜」

 そう言い残してひかりがリビングから出て行く。ちょっとその言葉に驚いている自分がいた。なんだかんだ警戒はしてくるが、それなりには受け入れてくれていると思っていいのだろうか。どの言動がきっかけでそうなったかはいまいち分からないが。
 残された翔太と二人、しばらくひかりが出て行ったドアを見つめていた。ふとした瞬間にハッとした様子で翔太が俺を見てきたので、俺も顔をそちらに向ける。

「別に、だから進学しろって言うわけじゃない」
「……う、うん」
「まあ、俺の気持ちだけで言えば、進学を勧めるけど」
「なんで?」
「普通に大学が楽しかったから。いろいろ嫌なこともあったけど」

 勉強が特別好きなわけではなかった。興味がある科目は意欲的に取り組めたけど、興味がない科目は苦痛でしかなかったし、苦手な科目からは目を逸らしたいときも大いにあった。けれど、まあ楽しいことに変わりはなかったしいい経験にもなった。勉強が好きで学びたいと思うなら進学すべきだろう。翔太はそういうタイプの人間だとも思う。進学して損はないだろう。

「そんな理由で?」
「大事だろ。無駄だと思えるものほど、割と後々響いてくるんだよ。年を重ねると」
「賢二郎さん……おじいさんみたい……」
「おい」

 翔太は「ちょっと考えてみる」と言ってから、律儀にも頭を下げてリビングから出て行った。まだ高校二年生だというのにあまりにも大人っぽすぎて少し笑ってしまう。肩に力入りすぎだろ。そんなふうに。
 ソファに座りつつ部屋を見渡す。が中学生のときに両親を亡くし、この家に住む祖父母に引き取られたと聞いている。けれど、それにしては生活感がない、というか。誰かの物だと分かる物が何も置かれていない。本とか文房具とか、そういうものでさえも。置いてある本棚はなぜだか空だし、棚の上には必要なものしか置かれていない。が掃除しやすさを求めてそうしているのかもしれないが、なんとなく寂しく感じてしまう。

「あれ、白布?」

 不意に聞こえた声に顔を上げる。風呂上がりのがびっくりした顔でこちらを見てから、思い出したように「荷物持ってきたの?」と首を傾げた。

「賢二郎な」
「あ、ご、ごめん、つい」
「細かいものは大体運び終えたから、大きいものを含めてあと二回くらいで終わる」

 は「そっか」と曖昧に笑ってからキッチンへ歩きつつ「お茶でも飲む?」と聞いてきた。今日は荷物を持ってきただけで、顔くらい見ていこうかと思っただけだ。手を煩わすのも悪い気がして「もう帰るから大丈夫」と伝えた。

「今週の土曜、忘れるなよ」
「あ、はい」

 未だに些細なやり取りもぎこちない。高校時代のほうが自然だったな。当たり前のことだが。なんとなく距離を感じることに少し罪悪感を覚えつつソファから立ち上がる。土曜日には式場で打ち合わせだ。もう婚姻届は出したし、今更引き返したいと言わせるつもりはない。このまま突き進んでやる。


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