十二月、が退院するその日は上司に頼んで休みを勝ち取った。ここのところずっと希望の休みを伝えたこともなければ有休だのなんだのの打診をしたこともない。そういうことから割とあっさり休みをくれたものだから驚いてしまった。俺が務める大学病院は、病院にしては休みに融通が利きやすいとの評判だ。知ってはいたけど、まあそんなことあるわけがない。そんなふうに思っていたから目の当たりにすると不思議な気持ちだ。ろくに有休を取ることもできない医師が多いとはよく聞くし、うちの病院もそう毎月みんなが取っているわけではないが。
 さすがに病院の人と鉢合わせると気まずかったので駐車場で待機している。は弟と妹が迎えに来るから公共交通機関で帰る、と言ったが無理やり予定を変更してもらった。退院してすぐ大荷物を持って公共交通機関って。荷物は弟と妹が持ってくれるにしても、体を大事にしろ。は免許を持っていないようだったし、弟と妹はまだ学生。そうじゃなきゃ家に帰れないことはよく分かるのだけれど。
 病院の外で神崎先生と看護師に見送られて歩いて来たが見えた。ドアを開けて「こっち」と声をかけると、そそくさと車に近付いてくる。なんとなく恐縮している様子をすぐに察知する。まあ、そんなにすぐ心を開いてくれるとは思っていない。気長にだ。そう思いながら助手席のドアを開けた。
 が荷物を膝の上に載せて座るものだから奪うように荷物を取り上げて後ろに置いた。ちょっと強引だっただろうか。心配には思ったが、重たいものをずっと持っているのも体に悪い。どう思われていようが知らんふりしておくことにする。
 大体の住所を聞いてから病院の駐車場を出る。それにしても。気付かれないように横目でちらりとを盗み見る。まさかを助手席に乗せる日が来るなんて夢にも見なかったな。そんなことを考えてしまう。当たり前だ。夢にさえ見たことがないほど、夢のような光景なのだから。視線をまた前に戻してから、ふと思い出して「で、どうする?」と声をかけた。が素っ頓狂な声で「え?」と返してきたから一人で反省しておく。主語を言えよ。自分にそうツッコミを入れてから「本当のことを言うか、嘘でずっと付き合ってたって言うか」と付け加えた。住所を聞く前に弟と妹の話をしたからはすんなり意味が分かったようで、俺の顔を見たまま少し考え始めたようだった。

「嘘吐いてもらって、いいですか」

 の頭の中でどんな葛藤があったのかなんとなく分かった。弟と妹に、如何に動揺を与えないようにするのか、それだけで今の答えを出したに違いない。「分かった」と答えながらもう一度の顔を盗み見た。今から死刑台に連れて行かれるのかと思うほどの死にそうな顔をしている。とんでもない罪を犯したようなその顔に、思わずぱっと目を逸らす。その顔が少し俯いたのが見えてから「じゃあ賢二郎とな」と声をかけたらびくっと肩が震えたのが分かった。

「へっ」
「いや、元々付き合ってて結婚するって言うんだったら名前呼びのほうが自然だろ」
「あ、そっか……そうだね、確かに」

「……あ、はい、えーっと、けん、じろう」
「ぎこちないにも程があるだろ」

 照れた声だった。それに思わず笑ってしまう。そりゃそうだ。好きな子に下の名前を呼ばれて嬉しくないやつなんてどこにもいない。喜んで何が悪い。無理やりというか、仕方なくだったとしても、嬉しいものは嬉しい。仕方がないことだ。
 病院を出て三十分ほど車を走らせた。曰くもう着くとのことだった。てっきりアパートに住んでいるのかと思っていたが、辺りはどこを見ても一軒家がぽつぽつと建っている田舎道。スーパーや薬局は近くにない。車がないとなると公共交通機関かせめて自転車での移動が必須になるだろう。そんなことを考えているとが「あ、右手にある黒い瓦屋根の家、です」とぎこちなく言う。指差された先を見ると、思っていたより大きな一軒家があった。速度を落としてゆっくり敷地に入り、庭の端に車を停めた。
 思っていたより全然、立派な家だ。家を見上げてしみじみ思った。とても失礼なことを言っている自覚があるから口には出さないけれど。おじいさんとおばあさんと暮らした家なのだろうか。素直にそれだけ聞いたら肯定が返ってきた。それと一緒におばあさんが高校を中退した二年後に亡くなっていたことも説明してくれた。そうだったのか。道理で、おばあさんがお見舞いに来た様子がなかったわけだ。薄々分かっていたけれど、言葉が出なかった。
 家を見上げていると「お姉ちゃん!」という女の子の声が聞こえた。よりも高めで元気そうな声。思わず視線を向けると隣でが「ただいま」と優しい声で言った。玄関のほうに視線を向けると、の弟と妹らしい二人がこちらを覗いている。に近寄っていかないのは俺がいるからだろう。そりゃそうだ。今日まで入院していた姉が突然見知らぬ男を連れてきたのだから。
 が「えっと」と少し困っている横を通り過ぎる。コートのポケットに入れてきた名刺入れを取り出しながら二人に近付くと、警戒されていることがよく分かった。名刺を一枚ずつ二人に渡して「お姉さんとお付き合いしている白布賢二郎です」と挨拶をすると、弟のほうが名刺に視線を落としたのに対して、妹は受け取った名刺を見ることなく俺の顔だけをじっと見ていた。
 少し間があってから妹がにこりと笑う。「妹のひかりです」と言いながら弟のほうを肘で突いたのが見えた。弟もつられて「翔太です」と小さく頭を下げた。昔、高校に迷い込んできたときの様子からして、翔太くんが長男でひかりちゃんは末っ子だったはずだ。あのときの二人がもうこんなに大きくなったのか。素直にそう驚いた。見るからに警戒しているのは翔太くんのほうだ。けれど、なんとなく、ひかりちゃんのほうが歓迎している感じがないように思えた。なぜなのかはいまいち説明ができないけれど。
 慌てた様子でが俺の隣に駆け寄ってきて「驚かせてごめんね、紹介したくて」と二人に言った。の声を聞いたその瞬間、翔太くんとひかりちゃんの表情が和らいで少し警戒が解けたように感じる。仲の良い兄妹なのだろう。それがよく分かる瞬間だった。
 家に上げてもらって、リビングにある椅子に座るように言われた。腰を下ろすとがお茶を淹れようとしているのを翔太くんが「俺がやるから」と止めようとした。けれど、は「いいから、座ってて」と笑って制する。翔太くんはなんとなく微妙な顔をして「うん、ありがとう」と言って俺の前に座った。仲が良い兄妹、なのだが。なんとなく違和感を覚えてしまった。翔太くんが俺の顔をちらりと見る。当たり前だが警戒心はまだ完全には解けていない。それはその隣に腰を下ろしたひかりちゃんも同じく。じっと俺を観察するように見て瞬きもしなかった。何より、明るそうな子なのに、ずっと真顔だ。底知れぬ恐怖を感じた。
 がお茶を持って戻ってくると、ひかりちゃんの表情がころっと変わった。にこにことして「お姉ちゃんありがと!」と元気にお茶を受け取る。それを横目に見つつビクリと震えてしまう。怖すぎるだろ。全く歓迎されていない。どうしようか。少し、困ってしまった。
 困っていてもどうしようもない。とりあえずは言うしかないのだから。一口お茶をもらってから、息を吸う。

さんと結婚したいと思っています」

 ちらりと横目でのことを見る。俯いてなんとなく気まずそうにしていた。そりゃそうか。嘘がつけないタイプなのは重々承知している。大事な弟と妹に大嘘をついているのだからそういう表情をしてもおかしくはない。
 ひかりちゃんが「やった」と小さな声で呟いた。それにほんの少しだけ口が止まってしまう。女って怖い。の妹、高校時代に小学生かどうかくらいだったし今は中学生くらいだよな。それにしてはあまりにも、表情を変えるのが上手くないか。がいるときといないとき、そのギャップが強すぎて顔が引きつったのが自分で分かった。
 一つ咳払いをすると、翔太くんから「いつからですか」と聞かれた。鋭い声色だ。姉を大切に思っていることがストレートに伝わってくる。余程、から愛情を注がれたのだろう。それが分かる。この部屋を見るだけでも、翔太くんの顔を見るだけでも。嘘になってしまう部分もあったが、真摯に答えた。俺がのことを好きだということに嘘はない。それを伝えるしかできることがなかった。
 お茶がまだ半分入っている湯飲みをずらしてから、頭を下げた。嘘がないことは確かだ。けれど、嘘を吐いていることも確かであることに変わりはない。に嘘を吐かせているのは俺だ。弟と妹に嘘なんか吐きたくなかっただろうに。頭くらいいくらでも下げる。そんな俺にが慌てて「ちょっと」と声をかけて肩を掴んできた。ぐいっと押されたけれど、頭は上げなかった。

「必ず幸せにします。さんと結婚させてください」

 ぐっとの手の力が強まったのが分かる。それでも痛くも痒くもないけれど、ほんの少しだけ震えているのが分かった。俺の言葉から少し間を置いて、翔太くんが「別に、反対してるわけじゃないですけど」と小さな声で呟いた。その声に思わず顔を上げると、俺から目を逸らしてどこか、悔しそうな顔をしているのが分かった。

「……散々、子どものころから、姉ちゃんに、苦労しかかけてないし」

 その一言で、これまでの生活はほぼすべてが一人で家計を支えてきたと分かった。きっと翔太くんとひかりちゃんにはアルバイトすらさせなかったのだろう。お金のことは心配しなくていいから、と言ってきたに違いない。翔太くんの表情と言葉がすべてを物語っている。
 姉の助けになりたかったのだろうと思う。進学もしなくていいと思っていたかもしれない。きっとがそれを許さなかったのだろう。すべて俺の憶測だけれど、当たっている自信がある。ひかりちゃんもきっとそうに違いない。は二人の幸せを祈り、二人はの幸せを祈った。それが微妙に食い違って、変な違和感を生んでいるのかもしれない。

「だからこそ、反対してもいいし意義を唱えてもいいんじゃないか」
「……なんでですか。姉ちゃんが、結婚したいなら……俺には関係ないし」
「お姉さんに苦労かけてきた自覚があるなら、お姉さんがちゃんと幸せになれるのか確認する義務があるだろ」

 人の幸せを祈ることは、すべてを許容することとイコールではない。俺はそう思う。道を正すことも愛だし、寄り添うことも愛だ。だから、が望んだからとすべてをその通りにしなくちゃいけないなんてことは絶対に間違っている。いや、間違っている、なんて言い方は偉そうだけれど。
 概ね賛成しているように見せかけているひかりちゃんに視線を向けた。「妹にもその義務がある」と目を見て言うと、ビクッと肩を震わせた。それから先ほどまでの笑顔は忘れた顔で「え、白布さん良い人そうだし、あたしはいいと思うけど」と呟く。本心かどうかは分からなかった。でも、完全な嘘と言うわけではなさそうだ。少しだけ安心した。

「俺がお姉さんを騙そうとしてるかもしれないだろ。見た目と雰囲気なんていくらでも繕える。俺に騙されてお姉さんが傷付いてからじゃ何もかもが遅いだろ?」

 隣でが目を丸くして驚いているのがちらりと見えた。まあ、こんな言い方では無理もない。けれど、できる限り嘘を薄めておきたい。特に、翔太くんとひかりちゃんは嘘を吐く必要なんてないのだから。
 じっと俺を見つめていた翔太くんが恐る恐る口を開いた。のどこが好きか、と聞かれる。どこがと言われると難しい。けれど、ここでどうにか言語化しなければ意味がない。まっすぐ芯が通っているところとか、どんなことにも真摯に取り組むところとか、まあ言い出したらキリがない。素直にそう答えたらひかりちゃんが「あたしもお姉ちゃんのそういうところ好き!」と笑って言った。
 でも、逆に好きじゃないところでもある。素直にそう言ったら翔太くんが一瞬驚いたような顔をしたのが見えた。まっすぐだから寄り道ができない。何にでも真摯に取り組むから手抜きができない。長所は角度を変えれば短所になる。はそれが顕著だったから。二人の様子を見たら余計にそう強く思った。もっと自分を大事にしろとか、もっと周りを頼れとか、そういう言葉なんか耳に入ってこなかっただろう。翔太くんが唇を噛んだ。翔太くんとひかりちゃんがそれをどんな思いで見ていたのかは、今の表情が答えだった。「お前もそうだろ」と思わず笑ってしまったら、翔太くんが少しだけ俯いた。

「白布さんはなんでお姉ちゃんと結婚しようと思ったの? 好きだから?」
「それは大前提だし、目の届く範囲にいてくれないと気になって仕方がないから」
「あー、分かるかも」

 ひかりちゃんが少しだけ複雑そうな顔をしたのが見えた。まだ完全には気を許してもらえていないけど。概ね、受け入れてもらえたということは感じた。
 ひかりちゃんが翔太くんの肩を抱いて「あたしは賛成」と言った。その後に翔太くんも「俺も」とはにかんで言ってくれた。


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