約束の日は、予報通りの雨だった。廊下の窓から空を見上げて一瞬だけ足を止める。黒い空。不気味だと思えるほどの色をしているのに、不思議とそんなふうには思わなかった。
 ポケットの中を探る。中には病院に入院している子どもがくれたお菓子が二つ入っている。数日前、病院内で遊んでいたらしい子どもが転んで膝を擦り剥いて泣いていた。そのまま立ち去るなんてことはなく、普通に声をかけて普通の処置をしただけ。医者や看護師でなくてもできる簡単な処置だ。それをその子どもは、まるで魔法を見たかのような顔をしていた。それから楽しげな表情をして「ありがとう先生」と俺に言った。泣き喚いていたことなど嘘だったかのようなそれに少し面食らったが、泣き止んだのであれば何より。「もう院内で走るなよ」と言ったくらいで去った。
 そして今日。つい一時間ほど前にその子どもが俺を見つけて声をかけてきた。「これあげる」と渡されたのが、今ポケットに入っているお菓子二つだ。手を差し伸べることに躊躇なんてなかった。差し伸べる、なんて仰々しい言い方を自分で笑ってしまうほど当たり前のことだった。
 でも、に対してはそれができなかった。誰でもできる簡単な処置でも、簡単に触れていいことでもなかったから。だとしても、今なら思う。声をかければよかった、と。山のように後悔はある。山のように恥じることもある。それでも、もうどうにもならないのだから受け入れるしかない。
 そっとドアをノックした。ほんの少し間を開けてから「はい」という返事が聞こえた。ちょっとぼんやりしている声に聞こえた。もしかしたら体調が悪いのかもしれない。あんまりしんどそうなら今日はやめておこうと考えながらドアを開ける。が俺を見るなりなんとなく何かを気にしているように見えた。なんだ? 少しだけ考えて思い至る。仕事中なのでは、と思っているのか。聞かれる前に「昼休憩中」と先回りしておいた。着てきた上着を脱いで、なんとなく気になったから首から提げている名札を取る。それから椅子に腰を下ろすと、の顔色が少しだけ良くなっていることに気付いた。調子を尋ねると、落ち着かないが体調は良いとの返答がある。それでいい。のんびりしてろ。内心そう思いつつも声には出さなかった。
 まったく想像できない。俺のとんでもない提案にが乗ってくるか断るか。どちらのも想像できないまま今日を迎えた。どんな答えが返ってくるのか、正直不安はある。
 じっと観察されているのがよく分かる。どう話を進めようか考えつつ首を回してから、もうそのまま切り出すしかないと思い至る。声を出したらの体がほんの少しぴくりと動いたのが見えた。明らかに緊張している。ストレスを与えたいわけではない。とりあえず受け入れるのも断るのもの自由であることに間違いはない。そういう意味で「別に無理強いするわけじゃない」と前置きをしておいた。

「白布は、その、わたしのこと好きなの?」
「は? 今更すぎるだろ」
「だ、だって、久しぶりに会ったし……それに、大学で彼女いたんでしょ?」
「おい、それ誰から聞いた?」

 思い出したくもないことを。そう勝手に苛立っているとが「あのときの看護師さん」と言った。の担当をしているベテランの看護師だ。くそ、誰だよあの人にそんなこと吹き込んだやつ。どうせ同期の研修医だろうからあとできっちりシメてやる。
 ただ、嘘ではないから否定はできない。渋々「いたことにはいた」と答える。はなんだか気まずそうに「そうなんだ」とだけ言った。確かに二人彼女がいたことがある。でも、最低なことを言うけど、ずっとの影を探していた。俺としてはずっとを想っていたということに嘘はないが、からすればそんなふうには思えないだろう。仕方がない。それに言及するためには話すしかない。それに、二人に対して好意を持っていたのは紛れもない事実だし、他人とも友人とも少し違う、特別な存在であることも間違いではない。消したい過去、とまでは言わない。それはあまりにも失礼だし、自分にも嘘をつくことになるからだ。まあ、嫌な思い出であることにも変わりない部分もあるのだが。
 とりあえず、包み隠さず話した。付き合い始めた理由だとか別れた理由だとか。二人目の彼女に関しては話しているうちにムカついてきて結構しっかり説明してしまった。静かに聞いているがちょっと心配そうな顔をしていることに気が付いて笑ってしまった。まあ、そうなるよな。そんな人だとは夢にも思わなかったし、何より、お前に、似ていたから。ぽつりと呟いた言葉にが驚いている。我ながら気味の悪いことを口走った。言わないほうがよかったな。でも、本当のことだから。
 ずっとそうだった。ずっと、どこか違うところを見ていた。目の前にいるのはじゃないのに、まるでを見ているようで。ふと目の前にいるのがじゃないと思ったら辺りを見渡して。目の前で食事をしているその人を見て、ならばどういう顔をして食べたのだろうとか、一言目はなんと言うだろうとか、そういうことをぼんやり考えていた。本当に最低なやつだな。我ながら笑えて仕方なかった。

「一目、元気な姿が見たかった」

 それが本音。ずっと気になってたまらなかった。どうか元気でいてくれないかと、一目でいいから笑っている姿を見られれば安心するのにと。体、大事にしろよ。そう声をかけたのも、ただそれだけでいいから大事にしろよ、という意味だ。元気でさえいてくれればこの気持ちも晴れるから。そういう意味だなんては思いもしなかっただろうけれど。
 あの日の夜、という二十代の女性が運ばれてきて、生きた心地がしなかった。嘘であってくれと思った。けれど、詳細な年齢を確認したらぴったり、俺が忘れられないと一致したものだからもう、気が気じゃなくて。あの日ほど心臓を殺して働いた日はなかった。そんなこと、が知るわけもないだろうけれど。
 ベッドで眠るを見て、ああもう無理だ、と素直に思った。俺は一生こいつを忘れられないし、一生探し続けるし、一生想い続けるのだろうと。だから、無理だと思った。目の前から去ろうとしようが、嫌がられようが、この手を掴んでいなければ一生ずっと気になってたまらないに違いない。だから、どうすれば繋ぎ止められるのか。どうすれば無理やりにでも俺の目が届く範囲にいてくれるのか。そう考えた結果が、これというわけだ。

「お前のことが気になってたまらなくて、それくらいしないと気が済まないんだよ」

 素直な気持ちだ。髪をかきながらちらりと見たの表情が、とても複雑そうにしているのが分かった。ぎゅっと自分の左手首を握る右手が少しだけ痛々しく見える。細い手首だ。力なんてこれっぽっちも込められなさそうなそれに、体のどこかがぐっと締め付けられたような感覚があった。
 巻き込んではいけない、と瞳が訴えている。俺のこの誘いに乗ることは良くないと今にもその唇からこぼれそうになっている。俺が無理を言って提案していることなのに、なんでお前がそんな顔をするんだ。利用しろと、何でもいいから俺の目の前にいてくれさえすればいいと言っているのに。頼んでいるのは俺のほうなのに。なんでそんな顔をするんだよ。
 雨粒が窓にぶつかる音がうるさい。でも、それが心臓の音を誤魔化してくれているようにも思えて、一概には文句が言えない。の瞳の中はとても静かで、凪いでいて、少しくらい荒れてしまえと思うほどだ。わずかな動揺は見えるけれど、冷静さは失っていない。
 は頭の良い人だった。勉強ができるという意味でもそうだが、何が自分にとって必要であるか、誰にとって何が必要であるか、そういうものをちゃんと理論的に導き出せる賢さだ。だから、俺の提案がどれだけメリットのあるものかなんて分かっているに違いないのだ。
 でも、それと同じくらい慈悲深い人であることも分かっている。自分のメリットのために人を利用するなんて自分では考えつかない人なのだ。だから、伸ばした手を振り払われる可能性は大いにある。
 雨音を聞きながら、俯く。お手上げだ。もうこれ以上俺には尽くす言葉がない。さっぱりが何を考えているかも分からない。必死で気持ち悪いと思われているかもしれない。静かに一つ息を吐くと、頭の中を叩かれるように鋭く強い雨が窓ガラスにぶつかる。雨脚が強くなった。まるで、俺を拒絶するように振りやがって。ムカつく。そう思わず目を閉じそうになった瞬間、視界の隅に何かが動いたのが見えた。
 顔を上げる。がまっすぐに俺を見て、手を差し出していた。この手の意味は。言葉で説明がほしい。そう押し黙っていると、がとても慎重に、丁寧に、口を開いた。

「白布が、嫌になるまででいいから、お願いします」

 とても緊張している声色だった。まっすぐこちらに向けられた手がやけに白くて、細くて。どこかこちらに縋るように、頼るように、頼りなくて。それに思わず瞳が熱くなるほど、一瞬で体中が熱くなった。
 手を握る。冷たい手だった。あの日に握手したときより情けなくて、とてもじゃないけど簡単に離せるような手じゃなかった。それをしっかり握ったこの瞬間に、心から思った。やっぱり俺は、ただの高校の同級生だとしても、ただの研修医だとしても、ただのどこにでもいる人間だとしても、何もできないちっぽけな存在だとしても、この子のそばにいたい。強く、そう思った。


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