「ねえねえお姉ちゃん、あたし今度の試合でスタメンに選ばれたよ!」
「おめでとう! ひかり、練習頑張ってたもんね」

 昼休憩中、入ろうとした病室の中からそんな楽しそうな声が聞こえた。ひかり。の妹の名前だ。思わずドアハンドルに伸ばした手を止めてしまう。の心から嬉しそうで楽しそうな声を聞いたのは高校生ぶりだった。やっぱり、そのほうが好きだな。ドアの向こうに咲いているであろう笑顔を想像して、ちくりと胸が痛かった。
 忘れられない。まだ幼かった弟と妹を抱きしめて、自分が悪いからと優しい声で謝ったのことが。あんなふうに謝るほどが家族を大切に思っていたと分かるような光景だったから。明るい声で話す妹の声を聞くだけで分かる。は家族に尽くし、家族を愛し、時には自分を後回しにして、時には自分を押し殺して、今日までを生きてきたのだろう、と。
 だから、何だ。それがどうしたというのか。家族を愛し、家族を想うから自分を犠牲にしていいなんて誰が認めるものか。まさか自分がそんな綺麗事を言うなんてな。そう思いはしたが、本心から出た言葉に違いはなかった。
 静かに背中を向ける。今は入るべきではない。それくらいの空気は読める。約束の日は明日だ。今日は単純に顔が見たくて来てしまっただけ。勤務中だぞ馬鹿かよ。そうため息がこぼれた。何事もなかったように廊下を歩いて、すれ違った看護師に小さく会釈する。「お疲れ様です」とにこやかに会釈が返ってきてからまっすぐ前を向いた。着ていた上着を脱いで適当に腕に引っかける。揺れる髪が鬱陶しい。そこら中から聞こえてくる小さな声の塊が鬱陶しい。病院独特の生暖かい空気が鬱陶しい。未だにこうして煩わしく思ってしまうことがしばしばある。でも、もうどうでもよかった。
 スタッフルームに戻って席に座る。人がほとんど出払っていて静かな空間で、ゆっくり深呼吸をしてみる。そうしてみたら、もう、後悔はなかった。



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 どさっ、と一旦玄関に荷物を置く。近くのスーパーで買った日用品の山だ。いつもちまちま買うのが面倒でまとめ買いしてしまうことが多いが、そのたびに後悔している。しまうのが面倒だし何より持って帰ることが結構不快。歩いている間ずっと指にビニール袋が食い込んで痛かった。二度とまとめ買いなんかしない。なくなったらその次の日に買う。絶対そうする。管理は怠らない。そう思うのだけど、まあどうせ守れはしない。また今日みたいに後悔しながらまとめ買いをすることになるだろう。
 靴を脱いでまたビニール袋を持ち上げる。大した料理はしないが、一応健康を気遣ってできるだけ自炊をするようにしている。医者が病気になっては元も子もない。塩と醤油、ドレッシングと牛乳を袋から出しつつキッチンへ向かう。家に帰る途中でバターを買い忘れたことに気付いたが、もう戻る気力はなかった。朝食はトーストを食べることが多い。明日はジャムで食べるか、と思いつつ牛乳を冷蔵庫にしまう。前に買ったもう古い食材から目を逸らしつつ冷蔵庫を閉めてから、その他のものも定位置にしまった。
 トイレットペーパーやボックスティッシュ、歯磨き粉など、それぞれ定位置にしまっていくだけで時間が結構経つ。ここから夕飯を作って風呂に入って、としていればもう眠る時間になってしまう。余裕がない。落ち着ける時間がほしいと日頃から願ってはいるが、なかなかうまく時間を作ることができないままだ。
 今日は余計に落ち着かない。自分でも自分がそわそわしていると嫌でも分かる。一つ息を吐き出しながら机に置いてあるテレビのリモコンを手に取った。適当なチャンネルをつけてリモコンを机に置く。明日は雨です、と天気予報士が残念そうに言っている声が聞こえた。明後日に洗濯をしたいから明日は雨でも構わない。雨くらいどうってことない。脱ぎっぱなしになっている服を集めたり机に置いてあるものを退かしたりしつつ、また一つ息を吐き出した。
 叶うのなら、どうか、降り注ぐ雨が染み渡るように。勘違いでも、一時の気の迷いでも構わない。どんな理由でも構わないから、明日の雨がこの願いを染み込ませてくれればいいのに。そんな柄にもないことを思った。


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