「白布くん、あの患者さんと付き合ってるの?」

 飲んでいたコーヒーを吹き出すかと思った。咽せつつ口を腕で押さえていると近くにいた看護師が「えー! やっぱり彼女いるんだ!」と嬉々として話題に混ざってくる。少し離れたところで患者のカルテを見返していた先生も「詳しく」と近付いてくるものだから、余計に咽せてしまって困った。
 きっぱり否定するのも、嘘を吐いて肯定するのも避けたくて。とりあえず「そっとしておいてください」と言うに留めておいた。察したらしい神崎先生が「はいはい、からかいすぎるとセクハラになる時代だよ〜」と看護師たちに注意してくれた。助かる。一つ息を吐いてからようやくゆっくりコーヒーを飲めた。
 浮かれている自分がいる。反省。頭の中でぽつりと呟いてもどうしても浮かれてしまう。九年前、夕焼けが眩しい放課後の廊下で告白したときは、何言ってんだコイツと言い出しそうな顔をしていたが、動揺して困って言葉に迷っていた。ざまあみろ。そうちょっとだけ笑ってしまった。好きな子に対して思うことじゃないだろうけど。それでも、これまでの人生で一番、浮かれていた。
 それと同時にほんの少しだけ後悔している自分がいる。見たことがないくらい動揺していたし困っていた。それに浮かれたのは事実だけど、困らせているということに変わりはなくて。そんな顔をさせるなら言わなきゃよかった、とほんの少しだけ思っている。そういう顔が見たかったはずなのに、実際そういう顔をされると複雑な気持ちになった。恋愛って厄介だ。

さんなんですけど、食欲があまりないみたいで。今日も昼食を残してました」
「食が細いわよねえ、あの子。痩せすぎだし、苦労してきたのね」

 患者の情報交換をしながらの世間話。それをぼんやり聞きつつ、何を知っているんだ、と内心でこぼしてしまった。そのあとすぐ、俺もか、と苦笑いがこぼれる。
 知りたい気持ちが半分、知るのが怖い気持ちが半分。今はまさにそんな思いでいる。情けない話だ。元気な姿が一目見たかった。俺が思うような不安など吹き飛ばすように、当たり前に笑って当たり前に自分の人生を歩んでいてくれればよかった。その姿を見れば、きっぱり諦めがついただろうから。何より、そうであると盲目的に思い込んでいたから。
 けれど、そうではなかった。俺の目の前に現れたは痩せて、覇気がなくて、顔色が悪くて、俺が好きじゃない笑顔をずっと浮かべて、俺の些細な一言で子どもみたいに泣きじゃくるほど危うくて、とても、小さくなっていた。
 烏滸がましいにもほどがある言い方をする。自覚はある。咎められるであろうことも重々承知している。それでも、言わずにはいられない。俺しかいないのではないかと思ってしまった。こんなにも、目の前にいるを、どうにかしたいと思うのは。どうにかして俺が好きな笑みを浮かべてほしいとこんなにも強く思うのは、この地球上に俺ただ一人なんじゃないかと思ってしまったのだ。
 忘れられないままだ。俺の話を聞いて、まるで自分のことのように嬉しそうに笑って「すごいね!」と言ったのことが。両親は俺をよく褒めてくれたし、祖父母も兄弟も友達も、割と素直に良いところは褒めてくれる人ばかりだった。それでも、俺にとってはが笑って「すごい」と言ってくれたことが、ひどく、嬉しくて。この子の笑顔がもっと見たい、あわよくばまた褒めてくれないかと思ってしまった。この子にもっと笑ってほしいと思ってしまった。人のいいところを見つけたらすぐに口にする透明感が、人のために頑張ろうとする力強さが、人の気持ちに寄り添おうとする優しさが、とても、好きだと思ったから忘れられなかった。そのままでいてほしかったから、元気でいてほしいと心から願ったのだ。俺は。何様なんだよ、というツッコミは当然のことだ。でも、大真面目に、思ったのだ。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




『なんか顔死んでない? 今日一応俺の再就職祝いリモート飲みじゃなかったっけ?』

 けらけらと笑いながら太一が画面の向こう側でビールを開けた。大学を一年浪人したのち就職した太一だったが、入った会社が俺が聞いた話だけでも分かるほどクソブラックだった。接客系だったから仕方ないと本人は言っていたが、半年ほどで心が折れたらしい。就活を適当にしたことを後悔していたっけか。学生のときからそうだが、太一は一つ山を越えさえすればそこからは問題ないのに、山を越えるところで諦めてしまうからもったいない。就活だって面倒臭がらずとことんやればいいところに入れただろうに。自分の能力に気付いていないというのはまさにこのこと。もったいないやつ。そろそろ気付けよ。まあ、転職活動は頑張ったみたいだ。だからリモートではあるけど労っているわけだが。
 昨日に結婚しようって言ったんだよな、とか言えるわけもなく。「まあ、いろいろ」と濁しておいた。太一はそれに「高校卒業してから秘密主義に拍車がかかってない?」と余計にけらけら笑う。今日は俺の話はいいだろ、と言えば「はいはいどうもです」と、画面越しに乾杯した。
 先月から新しい会社で働き出した太一は、今度こそはブラックではなさそうと安心した様子で呟いた。もちろんまだ慣れないことが多いし戸惑うこともあるが、と付け加えて。そんなもん誰だってそうだ。お前だけの話じゃない。そうビールを飲みつつ言うと「白布とか就職した瞬間からベテランっぽいじゃん」と訳の分からないことを言ってくる。馬鹿かよ。俺だって研修医一日目は緊張しすぎて、勢い余ってボールペンで自分の手を刺したぞ。話したことのないエピソードを話したら太一が大笑いして「なんだ、安心したわ」と頬杖をついた。

『というかもうお互い二十六って早いよな〜』
「まあ。あと四年で三十か」
『そういや水谷結婚したって知ってた?』
「どの水谷?」
『サッカー部だった水谷』

 ああ、あの水谷な。そう軽く返すと太一がスマホの画面を見せてきた。どうやら通話はタブレットでしているらしい。俺もタブレットにすればよかった。内心そう思いつつ太一のスマホ画面を見る。懐かしい同級生が笑っている写真。結婚式の写真がいろんな人伝に回ってきたのだとか。太一が「いいよな〜結婚したいわ〜」と笑う。お前は学生のときから変わらないよな、そういうところ。少し呆れていると太一がスマホをしまいつつ「予定ないの?」と聞いてきた。

「……予定というか」
『え、ちょっと待って、予想外なんですけど。そんなもんねえよって言うだろうなって思ったのに。何、え、彼女できた?』
「勢いが気色悪い」

 若干引いている俺に太一が「ごめんごめん」と軽く謝る。話すつもりはなかったが、結婚する予定がないときっぱり言うのもなんか悔しくて。つい口走ってしまった。興味津々の太一の視線に負けて「別に決まってるわけじゃないからな」としっかり前置きをしておいた。

「なんつーか」
『うんうん』
「……結婚したいなって、相手はいる、というか」
『ヤバ、きゅんとするわ。え、いつから付き合ってんの?』
「付き合ってねえよ。結婚したいとは言ったけど」
『……ん? えっと? 詳しくどうぞ?』
「これ以上は話さない」
『そんなのあり?』

 ビールの缶を机の端っこに置くと、腕を組んで背もたれに体を預ける。太一は「で、どんな子?」と興味津々といった様子で聞いてきた。どんな子。名前を答えるのが一番手っ取り早いが、言うつもりはこれっぽっちもない。相手の説明をするには手っ取り早いが、ここに至るまでの経緯を説明するのが恐ろしく面倒だからだ。
 少し考えながら視線を逸らす。一言で表すとしたら、どんな子か。考えてみると難しいものだ。好きな子をたった一言で表現するというのはとんでもない難題だな。あれもこれも、考え出したらキリがない。好きな子なんだから仕方ないことだろうけど。そう思ったら、一人で笑ってしまった。
 はっとして画面に顔を向けると、机に頬杖をついてじいっとこちらを見ている。しまった、と思ったときにはもう遅い。太一はにやにやと笑って「へえ?」と物珍しそうに言った。

『相当好きじゃん、その子のこと』

 愉快そうに言ってからビールを手に取る。「ごちそうさまで〜す」と一人で勝手にもう一度乾杯して、残っているビールを一気に飲み干した。


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