本当に俺には何もできないのだろうか。休日、そうぼんやり考えながら本屋を歩いている。目当ての本を探し終わって何か面白そうなものはないかとうろついていたら雑誌コーナーまで来ていた。雑誌なんて普段買わないし、あまり見たこともない。何かいいものはないだろうか。そう思いつつも頭の中はの涙でいっぱいだった。
 貯金全部やるから仕事を休めって言っても休まないだろうな、あいつ。責任感が強くて真面目だからそういう施しは受けたくないタイプだと思う。でも、そうしていいくらい俺はもう、のことが気になって仕方がなかった。こんな気持ちは生まれてはじめてで正直困惑している。何かいい方法はないか。犯罪はなしで。
 ふらふらしている間に女性雑誌のコーナーまで来てしまった。さすがに用はない。くるりと方向転換したとき、視界の端っこにちらりと見えた。テレビCMでたまに見る有名な結婚情報雑誌。結婚か。まだ考えたこともないけど、未だに偉い先生方にたまにお見合いを持ちかけられることがある。断るのも労力がいるからやめてほしいんだけどな。そうげんなりした。
 結婚。ああ、結婚な。なるほど。立ち止まったままそう思った。その方法があったか。結婚してしまえば俺が何を渡しても共有財産になる。一緒に住むことになるだろうから体調を崩してもすぐに気付ける。目の届く範囲にずっといられる。なんて手っ取り早いのだろうか。
 たぶん好きだから結婚してほしいと言っても頷いてはくれない。俺は一度フラれている身だし、まさか普通に結婚してもらえるわけがない。ならどうするか。俺と結婚したらにとっていいことがある、と条件をつければいい。形として結婚するだけでいい。俺は何もいらないけど、には全部あげるから、と。そうすれば別に援助とかそういう形ではなくなるし、夫婦になれれば俺ももうのことを気にかけながら生活しなくてもいい。問題はをその気にさせられるか、と、にそういう相手がいないか、だな。大問題な気がするけど、考えすぎて疲労している頭には名案にしか思えなかった。
 気付いたら本屋を出て、勤務先である大学病院に足が向いていた。我ながらアクティブすぎる。そう笑いつつ。本屋からは車で十分ほど。父親からお下がりでもらった車を運転する間、ずっと、なんと言って納得させようかだけを考え続けた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 の病室に来てから、ここに来るまでに考えたことをもう一度頭の中でこねくり回した。しつこい男だと嫌がられたらどうしようか。そう多少不安には思ったけど、もうこれ以上良い案が思い浮かばない。当たって木っ端微塵になるしかない。そう決意した。

「好きなやつは?」
「いない……何? 何の質問?」
「恋愛をしたくないとか彼氏を作りたくないみたいな感じか?」
「別に違うけど……?」
「相手に求める最低条件は?」
「あの、白布? これ何の話?」
「最低条件はなんだって聞いてんだよ」
「……ふ、普通に、働いてる人……かな……?」

 困惑しながら俺の質問に答えるに、内心でよし、と呟いた。好きなやつも結婚したいやつもいない。男に求める条件は普通に働いている人。それなら可能性がある。から視線を外して少し下を向く。言っていいものか。言ったら引かれそうだな。、常識人だし。あんまりに突拍子のない提案をすると変人だと思われるかもな。
 膝の上に力なく載せている自分の手を見つめる。あの日、と握手をしたことを思い出した。つい数日前、泣いているの肩に触れたことを思い出した。たった二度。それだけなのにこんなに、人の体温のことばかりを考えたことはない。それくらい俺はのことが気になって仕方がなかった。だから、ここで何も言わずに立ち去ったら、絶対に後悔する。それこそ二度と立ち直れないほどに。大真面目にそう思った。

「俺と結婚しないか」
「……へ?」

 大学生のときから小遣いはほとんど使わず貯めたまま。働き始めてからは余計に何にも使わなくなったから研修医二年目にしてはそこそこ貯まっているほうだと思う。もこの年齢で弟を高校に進学させているし、大学にも通わせたいと言っていた。妹も高校に入学させようとしているのだから貯金は怠っていないだろう。恐らく家族が遺していったお金もあるだろうと思う。そこに俺の稼ぎが入れば文句はないだろうし、だって絶対楽になる。まあ、一人で全員養うと言うのはちょっとまだ厳しいけど。総合的に見てにとってみたら悪い話ではないはずだ。
 は俺のことを見つめて、明らかに動揺していた。そりゃそうか。九年前にフった男が突然結婚を持ちかけてきているのだから。自分でもとんでもないことを言っているのは百も承知だ。きっぱり断られたとしても少しは足掻くつもりでいる。勝手を言っているのはよく分かっているが、俺はずっとのことを探していたのだから。これくらいの悪あがきは許してほしい。

「白布にとっては、全く良い話じゃない、と思うんだけど……」
「そうでもないけど」
「なんで? だって、養う人間ができるだけでしょ?」
「お前と結婚できる」
「……は?」
「それが俺にとってのメリットだろ」

 の真ん丸な目が余計に丸くなった。点かと思うほどに。呆気にとられている。それがよく分かる表情をしている。まあ、それはそうだろう。俺がに告白したのは実に九年も前の話だ。その間に、実際俺は以外の人と付き合ったし、好きになったと思っていた。九年間ずっとのことが好きだった、と言っても信じてもらえないだろう。それでも俺は、九年前の高校三年生のときから何も変わらず、のことが好きだった。好きというよりは気になって仕方なかった、というほうが即しているかもしれないが。
 面食らっているの顔が少し面白くなってきた。そんな顔、はじめて見たな。そんなふうにじっと観察してしまう。そんな俺の視線など気にしていないは頭をフル回転して何かを考えているのがよく分かる。まあ、当然の反応だ。常識人かつ真面目なが思いつくわけがないことを言っているのだから。すぐに答えを出してもらえないことは想定内だ。
 自分の人生をちゃんと考えたほうがいい、とが諭してきた。普通の反応だ。常人ならそう言うと思っていた。想定内だ。はきっと俺のことを常識人で枠から外れないような人間だと思っているだろう。だから諭せばまだ考え直す、と思っているに違いない。が俺のことで分かっていないことがあるとすれば、この九年間、どれだけ俺がのことを気にしていたか。一番肝になっているその部分を一切知らないから、こういう反応になって当然だ。
 少し、嫌な言い方をしなければ頷かないだろうな。の性格上、俺が親切心でこう言っていると考えているだろうし、多少強い言葉を使ったほうがいい気がした。

「俺はお前が欲しいし、お前は金がほしい。お互い利用し合えばいいだろ。誰が不幸になる?」
「……誰って、白布が将来的に不幸になると思うけど」
「そう簡単に不幸になるほど軽い気持ちで言ってねえよ。だから、お前も俺の気持ちを利用すればいい」

 利用、という言葉はにとってはマイナスすぎたかもしれない。言ってから後悔した。ついでに変な誤解をされると困ったから、心や体がほしいというわけではないと付け加えておく。金でを買うようなつもりは微塵にもない。そんなことを望んでいるわけじゃないし、それこそは絶対に頷いてくれないから。
 ここまでつらつらと、にこんな提案をした理由をこねくり回してきたけど、実際は至極単純な理由しかない。でも、そんな単純な理由を言ってもは信じてくれないし、それこそ丁寧に断られてしまう。どうにかうまく丸め込めたらいいんだけどな。そう考えている自分に少し笑う。すげー悪者みたいなこと考えてるな、俺。普通じゃない。そう分かってはいたけれどやめるつもりはなかった。

「明後日の昼、返事を聞きに来る。それまでに考えといて」
「……か、考える、って」
「気持ちを利用するのは良くない≠ニか思うタイプだろうから先に言っとくけど、間違っても優しいとか勘違いすんなよ。弱ってるところに付け入ってるだけ。卑怯な手を使ってお前を取り込もうとしてるだけだからな」

 そう、全くその通り。俺は卑怯だ。困っていることも、弱っていることも、疲れ切っていることも理解して、手を差し伸べるふりをしてそのまま攫おうとしているのだ。助けたいとか力になりたいとかそういうんじゃない。奪い去りたいだけだ。手に入れたいだけだ。そばに置いておきたいだけだ。本当に卑怯なやつ。自分で呆れてしまった。
 ドアがノックされる音。時計を見て思わず「もうそんな時間か」と声が漏れた。変に突かれたくないからできるだけ喋らないようにしよう。この時間にを診に来る看護師は噂好きな人だ。あることないこと広められても困るし、も良い気はしないだろう。
 ドアが開くと「あれっ、白布くんだ」とびっくりされた。高校の同級生だからお見舞いです、と言えばそれ以上は聞いてこない。まあ、何かしら察しているだろうけど。口に出されないだけマシか。
 の体温や血圧を記録していくのをじっと観察する。この人、手際がいいんだよな。患者からもよく「点滴はあの看護師さんがいい」と指名を受けているところを見る。担当した患者のほとんど全員に名前をしっかり覚えられているし、見ていてとてもできる人だと分かる。そう思いながら見ている俺を「先生〜怖いんですけど〜」と苦笑いをこぼして看護師が言った。感心して見てただけなんですけど。とりあえず謝っておいた。
 看護師が何か体調で気になるところはないか、と聞いた瞬間にが少し視線を逸らしたのが分かった。それから少し瞬きの回数が増えた。見覚えのある光景だ。少し笑いそうになってしまう。「特にないです」と小さく笑いながら言ったに「嘘を吐くな」と呆れて言ったら驚かれてしまった。
 嘘を吐いてまで復帰しなきゃいけない仕事ってなんだよ。自分の体より大事なものなんてそうないだろ。何をそんなに焦ってるのか全く分からない。ちょっと、腹立たしくさえ思う。
 少し目眩がすることがある、と正直に答えたの表情がなんとなく気まずそうに見える。どうせそれが原因で入院が長引いたらどうしよう、とか考えているのだろう。ちゃんとしっかり休んだら予定通りに退院できるから安心しろ。内心でそう思ったけど声には出してやらない。なんかムカついたから。見なかったふりをして看護師に「帰ります。お疲れ様です」と声をかけた。にこやかに返事があってから、に視線を戻す。ほんの少し肩が震えたように見えて余計にムカついた。


戻る