二〇二一年、十一月。研修医二年目の冬は結構怒濤だった。問診を後ろで見学しているときに難癖をつけられて謝罪する羽目になったり、簡単な処置を任された子どもに大泣きされたり、車まで車椅子の患者を見送った帰りに自転車に轢かれたり。どれもこれも大したことはなかったが、今年は厄年かと思うほどいろんなことがあった。
 夜十一時半過ぎ。今日は当直勤務なのでまだ病院にいる。時折ナースコールを鳴らした患者に簡単な処置をしたり、普段あまり時間を取ってできない事務処理をしたり。やることはたくさんある。もう夜の勤務は慣れたけれど、たまに頭がぼうっとすることがある。こういうリズムにも慣れないと体が持たない。ボールペンで眉間をぐりぐりと刺激しつつため息が零れた。
 そのときだった。慌ただしい足音。何かあったのか、と顔を上げるとベテラン看護師の女性が「神崎先生いますか!」と俺に聞いてきた。神崎先生、というのは俺の指導係の医師だ。つい五分前に仮眠に入ったところだ。そう伝えたら「起こしてください」と言われる。どうやら急患らしい。言われるがままに仮眠室に入り、申し訳なく思いながら先生を起こした。先生は眠たそうにしつつも仮眠室から出て「はいはい?」と眼鏡をかけた。

「工事現場での事故です。二十代女性、車に轢かれて意識不明です」

 部屋を出ながら看護師の説明を聞き、先生が腕にかけていた白衣を着る。救急車の中で測ったデータを聞きながら的確な指示を出していく姿を見て、素直にすごいなと思った。さっき起きたばかりなのに。俺もこういうふうになれるのだろうか。のんきにそんなことを思いながら。

「内臓破裂などは見受けられないとのこと。右脚と右腕が骨折の恐れあり。あと、お名前はさんです」

 足が止まった。そんな俺を歩きながら振り返った先生が「白布くん、何してんの。行くよ」と急かしてくる。慌てて足を動かしてついていくが、話がこれっぽっちも頭に入ってこなかった。今、と言っただろうか。俺の聞き間違いか、それとも同姓同名か。それが、気になって溜まらなかった。
 向かう途中、別の患者の情報が入った。そちらは簡単な処置で済みそうだからと俺が行くことになる。神崎先生が走っていくのを見つつ、どうしても聞かずにいられなかった。看護師を引き止めて「あの、今の」と聞くと「え?」と不思議そうな顔をされる。名前と年齢を、と聞いたら少し呆気に取られた様子のまま「ああ、ええっと」と言いながら救急隊と連絡を取っていたスマホを見た。

さん、年齢は二十代だけど」
「正確な年齢は」

 看護師が少し怖気付いているのが分かる。たぶん、俺が怖い顔をしているからだろう。そんな看護師から生年月日を聞いて「分かりました」とだけ答えた。それからすぐに走った。反対方向に。仕事中に私情は挟んではいけない。そう思っても走らずにはいられなかった。この動揺する気持ちをかき消すために。俺と同い年で、と同じ誕生日の、という女性。同姓同名かもしれない。でも、きっと、俺が知っているに違いない。そう思った。
 走って行った先に別の看護師が待っていた。「あ、白布くんお願いします」と呼ばれる。一応当直に入っていて事務作業をしていた医師を呼んできたらしい。先生に「お願いします」と頭を下げたら「大丈夫?」と顔を覗き込まれた。

「顔、真っ青だけど。休む?」
「……いえ、大丈夫です。すみません」

 我ながら、精神が脆すぎる。バシンッと顔を叩いたら先生と看護師がちょっとびっくりしていた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 三時間後、深夜二時半。トイレに行くふりをしてこっそり病棟を歩いている。空いている病室で、この時間に緊急搬送されてきた患者は大抵この階の個室に入れられるはず。今朝の時点で二部屋空きがあったから確実だろう。そう思って。ナースステーションにいる人はまばらで、個室は前を通らなくても行ける。そうっと個室があるほうに近付いて空きだった二部屋に目を向ける。一部屋、名札がつけられている。あそこだ。うるさい心臓を鎮めるように呼吸をしてから、名札を見ようとした瞬間だった。

「あれ、白布くん。何してんの?」

 ドアが開いて、出てきたのは処置をした神崎先生だった。やってしまった。バレた。別に規則で禁止されているとかそういうわけではないが、研修医の身で仕事もせずふらふらしていたことがまずいし、患者に個人的理由で近付こうとしているのだからなおさらまずい。だらだら冷や汗をかいている俺に神崎先生が「僕に用?」と逃げ道を作ってくれた。でも、嘘をつくのは、避けたい。そう思って正直に話した。

「あ〜だからあのときちょっと動揺してたのね。同級生だったとは。でも、こういうこともこれからないことじゃないからね」
「はい。すみませんでした」
「とりあえずさんは大丈夫。骨折はしてなかったけど足の捻挫がひどいし、頭も強く打ってるだろうからしばらく様子見だけどね。あとたぶん過労なのかな? 痩せすぎだしいろいろと健康的ではないかなあ」

 細かいことはまた検査で、と言って白衣のポケットに手を入れた。じっと俺を見てから「内緒だよ」と言って病室のドアを開けてくれる。会釈してから恐る恐る病室に入ると、ベッドに寝かされている、が見えた。暗い中でも分かる。痩せている。目の下の隈が消えていない。顔色が悪い。
 どうしてこんなふうになるまで。そう思った。俺がのんきに過ごしていた時間をは、どんなふうに駆け抜けたのか。には悪いけど、とてもじゃないが、穏やかに過ごしていたとは思えない。目を覚ましたら俺が好きだった顔で笑えるのだろうか。それを想像できないほど、弱っているように見えた。
 病室を出て神崎先生にお礼を言う。笑って「好きな子?」と聞かれて、ちょっと答えに困ってしまった。それこそ正直に答えたら若干問題な気がする。躊躇っている俺に神崎先生は「いい、いい、言わなくていいよ。ごめんごめん」とおかしそうに言った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 が目を覚ましたのは救急搬送されてきた三日後だった。診察を終えて戻ってきた神崎先生が「さん、行ってきたら?」と声をかけてきた。先ほど問診をしてきたそうだ。意識もはっきりしていて、恐らく頭部打撲もそう大事にはならないだろうと言った。とりあえず二週間の入院だと伝えたら、早く退院したいと言われてちょっと怒ってしまった、と神崎先生が申し訳なさそうに笑った。
 仕事中だし、行っていいものか。そう思っている俺を神崎先生が無理やり立たせて、背中を押して部屋から追い出した。「うまく誤魔化しとくから。でも十分くらいで戻ってきてね」と見送られた。研修医として診察を見学させてもらったりいろいろ教えてもらったりしているから元々知っていたけど、良い人だな、神崎先生。今度何かお礼に渡そう。そんなふうに考えながら廊下を歩いた。
 到着した病室の前で、少し、緊張する。会うのは約九年ぶり。どんな反応をされるだろうか。嫌そうにされたらへこむな。そう少し鼻で笑ってから、ドアをノックした。中から「あ、はい」と少し気の抜けた返事があった。の声だ。ぐっとドアノブを握る力が強くなる。一瞬で、瞳が燃えるように熱くなった。一つ息を吐いてからドアを開けると、が間抜けな顔をして俺をまっすぐ見つめていた。

「久しぶり」
「…………」
「おい、なんとか言えよ」
「……ご、ごめん、びっくりしすぎて」
「それ、俺の台詞なんだけど」

 平常心で話すふりをしているが、正直、心臓がとんでもなくうるさかった。だ。理由もなく何度も喉の奥で繰り返してしまう。痩せているし、元気がないと分かる顔色をしているけど、それ以外は変わりない。きれいな髪で、陶器のようにきれいな肌で。俺の好きな笑顔じゃないけど、幾分か他の人よりは好きな笑顔。だ。また、そう喉の奥で呟いてしまった。
 ベッドのそばに置かれている椅子に腰を下ろす。それにしても、本当に大怪我だな。ため息を吐いてしまう。からどうしてここにいるのかを聞かれた。そりゃあ九年も会ってなけりゃお互いのことを知らなくて当然だ。高校卒業から今日までのことを簡潔に説明する。は俺の話をなんだかびっくりした様子で聞いて、最後には「すごいなあ」と独り言のように呟いた。恐らく本人は無意識だろう。それくらい、なんだか消え入りそうな声だったから。

「なんでそんな痩せてんだよ」
「まあ、ちょっといろいろ。仕事が忙しくて疎かになっちゃったのかな」
「今何の仕事してんだよ。救急車で運ばれて来たとき、なんか工事現場がどうのって聞こえてきたけど」
「工事現場の交通誘導してたの。それが仕事の一つなんだけどね」
「……は? どういう意味?」
「あと新聞配達とスーパーのレジ打ちしてるよ」

 びっくりした。仕事を掛け持ちしてるってことか? しかも三つ。思わずのことをじっと観察してしまう。正社員として働くことを選択せず、掛け持ちでアルバイトをするという選択をした。どちらが正しいとかどちらがいいとか、そういうことは人によるだろう。はそれが自分にとっていいと判断したからそうしたのだと思う。それでも、痩せた体とか、やけに白く感じる肌、血色の悪い唇を見たら、とてもじゃないが、俺にはそれが正しい選択だったと思えなかった。
 そんなを目の前にしているのに、どうしても浮かれてしまう自分がいる。目の前にがいるというだけでこの上なく嬉しかった。また会えた。大怪我をしているが、ちゃんと笑っている。それだけでこれまでの何もかもが報われたと思うほど嬉しかった。こんな感情になるのは相手だけで、やっぱり俺はまだ、のことが好きなんだなと情けなくも思った。
 掛け持ちは六年前からだそうだ。弟と妹のためにどうしてもお金が稼ぎたかったから、と。正社員だと副業禁止を掲げているところばかりだし時間がもったいなく思えた、と苦笑いをこぼしながら教えてくれた。生き急ぎすぎだろ。内心そう思って拳を握る。
 が苦笑いをこぼしながら「これって重傷なのかな」と聞いてきた。二週間も仕事を休めないから、と。馬鹿か。余計に拳を握る。今この状況で仕事の心配かよ。自分のことを考えろ。ぼろぼろなんだぞ、お前。自分では分からないのかもしれないけど。二週間でも短いときっぱり言ってやる。俺の言葉にがっくり項垂れる、好きじゃなかった笑顔を見て、また拳に力が入った。

「仕事が仕事が、家族が家族が、って。自分のことも少しは考えろよ」

 思わず言ってしまった。は昔から、自分のことをないがしろにしすぎている。もっと自分のことを考えるべきだし、自分より大切にしなくちゃいけないものなんてない。なんでそんなにぼろぼろになるまで、何かのために頑張るのか。頑張る必要なんてない。つらければ立ち止まればいい。しんどければやめればいい。それだけのこと、じゃ、ないのかよ。
 俺の顔を真ん丸な目で見つめていたのその瞳から、ぼろっと涙がこぼれ落ちた。ぎょっとしてしまう。さすがに言い過ぎた。何も知らないくせに、と思われたのだろう。慌てて「大変なのは分かってるつもりだけど」と言って、自分に失望した。分かってるつもり≠ネだけで何口挟んでるんだよ。本当、最低だな。
 また好きな子を泣かせてしまった。小学生のときの苦い思い出を思い出した。好きな子の髪に触ってみたくて引っ張ってしまったあの日。泣いたあの子の顔がちょっとだけトラウマだった。もう二度と好きな子を泣かせるような経験は御免だ。そう思っていたのに、目の前では、背中を丸めてわんわん泣いた。子どもみたいに。
 泣きそうになった。俺の何気ない一言でこんなに泣くほど、は追い詰められていたのだろう。こんなに痩せ細るまで、こんなに顔色が悪くなるまで。俺がのんきに大学生活を謳歌している間も、研修医として働いている間もずっと、追い詰めて追い詰めて、こうなったのだろう。からこぼれ落ちる涙はとても重たく、冷たいものに見えて仕方がなかった。
 あのときは高校生だった俺も、今は社会人として独り立ちしている。それでもにしてやれることが何もない。俺はの何でもないから。
 の肩に触れる。とても華奢な肩だ。とてもじゃないが、弟と妹を養っているとは思えないほど、か弱い。冷たい体。最後に握手した日を思い出した。あのときの体温と全然違う。俺はのことを本当に何も知らないのだな。そう、謝罪の言葉が漏れた。


戻る