二〇一七年九月。大学四年生になった俺は諸々の試験や課題に悩まされながらも、特に何かに躓くこともなく大学生活を送っている。
 講義を終えて教室を出ると、ポケットから出したスマホの通知ランプが点灯していた。見てみると、今年の五月から付き合い始めた一つ上の先輩、元原さんからのラインだった。文章を打つのが面倒で電話をかける。三コールほどで出てくれた元原さんが「講義終わった?」と柔らかな声で言う。今日はもう講義がない。家に帰ってレポートを書いたら時間がある、と伝えると「じゃあお邪魔しちゃおうかな」とくすくす笑いながら言った。
 二年生のときに付き合っていた古岡とは若干険悪な感じで別れたが、二年も経てば顔を合わせば挨拶をするくらいになった。元々学部も違うし、メインのキャンパスは離れている。もうお互いあのときの怒りは消えて、顔見知りくらいの関係だ。それに内心ほっとしている自分がいる。まあ、正直構わなくなったのも先に気持ちが離れたのも自分だという自覚がある。なんとなく罪悪感があったのだ。
 元原さんとは友人の紹介で知り合った。友人の高校時代の先輩だったそうで、グループで会ったときから真面目そうで優しいいい人だな、と思った。笑顔もかわいくて、いつも人を気遣っている面倒見の良い人で、大人びていて。話していてストレスがなかったし、どんな話題もにこにこと楽しそうに聞いてくれる。
 三回目のグループでの食事会終わり、元原さんと二人で駅まで歩いた。そのときに元原さんから「二人でご飯に行きたいんだけど、嫌かな」と誘われた。まさか嫌と言うわけがない。それがきっかけとなって付き合い始めて、今に至る。
 付き合い始めた頃は顔を合わせるたびに、声を聞くたびに、「この人のことが好きだな」と思った。落ち着いた声色と柔らかな笑み。かわいい人だと思っていたし一緒にいて楽だと思った。俺が疲れていると何かと気にかけてくれて本当に助かった。俺も元原さんが疲れているときは差し入れを持って行ったり話を聞いたりして、俺がなりたかった寄り添い合う関係にもなれていた、と、思う。
 けれど、付き合い始めて三ヶ月が過ぎた八月頃に、突然違和感を覚えた。目の前で食事をしている元原さんをじっと見つめて、なんだか、夢から覚めたように呼吸を忘れた。突然のことで困惑した。どうして俺は、今この瞬間、どうしてこの人のことを好きになったんだろう≠ニ考えたのか、と。その答えは分からずじまいだ。
 別に元原さんのことが嫌いになったわけじゃない。彼女として好きだし、女性として魅力を感じる。ならなぜ、自分の感情を疑問に思ったのか。よく分からない。答えなんてどこにもないし、自分でも分からない。分からないままのほうが良い気がした。それも、不思議な話だけれど。



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「白布くん、私たちそろそろ一緒に住まない?」
「……いや、そろそろも何も、まだ付き合って半年しか経ってないですよ」

 十一月。俺の部屋に来ている元原さんが薄ら笑みを浮かべながら「もう#シ年じゃない?」と言う。大人っぽい表情。それに底知れぬ何かを感じた気がして、少しだけ怖気付いてしまった。
 元原さんが俺が貸した部屋着を着ながらこちらを振り返る。にこりと笑って「ああ、そういえばね」と俺の隣に腰を下ろした。飲み物や食べ物、日用品で足りなかったものを買い足しておいた、と。それは素直に有難いが、一緒に住んでいるわけでもないのにちょっと甲斐甲斐しすぎるのでは。困りつつ言ったら「いいの。白布くんのためだからそれくらいするよ」と言葉が返ってくる。
 元原さんがシャワーを浴びると言うので見送ってから、サイドテーブルに置いてあるティッシュが切れていることに気付いた。カバーから空箱を出してごみ箱に捨てる。ストックを入れているところを開けたら、そこに一緒に入っているコンドームが一箱増えていることに気が付いた。買い足したって、これもか。女性がこういうものを外で堂々と買うのはちょっと。そんなことを思っていてさらに気が付く。
 確かに一箱増えているのに、どちらも箱が空いている。おかしい。確かにこの前見たときは一箱しかなかった。買い足された一箱まで空いているなんて。不思議に思ってどちらも出して見てみると、片方はやはりまだ一つも使っていない状態だった。じゃあなんで箱が空いてるんだ?
 不思議に思いつつ中身を一つ取り出す。特に変わったところはない。当たり前だ。元原さんが開ける手間をなくすために箱を開けてくれたのだろうか。でも、さすがにそこまでしないだろう。不審に思いつつも箱に戻そうとして、あ、と思った。触って気が付いた。小さな穴が開いている。不良品か? 同じ箱に入っている他のものも一つずつ触って確かめた。おかしい。全部小さな穴がある。針の穴より少し大きい穴だ。全部不良品なんてことあるか? 店員のいたずら、なわけはないだろう。箱には穴なんて開いていない。つまり、この箱を開けた人物が、中身のすべてに小さな穴を開けた。そう考えるのが自然だった。
 そんなこと、一人しか。そう思った瞬間にシャワーが止まった。びくっと震えて慌てて箱を中にしまう。いや、勘違いかもしれない。穴はあとでちゃんと確認するとして、これは別に元原さんが買い足したものなんかじゃなくて、俺が買ったことを忘れているだけだろう。穴も俺が不注意でやった、の、かもしれないし。どんな不注意で全部に穴が空くのが全くもって検討が付かないけれど。
 先ほどまで座っていたベッドの上に戻って、一つ深呼吸。なんで悪い方向にしか考えられないんだ。そんなことするわけないだろ、元原さんが。そう自分に言い聞かせている間に元原さんが戻ってきた。にこにこと笑いながら「シャンプーなくなりそうだね。買ってある?」と聞いてきた。詰め替えを一つストックしていたはずだ。まだ買わなくていいだろう。そう説明したら「分かった」と言った。

「あ、そうだ。ゴムも買っといたよ」

 さっき俺が開けていた棚を指差して言う。「買うのちょっと恥ずかしかった」とはにかんだ。付き合い始めた頃ならきっとかわいいと思っただろう。けれど、今は、ゾッとした。

「……元原さん」
「うん?」
「それ、さっき、見たんですけど」
「あ、そうなんだ。なくなったら困っちゃうでしょ」
「何かしました?」

 元原さんが黙る。にこにこと笑ったまま。ゆっくり数回瞬きをしてから元原さんが「何か、って、何?」と表情を一切変えずに言った。



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『何ソレちょー怖いじゃん。ヤバ、え、ヤバいなその人』

 実家の自分の部屋でビデオ通話をかけている相手は太一だ。今は東京の大学に通っている。ちなみに留年が確定したと先月連絡をもらったばかり。そのくせ太一は至って元気そうだった。
 ゴム穴空け事件後、元原さんに別れを告げた。そんなことをする人とさすがに付き合い続ける自信がなくて。元原さんは「どうして? 将来結婚するんだからいいでしょう?」とにこにこしていたけど、いや、無理。結婚するにしても既成事実を作ろうとする人なんか御免だった。コンドームは二箱ともすぐに捨てた。ラインはブロック、着信拒否の設定をしてどうにか逃げ切ろうとしているが、講義終わりに教室の外で待っているし、部屋の前で五時間も粘られたし、合鍵を勝手に作られて家の中で待っていることも数回あった。怖すぎる。

「今日も帰ったら待ってたから実家に来た感じ」
『ヤバ、ごめん、ちょっとだけ笑っていい?』
「もう笑ってんだろ……面白がってんじゃねえよ……」

 ため息。なんで俺がこんな目に。こんな人だと思わなかった。もっとこう、責任感が強くて、人に優しくて、笑顔がかわいい人かと思ったのに。項垂れる俺の目の前でビールを開けながら「いや〜宮城も捨てたもんじゃないな」と太一がけらけら笑った。他人事だと思いやがって。

『でも少なからず好きだったんだろ?』
「……それも途中でよく分からなくなった」
『やだ賢二郎くんサイテー……』
「うるせえな、俺も分かってんだよ」

 深いため息。太一がビールを飲みながら「いや〜あの白布賢二郎が女に悩まされてるなんてな〜」と笑った。笑うんじゃねえ。腹が立つ。
 それにしても家に帰れない。絶対あの人外で待ってるし、電気がついていると分かったら必ずチャイムを鳴らしてくる。合鍵をまた作られていたらどうしよう。大家には話してあって、俺の部屋の周りをうろついていたら注意すると言ってくれたけれど、「遊ぶのも程々にね」とまるで俺が最低男かのように笑われてしまった。最悪だ。

『もうしばらく彼女いらないだろ、そんなの』
「懲り懲り。本当に。一生好きな子とかできないかもしれない」

 好きな子。そう自分で口にした瞬間、瞼の裏に誰かの笑顔が見えた気がした。きれいな髪だった。一度でいいから触ってみたかった。そんなことを思っていたことも、全部、まだ覚えている。
 元原さんの髪を触ってみたいと思ったことは一度もなかった。きれいな髪だとは思ったけれど、触りたいとは、思わなかったな。なぜだか。俺はどうして元原さんを好きになったのだろうか。顔が特別タイプだったわけじゃない。真面目そうで、優しそうで、笑顔がかわいくて、大人びていて、いいなと思った。そう思ったはずだった。
 肩から力が抜けた。なんだよ、元から最低なの、俺だろ。笑えてしまって頭を抱えた俺に太一が「悩みすぎて死ぬなよ」とからかってくる。本当にな。そうため息交じりに呟く。
 真面目で、優しくて、笑顔がかわいくて、大人びている、に似ているから=Aいいなと思ったのだ。笑ってしまう。笑えて仕方なかったから太一に「じゃあまたな」と言ってから通話を切った。とてもじゃないけど人に見せられる顔をしていない自覚がある。なんだよ、なんで消えてないんだよ。ずっとまだここにいる。隈は消えただろうか。あの変な笑顔をもう浮かべていないだろうか。毎日笑って、毎日楽しく、毎日幸せに暮らしているだろうか。
 今もまだ、の髪を触りたいと思う自分がいる。俺はずっとの影を探していた。誰のことも好きじゃなかった。誰かを通してを探しているだけだった。が目の前で笑っていればいいのにと願いながら、似ている誰かで代用していただけだ。最低な男だな、本当に。


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