翌年、二〇一四年四月。無事に第一志望の国立大学医学部に合格した。実家から通うつもりでいたのに両親から「社会勉強」と言われて家を追い出された。追い出されたものは仕方なく、大学から徒歩十分のアパートで一人暮らしをしている。
 正直掃除も料理もそんなに好きじゃないし得意でもない。苦手なほうだと思う。でも、まあ、こういう経験は大事だとは分かる。毎日溜まっていく洗濯物にはげんなりするし、自分で用意しないと出てこない食事に今更これまでの有難みを覚える。掃除は毎日しないと着実に埃が溜まるわ部屋がどんどん物で溢れていくわで、これまでは本当に何もせずに生活をしていたのだな、と認識した。まあ、寮生活でも似たようなことはあったけれど、食事は食堂にいけば出てきたし片付けをしたこともない。自分でやらなくちゃ何も出てこないし起こらないという環境は、至高の自由ではあるが逆に究極の不自由でもある。自分の得意分野だけならこうは思わないのだろうが。
 本棚にきっちり本を詰めることは好きだ。冷蔵庫に買ったものを入れて整理するのも好きだし、掃除は掃除でも風呂掃除と玄関掃除は嫌いじゃない。一人暮らしをしてはじめて気付いた面白さだ。料理と洗濯は好きじゃないけど、まあ、やりたくないというほどではない。卒業まではとりあえず頑張ってみるか。そんなふうに小さくため息をこぼす。

「あ、白布おはよー」
「なーお前課題やってきた?」

 同じ学部のやつが数人声をかけてきた。いや、課題はやってきて当たり前だろうが。そう呆れて返すと「ごめん写させて」と苦笑いを向けられる。高校のときとあんまり状況が変わっていない。げんなりしつつ「昼飯奢れ」と言ってプリントを見せてやった。
 席に座って鞄からペンケースを出す。俺の隣に座っているやつが「あっ!」と嬉しそうな声を上げた。何かと視線の先を辿ると、一人の女子が席についているところだった。

「あの子、かわいいよな〜。必修めちゃくちゃ被ってるからお近づきになりて〜」
「誰?」
「文学部の子。テニスサークルらしいんだよな〜俺も入ろっかな〜」

 他のやつが笑いながら「あんだけかわいかったらもう彼氏いるだろ!」とそいつをからかう。まあ、そういう可能性もあるだろうな。俺も適当に同調しておくと「ひでーなお前ら!」とそいつが喚く。どうでもいい。何でもいいからお前らはさっさとプリントを写せ。そんなふうに思っていると、教授が教室に入ってきた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「これ、落としましたよ!」

 女子の声が聞こえた。落とし物をした覚えはない。周りにいる誰かに声をかけたのだろう。特に気に留めず歩いて行こうとしたら、ぐんっと鞄を引っ張られて自然と足が止まった。俺かよ。そう驚きながら振り向くと、一緒に講義を受けたやつがかわいい≠ニ言っていた女子が俺のイヤホンを持って立っていた。

「すみません。ありがとうございます」
「どういたしまして!」

 明るく笑う子だな。まあ、こういう子が好きだというやつは多いだろう。ぼんやりそう思いつつ会釈して立ち去ろうとするが、その子が鞄を離してくれない。なんだ? 拾ってくれたのは有難いけど。若干不審に思っていると「お名前聞いてもいいですか」と笑顔で聞かれた。「白布ですけど」と答えると、その子は笑顔で「あたしは古岡美絵子です」と言った。文学部一年生とも付け足して。なんで急に自己紹介? 話の流れがよく分からないが、一応こちらも医学部一年生だと伝えておく。「なんだ、同い年だね!」とぱっと花が咲いたように笑う。まあ、普通にかわいいとは思うけど。それ以上は特に何も思わなかった。
 特にもう話すこともない、と思って「どうも」と軽くお礼を言って立ち去ろうとしたのに、古岡は「白布くんって高校どこだったの?」と会話を続けてきた。なぜ続ける。不思議に思いつつ「白鳥沢」と返したら「すごいね!」と言った。俺が歩いて行こうとした方向に同じように歩き始めるので、流れで俺も歩き始める。会話を続けながらメインの教室棟から外に出た。「あ、今からどこ行くの?」と聞かれたのでとりあえず次の講義がある少し離れた教室棟に、と答えたら「あたしも次一緒だよ。外国語でしょ?」と言われた。まさか一緒に行こうとか言うんじゃないだろうな。そう思っている俺に重ねるように「一緒に行こうよ!」と古岡が当然のように言った。
 あんまり話したことのない女子と二人というのは正直あまり得意じゃないけど、まあ、断る理由もない。「別にいいけど」と答えて二人で歩いて行く。歩きながら古岡から連絡先を聞かれたので、これも体よく断る理由もなくて交換しておいた。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 大学入学から半年後の夏、なんだかんだあって入学当初に親しくなった古岡から告白された。はじめは断ったが二週間後に「彼女がいないならとりあえずでもいいから」と結構な圧で言われて、気が付いたら了承していた。圧の強い女子は苦手だ。母親のことを思い出す。とはいえ気は合うし、話していてそれなりに楽しい。かわいいとは思ったのだし、まあ、そういう対象として見ることはできるのだろう。なぜか自分に自信を持てないままではあるが、二人で食事に行ったりお互いの家を行き来したりしてそれなりに普通の交際≠していた。古岡をかわいいと言っていた同輩からは恨まれたけど。
 で、現在。古岡と付き合い始めて三ヶ月後。正直げんなりしている。課題をしている間もずっと鳴り続けるスマホ。古岡が勝手に置いていった服や化粧品の山。俺はお前の暇つぶしの相手じゃねえしここはお前の家じゃねえよ。そうぼやきながらスマホをベッドのほうに投げておいた。女子と付き合うってこんな感じなのかよ。毎日毎日会いたい電話したい連絡ほしい、って、お前は止まったら死ぬマグロと同じかよ、と何度ツッコミを入れたか分からない。すべての女子がそういうわけじゃないだろうけど、今は完全に女子という存在に苛立ちしか覚えない体になっている。
 正直、付き合い始めは彼女がいるという状況も悪くないな、と思っていた。手を繋ぐのもキスするのもセックスするのも嫌いじゃなかった。男なら当たり前だ。求められるのも嫌じゃなかった。
 でも、鬱陶しくてたまらないんだよな、今となっては。なんだよ毎日連絡したいって。そんなに話すことねえよ。こっちは課題で忙しいっていうのに構ってられるかよ。それを責めるようなことばかり言ってくる。はじめの頃のにこにこ愛想のいい笑顔は嘘かよ。とんでもない我が儘じゃねえか。
 お互い寄り添い合えるような関係になれると思っていた。ああ、疲れたなって思ったら、ちょっと休憩でもするかって言い合えるような。お互いに尽くそうというわけではない。ただ、お互いが楽をして、力を抜いて、気を遣いすぎることもない。そういう関係になりたかったのだが。
 ふと、違う笑顔が頭に浮かんだ。忘れるって決めただろ。自分にそう呟いてかき消す。それでも消えてくれない。元気だろうか。今はどこで何をしているのだろうか。きっと連絡先は変わっていないだろう。けれど、ただの一度も連絡をしたことがない。フられた俺から連絡をする勇気なんかなかった。面倒に思われるのも嫌だったし、邪魔になるのも嫌だった。
 鳴り続けるスマホを取りに立ち上がる。やっぱり、こんな中途半端な気持ちではだめだな。スマホを拾い上げて電話に出ると、耳障りな金切り声にも似たような声で「なんで電話出ないの!」と古岡が喚いた。

「ごめん。もう別れてほしい」
『は? 急に何、なんで?!』
「悪いけどもう古岡のこと、そういうふうに見られない」
『何それ最低なんだけど。散々振り回しておいて?!』
「振り回したのはお前だろうが」

 あ、と思ったときにはもう遅かった。怒り散らした古岡の言葉が余計に俺の苛立ちを生み、結局喧嘩になってしまう。そのまま不満の横行になり、最終的には「こっちから願い下げだわ!」「こっちもな」で通話が終了。なんて情けない最後だろうか。そうため息が漏れた。
 俺、本当に古岡のこと、好きだったのか。それさえも分からない。好きだった時期もあったかもしれない。でも、なんというか。最後まで古岡のことが分からないままだった。ただ、笑顔がかわいい。それだけだったかもしれない。そうだとしたら最低だな、俺。たましても深いため息が止まらず、項垂れてしまった。


戻る