てっきり、セッターは別のやつがなると思っていた。一年生に俺より背が高くセンスがあるセッターが入ってきたし、二年にはスポ薦で入っているセッターがいる。牛島さんという選手を入れたチームにとっての理想のセッターであるようにしてきた俺は、牛島さんがいなくなったらコートに必要なのだろうか。三年生になったときからずっとそう思っていた。
それを監督はしっかりと見抜いていた。練習試合の前日、全員の前で突然名前を呼ばれたから驚きつつ返事をしたら、そこから約一分間めちゃくちゃに怒鳴られた。要約すると「腐抜けた顔をするんじゃねえ」という内容だった。腐抜けた顔。先輩たちがいなくなって、牛島さんがいなくなったコートに自分はいないと当たり前に思っていた。俺はスポーツ推薦で入ってきたわけでもないし、中学時代に目立っていた選手でもない。それでも、それなりにプライドはあるつもりだった。でも、自然に、自分をコートから消していて。
去年も部員の一部が「なぜ瀬見さんが正セッターではないのか」と疑問に思っていたことを知っている。その中の少数は一般入試組がレギュラーに入っていることへのやっかみだったが、ほとんどが純粋な不満だったと俺は認識している。練習中に嫌でも耳に入ってきたそれには悩んだ時期もあった。でも、しばらくしてから、今のチームに合っているのは自分だからだ、と自分を肯定できるようになった。でも、今は正直、肯定する要素が、見つけられなくて。
監督が最後に言ったのは「よく見ろ、馬鹿野郎」だった。コートをよく見ろ。見ているつもりだった、けど。そういう顔をしたのがバレたらしい。監督が「練習試合が終わっても腐抜けた顔をしていたら、外周五十周。覚えとけよ」と言って、話を練習試合の日程に戻した。
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の最後の登校日。教室の中を覗いたらクラスメイトや他のクラスから来た友達と楽しそうに話していた。でも、それも結構淡々としているように見えてしまう。の笑顔が変だったから。
教室を出てきたに声をかけた。少し驚いた顔をしていたけど、特に何も聞かずに時間をくれた。と話すの、久しぶりだな。もう退部しているし元々教室が少し離れている。合同授業をすることもないし、移動教室が被ることもない。普通に学園生活を送っていたらそうそう出くわすことはない。会いに行けばいつだって会える距離だったけど、行ったとして何を話すかも分からなくて足が動かなかった。遠くを歩いているところを見かけて追いかけることもしなかった。本当に好きなのかよ、とツッコまれても仕方がない。自分でもそう思う。でも、自分で思っている以上に、の置かれている状況に困惑していたのだと思う。
が「どこに行くの」と聞いてきても答えなかった。ここで目的を話して逃げられるのも、察されて気まずく思われるのも本意ではない。だから、ただただ押し黙って歩いた。人気のないところを探しながら。
どうせ結果は決まっている。好きだと伝えたところでが頷いてくれるなんて微塵にも思っていない。両想いになりたいだとか彼女になってほしいだとかそういうことを望んでいるわけじゃない。それが一番の結果だけど。俺はただ、との繋がりが、ここで切れるのが嫌だと思った。今日みたいに燃える夕日を見るたび、を思い出して後悔するのが嫌だと思った。もう二度と手を伸ばしても届かないところに消えて行ってしまうのがどうしても嫌だった。無理やりのどこかに糸を絡ませてやろうと思った。ただ、それだけだった。
辿り着いたのは特別教室がある階の一番奥、滅多に人が来ないところだった。俺の少し後ろを歩いていたを振り返る。じっとこちらを見つめる瞳に夕日のオレンジ色が映えている。きらりと光るその様がまるで映画のワンシーンのようにきれいだと思った。髪の毛一本一本が艶めく光も、白い肌が陶器のように光るのも、どれもこれも。ああ、手放したくないな、と思う。手に入れたわけでもないのにおこがましい話だが。
「のことが好きだ」
目が真ん丸になった。その驚きの表情は一瞬で消え去る。クソ、なんかムカつくな。もっと驚けよ。内心そう思ってしまう。俺が相手なら何言われても余裕ですってか。若干不思議そうな顔にさえ見える。コイツ何言ってんだ、みたいな。何とも思っていない相手でも、普通そんな顔するかよ。もっと照れろよ。もっと慌てろよ。クソ、悔しい。何考えてんだか全く分からない。ただ、俺の言葉は、の中に波を起こさなかったことは確実だった。
「付き合ってほしい」
絶対、死んでも、嫌がられても、目を逸らしてやるものか。そう思った。この瞬間に目を逸らしたら一生後悔する。良い返事がなくてもいい。何一つの中に波を起こせなくてもいい。それでもいいから、たった一秒、たった一瞬、こいつの中に、傷のように印象付けられたらそれだけで十分。そういう気持ちだった。
の瞳がほんの一瞬だけ伏し目がちになった。少し閉じられた瞼。でも、一瞬で元通りになる。何を隠した。今、何を思ったのか言えよ。ぐっと握った拳がわずかに痛い。俺がそう思っている間に、は、俺が一番嫌いな笑顔を浮かべていた。
「白布のことは友達としては好きだけど、ごめん、そういうふうに見たことないや」
手の力が抜ける。分かっていたことだ。こういう答えが返ってくると、俺は分かっていた。でも、もう少し、何かに刺さるんじゃないかと期待していた。後悔でも申し訳なさでも何でもいいから、何かのどこかに刺さって、絡まって、そう簡単には消えない何かとして残したいと。でも、の表情を見て確信した。俺はに何も残せない。何もできないし、何も伝えられないのだ、と。
すんなりと「そうか」という言葉が口から出た。が変な笑みを浮かべている。その顔、好きじゃない。それもに言えない。俺には何も言えることがないんだな。目の前にいるというのに。それを実感した。
手を伸ばした。不思議そうに俺の手を見つめるに「最後かもしれないし、握手」と言ってみる。は「ああ、うん」とびっくりしたまま答えて、ゆっくり右手を近付けてきた。小さな手だ。爪が短く切られている。運動部に入っていない女子のほとんどが爪を伸ばしている。は部活を辞めて一ヶ月半が経つのに爪が短い。そんなもの、どうでもいいのだろう。構っている暇がないのかもしれない。単純に長いのが好きではないのかもしれない。どれかは分からないけど、きれいな手だと思った。
「体、大事にしろよ」
そんな言葉しか俺はに言えない。それでも言いたかった。この先どんなことがあっても、ただ元気でいてくれれば十分。そう思ったから。いつも疲れたような顔をしていて、どんどん元気がなくなっていくように見えた。どんどん笑わなくなった。いや、ただ見てるだけのやつからすれば笑っているように見えていただろうけど。でも、俺にはそう見えなかった。それが気になって仕方ないままだ。だから、せめて。そう捻り出した言葉だった。
気まずそうな顔をされた。ようやく表情が崩れて内心少し笑っている自分がいる。傷でも何でもいいから残れ。そう念じている俺のことなどが知るわけがない。一応「悪かった」と謝ると、慌てた様子で話し始めた。「青春の思い出をもらったなってくらい」、「きれいな思い出をもらっちゃった」、そんな言葉が返ってきて正直クソ悔しかったけど。まあ、多少、何かとして残ったならそれでいい。そう思うことしかできなかった。
近所の人から紹介された町工場で事務員をする予定だという。やけに明るく話すの横顔を見ながら相槌を打つ。まるでもう会えない世界線に消えていくみたいだ。もう二度と会えなくなるんじゃないかと錯覚するほど、がどこかおぼろげに見えてしまった。
不意にが「いつから？」と聞いてきて、自分でも分かるくらい渋い顔をしてしまった。普通このタイミングで聞くかよ。こっちはフラれてんだぞ、お前に。軽くクレームを入れておくとは苦笑いをこぼして謝ってきた。
「……一年の夏くらい」
「……そ、そうなんだ」
「お前が聞いてきたんだろ、処理しろよ」
「処理って言われても……」
言わなきゃよかった。なんで余計に恥ずかしい思いをしなければいけないんだ。俺から目を逸らしてへらへら笑うが憎らしくなる。気まずく思っている感じとか、申し訳なさそうにしている感じとか。そういうのがよく分かる表情だ。じっとその横顔を見ていると、ふつふつと、諦めの悪いことを考えてしまう。きっと足掻いてもが返事を変えることはない。そう分かっていても、口を開かずにはいられなかった。
どうせ目の前からいなくなるなら多少印象が悪くても食い下がってやる。そう思って「好きだ」ともう一度言った。少したじろいだが困ったような笑みを浮かべながら「それはさっき聞いたけど？」と呟く。足を止めるとが二、三歩前で立ち止まった。俺を振り返ると、きょとん、とした顔で俺を見つめてくる。その唇からそのうち「どうして」と零れてきそうなほど、不思議そうな顔をしている。そのあとすぐに困ったように眉が動いてそうっと視線を逸らされた。
「白布はしっかりしてるし、真面目ないい男だから、もっともっと良い人にたくさん出会えるよ」
「……なんだそれ」
「わたしと付き合っても後悔するから。わたしのことは早めに忘れて、青春を謳歌してね」
あー、ムカつく。しっかりしていて真面目でいい男だと思うなら、頷けばいいだろ。なんだよ、もっと良い人にたくさん出会える、って。たとえよりかわいい女子に出会おうが、より何か秀でたものを持った女子に出会おうが、そんなもの、俺にとってはでなければ意味がないというのに。付き合っても後悔する、って、なんで分かるんだよ。確かに俺は子どもでに何かできるほどの力はない。何も持っていないただの高校生だ。でも、だとしても、何かしたいと思う気持ちはこの世の誰よりもあるのに。内心でそんな子どもみたいな駄々をこねてしまった。
早めに忘れて、って、正気かよ。そう言われて忘れられるやつがどこにいるんだよ。腹立たしくて逆に忘れられないだろうが。ぐっと拳を握る。どれだけ痛いほど見つめてもの表情は崩れることはないし、この時間が永遠に続くこともない。何一つ繋ぎ止めることはできないまま、苦し紛れに「馬鹿かよ」という言葉が溢れただけで、もう、為す術がなかった。
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