小学校低学年のときの話だ。同じクラスの女子に腰よりも長い髪をした子がいた。真っ黒でまっすぐな黒髪。その見た目が、当時流行っていた子ども向けアニメに出てくる悪役にそっくりだった。それをクラスの男子みんながからかった。女子たちは男子に怒り心頭でよく男女に分かれて小競り合いをしていたものだ。まあ、よくある光景だ。俺もからかう男子側にいたことにはいたけれど、直接からかったことはない。
 というのも実は、その子は、俺にとっては初恋の女の子だったからだ。内心は髪が長いだけでなぜこんなにからかわれてしまうのか、と不思議だった。ただ、庇ったり女子側についたりしたら好きなのがバレるかもしれないと思って、何もできないままだった。
 そんなある日の下校中。俺の少し前をその子が歩いていた。長い髪を揺らして楽しそうにしていたのを覚えている。ランドセルにぶつかりながら、風に揺れながら、夕日の下で髪が光っていた。子どもだったからきれいだとかそういうことは思わなかったけど、好きな女の子の髪だからなのかどうしても触ってみたくなって。後ろからその子の髪を一束、ほとんど引っ張ったような形で掴んでしまったのだ。びっくりしたその子が振り返って俺の顔を見た瞬間、わっと泣き出した。長いほうがかわいいから伸ばしてるだけ、あのアニメの悪役じゃないもん、とわんわん泣きながら言って。
 その子は俺が髪を掴んでしまった数日後、ばっさり髪を切って登校してきた。笑顔が消えていて、どこか、寂しそうな顔をしていたのをよく覚えている。俺が触ったせいで切ったのだろうか。そう思う俺と同じく他の男子も自分がからかったせいかな、と不安そうにしていた。
 女の子を泣かせた、という話が俺の両親に伝わったのはその二日後のことだった。その子があんまりにも元気がなかったから担任が声をかけたとき、「賢二郎くんが髪を引っ張った」と言ったらしい。事実だ。嘘は一つもない。同時に他の男子がからかってきたことも話したらしいのだけど、実際に手を出したのは俺だけ。担任から両親に連絡が入った結果、父親からは拳骨、母親からは今まで見たことがないくらい怖い顔で怒られた。あのときの両親ほど怖いものはなかった。今思い出してもゾッとする。
 母親からはやけに真剣に「女の子には優しくしなきゃだめよ」と言われた。家族では母親と祖母しか女性がいない。男四人兄弟で育った俺にとって、それは少し難しいことだった。なんとなく乱暴なことをしてはいけない、いつもの感じで怒ってはいけない、とは分かっていたけれど。優しく≠ニいうのが難しいところだった。
 それに、俺は意地悪で髪を触ったわけじゃない。好きだったから、触ってみたかったから、手を伸ばしてしまっただけなのに。泣かれると知っていたら触らなかった。母親にだけは正直に話した。絶対誰にも言わないで、とお願いして。その話を聞いた母親はちょっとびっくりしてから、なんだか困ったように笑ったのを覚えている。それから、内緒話をするように言ったのだ。

「好きな子なら、なおさら大事にしなくちゃ。賢二郎くんにだけは触らせてあげる、って言ってもらえるくらい好きになってもらわなきゃ。そうでしょう?」

 その後、「女の子を泣かせるなんて」と怒り心頭だった父親に代わり、母親が一緒に謝りに行ってくれた。向こうの親は怒ってはいなかったけど、ちょっと困ったように「これからは仲良くしてあげてね」と言った。そう言われてびっくりした。だって俺はその子のことが好きなのに。仲良くなりたいと思っていたのに。確かにからかう男子たちから庇うことはしなかったけれど、直接からかったことはないのに。
 そう思ったけど、すぐに分かった。そうか、俺が好きなだけじゃだめなのか。子ども心にそう思った。一方的に好きでも、相手にそれが伝わっていなければ好きじゃないのと同じこと。身に染みてそれを学んだ出来事だった。



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 目の前で髪が揺れている。忙しなく体育館の端っこから端っこまで走り回ってタオルを配る、の髪だ。が動くたびにゆらゆら揺れるそれがきれいだと思うようになって、半年が経った。苦い思い出がいつも頭に浮かぶ。触って泣かれたらショックでたまらないだろうな。そう、一人で苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
 のことを目で追うようになって気付いたことがたくさんある。髪をまとめている日はどうやら寝癖が直らなかったらしいこと。ちょっと古風なメニューのお弁当は家の人が作ったもので、カラフルなお弁当は自分が作ったものらしいこと。たまに人と話すときに子どもと話すみたいな態度になること。あと、たまに、変な笑い方をすること。
 は不思議なやつだった。大人びていてしっかり者なのに、たまにとんでもなく不安そうな顔をする。落ち着いているのに危うく見えてしまう。なんとなくいつも、何かを気にしてまっすぐ前を向いていない。そんな様子をしていた。仕事が早いし丁寧だしミスもほとんどない。いてくれて助かる、と先輩がよく褒める。それでもは、なんだか申し訳なさそうにするだけで。変なやつ。そう思っていた。
 でも、笑った顔がかわいかった。何も気にせず楽しそうに笑う顔が好きだと思った。がそういう笑顔を見せるのは、誰かの嬉しい話を聞いたときが多かった。何気なくと成績の話をしたときに、高校はじめての中間テストの結果、学年三位だったことを話した。両親から「バレーも頑張ってほしいけど勉強もね」とよく言われている。とりあえず学年十位までに入れば頑張っている証明になるだろうから寝る間も惜しんで勉強をした、と。そうしたらは、聞きようによっては嫌味っぽいそんな話にも、満面の笑みを浮かべて「すごいね!」と手放しで褒めてくれた。たったその一言。ころっと落ちた。単純だと笑えばいい。自分でもそう思うから。
 まあ、とはいえ。好きだからなんだ、で片付いてしまう。がどう見ても俺をそういうふうに見る感じがないのはよく分かったし、俺も俺で部活と勉強で手一杯だ。諦めるわけではないけど、どうこうしたいとは思わなかった。とりあえずこのままでいい。焦らなくても卒業式までは時間がある。その間、何かの拍子に好きになってくれればラッキーくらいに思っておこう。そう思った。
 今日もの髪が揺れている。太陽の光をきらきら反射して。きれいだな。他の女子の髪を見てもなんとも思わないのに、の髪だけ俺の瞳にはそんなふうに映る。一応健全な男子高校生だ。触ってみたい、と思うことは多々ある。でも、まさか、手を伸ばそうとは思わなかった。


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