とある日の朝、八時十五分。猛ダッシュでお風呂から出てきた賢二郎は半裸のまま「クッソ」と言ってガシガシと髪を拭く。わたしも大急ぎで賢二郎の服を出していると「すみません、ありがとうございます!」と焦った声で歯を磨き髪を乾かし、と大忙しだった。あの、お風呂は諦めたほうがよかったのでは? 正直にそう苦笑いをして言ったら「入りたかったので!」と焦った声で返事があった。今日の出勤は八時半かららしい。あと十五分しかないよ。そう急かしていると賢二郎が舌打ちをした。
 結構大胆な寝坊だった。わたしは代休なのでコーヒーを飲んだりしてのんびりしていたのだけど、賢二郎の出勤時間を勘違いしていた。まだ起こさなくて良いだろう、と思っていたのに賢二郎のスマホが鳴ったので見てみたら、律儀に入力されているカレンダーに「八時半出勤」と書かれていたので、びっくりして。そのときの時刻、七時五十五分。ベッドで丸まって寝ている賢二郎を引っ叩いて布団を思いっきり剥がした。「遅刻!」と叫んだわたしの声に一瞬で覚醒した賢二郎は「うわっ」と滅多に聞かない焦り声をあげてから「おはようございます!」とあわあわしたまま言ってくれた。それがついさっきの朝の出来事。
 しまった、お弁当。一応準備しかけてあるけどちょっと間に合わない。かといってここまで用意したのに渡さないのもな。そう思って大急ぎで詰め込める物は詰め込んだ。昨日の残り物とか、すぐできるものとか。ちゃんと栄養バランスがどうとかなんとか考えて作ってたのに! 悔しい気持ちになりつつふたを閉めて、いつものお弁当入れに突っ込んだ。あ、お茶淹れてない。お湯を沸かしている時間はない。水筒はごめん、諦めて! 焦りすぎてボタンが掛け違っている賢二郎に言ったら「大丈夫です、すみません」と靴下を穿いた。ボタン! それよりボタン! わたしが指を差して指摘したら舌打ちをして「クソ」と恥ずかしそうに言った。
 明らかに急いで準備しました、という様子だけど、歩きながら直せば大丈夫でしょ。そう髪だけちょっと直してあげた。賢二郎は鞄に荷物を入れながら帰り時間を教えてくれる。今日は病院の人たち数人と飲み会をするらしい。帰りが遅くなること、晩ご飯がいらないことを早口で言った。靴を履きながら「すみません、早く帰るようにします」と付け足す。早く帰ってこなくていいから、しっかり働いてしっかり羽を伸ばしてきてね。そう背中をそっと撫でたら、くるりと振り向く。じっとわたしを見てから「早く帰るようにします」と懲りずにまた言った。いいのに。何を言ってほしいのかは分かる。案外単純だから。

「できる範囲で、早く帰ってきてね」
「……まあ、はい、できる範囲ですか」
「不満そうな顔をしない。ほら、急いで」

 わしゃわしゃ頭を撫でてやる。賢二郎はそれでもまだ不満そうな顔をしていたけど、最終的には「いってきます」といつも通りの顔で出て行った。素直じゃない、かわいくない彼女でごめんね。静かに閉まったドアにそう笑っておいた。
 一緒に暮らしはじめてから、知らなかった一面をたくさん知った。結構料理が苦手なこと。掃除が案外雑なこと。冷蔵庫の中に物を詰めるのがとんでもなく得意なこと。かなりの頻度で床で寝落ちすること。他にもたくさん。まだまだ知らない一面があるのだろうな、と毎日のちょっとした楽しみになっている。たぶん賢二郎からしてもそうなのだろうけど。
 脱衣所にそのままにしておいて、とわたしが言った賢二郎が脱いだ服。洗濯機に入れてスイッチオン。部屋に戻ってから布団を直して、賢二郎が諸々転々と置いたものを片付けていく。慌ただしい朝だった。寝坊しかけたことは何度もあったけど、ちゃんと寝坊したのははじめてだ。気を付けなきゃ。スケジュールを共有できるようなアプリを使ってみようかな。嫌がられるかもしれないけど。そんなふうに考えつつ時計を見る。八時二十五分。間に合ったかな。歩いてすぐの距離とはいえ、走らないと危うい時間だった。ちょっと心配。そんなふうに小さく笑った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




「あ、どうもすみません……」

 賢二郎に言われたとおりチェーンロックをかけたままドアを開けた先にいたのは賢二郎、と、申し訳なさそうにしている男の人だった。ポカンとしているわたしにその人の背中におぶられている賢二郎。それにしてもこの人背がすごく高い。川西くらいあるんじゃないかな。久しぶりに見た高身長の男性に怖気付きながら、一旦ドアを閉める。チェーンロックを外してまたドアを開けると、その人が賢二郎を玄関に下ろしてくれた。
 なんでも、お酒にめっぽう強い女性看護師さんがいるそうだ。お店で一番強いお酒をがぶがぶ飲むらしいのだけど、不運にもその人が頼んだお酒が間違って賢二郎のもとに届いたのだという。ほんのり酔っていた賢二郎は気付かずそれを飲み続け、周りの人が気付いたときにはこの状態。唯一家の場所を知っていた、賢二郎の先輩だというこの人が送ってくれた、というわけだった。
 その人は賢二郎の荷物を渡してくれつつ「話だけはたまに聞いていました」と言った。話、とは? わたしがそう首を傾げると、同期の研修医や周りの人たちからよくわたしのことを聞かれていたのだという。この頃お弁当を持ってくるようになった賢二郎を、女性看護師さんが中心となって「彼女でしょ?」とよくからかっていたとか。どういう人なの、とか、どこで知り合ったの、とか。しどろもどろ高校時代の先輩だとか、結構長く付き合っているとか、当たり障りのないことを答えて躱しているらしい。それでもいつも茶化されていて困っていますよ、とその人は言った。職場でからかわれてるんだ、賢二郎。ちょっと意外。そんなふうに眠りこけている賢二郎をどうしようか考えていると、その人がじっとわたしを見ていることに気が付く。目が合うと、「あ、すみません」と小さく笑った。

「恥ずかしがって率先して話そうとはしないですけど、基本的に彼女さんのことをいつも褒めるのでどんな人だろうねってみんなでよく言っていて」

 「観察するみたいになってすみません」と素直に頭を下げられた。褒める、ですか。ちょっとそう照れているとその人は「では、夜分にすみませんでした」と爽やかに去って行った。なんかちょっと、聞かないほうがよかった、かも。一人で照れながらどうにか賢二郎を引きずって部屋まで連れて行った。
 ベッドに上げるのはちょっと無理そうだ。どうしようかな。そんなふうに悩みつつとりあえず毛布を出しておく。お酒、飲まないわけじゃないけど別に飲むのが好きというわけではない。そんなふうに言っていたのを思い出す。飲んでも飲まなくてもどっちでも、というスタンスでいつも飲み会には参加しているとかなんとか。強い弱いも特記するほどのことがないほど平凡。そのあたりは自分でコントロールできるタイプだから、眠りこけるまで酔っているのははじめて見たな。不運だったね。そう苦笑いをこぼしつつ、髪に少しだけ触れた。
 明日は今週末に当直に入っているから休みだという。よかったね。そう頭を撫でていたらぱちっと目が開いた。でも顔は赤いしむにゃむにゃしている。酔いが醒めたわけではなさそうだ。「先輩だっていう男の人が送ってくれたよ」と声をかけたけど、ぼうっとわたしを見つめるだけで何も言わない。これはだめだ。苦笑い。賢二郎、酔ってダウンするとこうなるんだ。また新しい発見だった。
 申し訳ないのだけど、わたしは明日普通に出勤だ。そろそろ寝ますよ。そう賢二郎に声をかけると「さん」と呼ばれた。さん。久しぶりにされた呼び方にちょっとだけどきっとした。

「てーぴんぐの……」
「え? テーピング?」
「よび、ありますか……」

 がくん。まさにそんな感じでまた眠ってしまった。きょとんとしたまま賢二郎を見つめてしまう。さん、テーピングの、予備ありますか。そのとても聞き馴染みがある懐かしい言葉に、顔が熱くなってしまった。夢に見るほど、それ、印象深い台詞だったのかな。もしかして声かけるの緊張してた、とか、だったりするのかな。マネージャーに備品があるかを確認するだけでしょ。別にそんなの、なんてことはない台詞、なのに。なんで夢に見てるの。そう膝を抱えてしまった。
 紫と白。懐かしい色を思い出して胸がきゅうっとなる。好きだったよ、あのユニフォームを着ている白布が。憧れを追いかけてあの門をくぐってきた白布が好きだったよ。憧れの人にトスを上げる必死な白布の指先が好きだったよ。だから、今、必死に頑張っている賢二郎が、大好きだよ。全部ひっくるめて。どれくらい伝わっているかな。前までは不安だったそれがなぜだか不安じゃないよ。きっと、たくさん、伝えてくれているからだね。なぜだか締め付けられる胸に涙がこぼれた。でも、顔は笑っていた。


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