「あの、本当にいいんですか?」

 二月十九日、日曜日。賢二郎が心配そうに本日五度目の質問をしてきた。いいって何回も言ってるでしょ。そう笑って返しているのに「いや、でも」となかなか納得しない。頑固め。そう笑ったら「いや、さんがですよね」と照れつつため息をついた。
 今日はわたしの引っ越し作業に朝から追われている。業者に頼んで引っ越し先に荷物を移動してもらって、さっきから荷ほどきを続けている。そんなに物はない、と思っていたけど想像以上に大変で。賢二郎も賢二郎で物をどかしたり家具を配置にあれやこれやと頭を使い続けている。
 一週間前の土曜日、賢二郎はド緊張といった様子でわたしの実家に来た。家族には事前に連れてくることを言ってあったから最初から最後までスムーズに挨拶は終わったし、姉の旦那さんが挨拶に来たときは怪訝そうにしていた父が賢二郎をいたく気に入っていたので大成功だっただろうに。賢二郎は不安でいっぱいだったらしい。まあ、その理由のほとんどが姉のせいだろうけど。姉は宣言通り賢二郎のことを、軽くだったけど殴った。いや、殴ったというか叩いたというか。母が慌てて「こら、初対面の人に!」と姉を叱ったけど、けろっとした姉が「いや、そういう約束だから」と言うものだから。両親は大きなハテナを飛ばしていたし賢二郎は死にそうな顔をしていた。わたしと姉だけがけらけら笑っていたのでちょっと可哀想だったかも。そんなことを思い出してまた笑ってしまった。
 ちなみにわたしが白布家に挨拶に行ったときも賢二郎は終始緊張していた。わたしも多少緊張していたけど、なぜだかわたしの家に来たときと同じくらい緊張していたから、なんだか開き直ってしまって。元々仲良くしてくれていた末っ子くんと談笑したり、お兄さんとお嫁さんにしこたま謝られたり、三男くんに賢二郎のことをいろいろ聞かれたり。ご両親もにこにこと話をしてくれるとても良い人たちだった。愛されて育ったんだね、賢二郎。こっそりそう言ったら恥ずかしそうにしていたっけ。
 賢二郎が心配そうにしているのにはちゃんと理由がある。引っ越し先だ。そのことでずっとわたしに「いいんですか?」と言い続けているのだ。いいって言ってるのに。

「お互いの勤務先のちょうど間にいいところありましたよ?」
「いいの」
「ここ狭いですし」
「いいの」
「でも」
「い、い、の」

 賢二郎が住んでいる部屋にそのままわたしが転がり込んだ形だ。それがどうやら不服らしい。賢二郎は一人で時間があるときに物件を見に行っていたらしく、わたしに候補をいくつか見せてくれたのだ。それを見てわたしはきょとんとしたし、そんなわたしの様子に賢二郎もきょとんとしていた。でも元からわたしはこうするつもりだったから、お金がかからないならそれで良くない? そう言ったら賢二郎は「まあ、それは、そうなんですけど」となんとなく遠慮しているように言ったから。是が非でもここに住む、とわたしが言い張って今日に至る。
 それにちょうど間、って。一駅二駅の話だ。元々賢二郎の家からわたしの会社は近くだった。歩いて行ける距離、というのはちょっとキツいかもしれないけど。電車でたった三駅だ。通勤に支障はない。何より、よく呼び出しをされたりへとへとになって帰ってくる賢二郎が勤務している病院が歩いてすぐなのだから条件としては最高。引っ越す必要なんてない。

「迷惑?」
「そうじゃないですって。俺ばかり楽をしている気がするんですけどっていう話で、」
「それでいいよ」
「え」
「わたしがそうしたいからそれでいいの」

 はい、と賢二郎に冊子を渡す。新しく買ったチェストの組み立て説明書だ。わたしは正直こういうのが得意じゃないから全面的に賢二郎にお願いしている。説明書を見なくても組み立てられるくらいサクサクやってくれるから助かっている。微妙な表情のまま「まあ、はい、分かりました」と渋々呟いて説明書を受け取ってくれた。
 ついでに、びっくりするくらい小さかったテレビを買い換えた。サプライズで搬入したら賢二郎はとんでもなく驚いていたしあわあわしていた。ちなみに勝手に選んだわけじゃない。今月頭に電子レンジが壊れたのだけど、それを見に行ったときついでにテレビ売り場に連れて行ったのだ。「これくらいなら買い換えたいかな、とは思いますね」と賢二郎が言ったものを買った。ついでにレコーダーも。そのまたついでにタブレットの画面をテレビに映せるチューナーも。機械の設定はそこそこできるので問答無用で設置したら、賢二郎はなんだか複雑そうな顔をしていた。お金を全部わたしが出したことが不満なのだろう。そう分かったけど知らんふりをしておいた。
 映るか試そうよ、と賢二郎に手を伸ばした。チェストをほぼ組み立て終わった賢二郎が「はい」とわたしにタブレットを渡してきた。このタブレットは賢二郎のお兄さんが買ったものだ。古いものは三男にあげたらしい。良いお兄さんだね、と素直に言ったらとても気まずそうに「まあ、あの、そうですね」と目を泳がせた。不思議に思っていたのだけど、後々クリスマスのあの出来事があったからそのお礼に、という名目だったらしい。なるほどね。道理で気まずそうにしていたわけだ。思い出したくないもんね、お互い。そんなふうに笑ってしまったっけ。
 無事にミラーリングができたのでタブレットを机の上に置く。振り向くと賢二郎は開けてあったスペースにきっちりチェストを入れてくれていた。きっちり測って買ったからぴったりだ。どうにもこういうものがぴったりはまらないとムズムズするのだという。わたしはそういうのが苦手だから全部お任せしてしまったけど、どうやら賢二郎の思った通りの配置に収められたらしい。満足そうな横顔をしていた。
 わたしは家電の空き箱を、賢二郎はチェストのゴミを片付けていると、インターホンが鳴った。賢二郎がすぐに反応してすたすたと玄関に向かう。チェーンロックをかけたままドアを開けると「クール便です」と聞こえた。不思議そうにしながら賢二郎が一旦ドアを閉めて、チェーンロックを外す。それ、最初から外していいんじゃないの、って前に言ったらとんでもない勢いで怒られた。まずは必ず外さずに相手を確認してください、と強い口調で言われ、最終的に「返事は」と言われたのでびっくりしたまま「はい」と答えたっけ。心配性。ちょっと過保護じゃないかな。
 荷物を受け取った賢二郎が戻ってくる。何か頼んでいたのかと思ったけど、どうやら違うようだ。賢二郎も不思議そうにそれを見ているけど、どうやら宛先は間違っていないらしい。なんだろうね。そう声をかけた瞬間「あ」と賢二郎が目を丸くした。

「これ、天童さんからですよ」
「天童? なんだろう?」
「というかなんで住所知ってるんだ、あの人……」
「わたしが教えた」
「何勝手に教えてるんですか……」

 机の上に箱を置く。パリから遙々やって来たそれを賢二郎が怪訝そうに「何を企んでるんだか」と言ったけど、中身の予想はついている。「まあまあ、開けてみようよ」とカッターを渡したら、賢二郎はそうっとテープを切り始めた。
 開けたそこにはきれいな緑色の包装紙が丁寧に詰め込まれていた。その真ん中に小さい真っ白な箱がちょこんと入っている。賢二郎が恐る恐るそれを取り出すと「軽いですね」と言った。天童がクール便で送ってくるものなんて一つしかないでしょ。そう言ったらようやく中身を察したらしい。さっきまでの怪訝そうな表情はどこへやら、と思うほどの手軽さで箱を簡単に開けた。

「わ、かわいい」
「これをあの人が作ったと思うと不思議ですね」

 きれいな緑色のハートのチョコが二つ、ころりと並んでいた。チョコじゃないみたいにきらきらしているそれはなんだか宝石のようで、じっと見つめてしまう。そんなわたしの様子に賢二郎が箱を渡してくる。どうぞ、という意味だろう。受け取ってじっと見ていると、その横で賢二郎が緑色の包装紙をかきわけている。そうして一番下から何かを取り出した。二つ折りにされた一枚の紙。賢二郎が不思議そうにそれを開くと、眉間にしわを寄せて首を傾げた。

「何?」
「落書きですかね」

 見せてくれたその紙には、黒色のボールペンで小さく「#00A968」とだけ書かれていた。たぶん天童の字だ。ひょろっとしていて線が細い。本人は自分の字を「雑」と言っていたけど、わたしは結構味があっていいと思う。そんな会話を高校生のときにしたことを思い出した。
 分からないことがあると気持ちが悪い。賢二郎はそういう人だ。すぐさまスマホをポケットから出すと文字を打ち込み始めた。天童からのメモ書きを打ち込んでいるのだろう。脈絡のない並びだし、ネットで検索して分かるようなものなのだろうか。そんなふうに見守っていると、賢二郎がぽつりと「エメラルド」と呟いた。

「エメラルドグリーンのカラーコードですね」
「じゃあこれ、エメラルドをイメージして作ったんだね」
「なんでそんな唐突に……」
「五月の誕生石だからじゃない? 賢二郎の誕生日にかけてきたのかも」

 とりあえず。そう賢二郎の腕を掴んでぐいっと引き寄せる。チョコが入った箱をまた賢二郎に持ってもらってから、スマホで一枚。セルフィーで突然撮ったことに賢二郎はびっくりしたらしい。「なんですか急に」とわたしを見た。曖昧に返事をしつつスマホを操作して、送信完了。送る前に言うと賢二郎に止められるかもしれなかったから先回りしてやった。「天童に送ったの」と言ったら思った通り「了承を得てからですよ、そういうの」とため息をつかれた。
 スマホが震えた。わたしのじゃなくて賢二郎のが。画面を見た賢二郎が「天童さんなんですけど」とこちらにスマホを向けてくる。メッセージ通知。URLが送られてきている。なんだろうね。二人で首を傾げる。わたしが天童にお礼メッセージを送ったんだけどな。不思議に思いつつURLを開いた賢二郎の顔をじっと見ていると、「くっそ」と突然賢二郎が舌打ちをこぼした。え、何。怖いんだけど。そう笑って画面を覗く。

「エメラルドは浮気封じのお守り」
「あの人絶対からかってますよ。文句の一つくらい言っていいですか」
「浮気封じ」
さん、あの、何度も読まないでください」

 さすが天童、面白いことをしてくれる。笑っているわたしとは対照的に、賢二郎は若干苛立った顔をして「大体あれは浮気とかじゃ」とぼそぼそ言った。そうだね、あれは違うもんね。そう言っただけなのになぜだか青い顔をするから面白くて、ついついからかってしまった。
 ページを閉じようとする賢二郎からスマホを奪い取る。「ちょっと」と言われたけど奪い返そうとはしてこなかった。ページに続きがある。下のほうへスライドしていくと、石言葉や愛の象徴であることが書かれていた。ただのからかいだけじゃなかったみたい。そう笑ったら賢二郎はちょっと照れくさそうにしていた。
 食べちゃうのもったいないな。そう思ったけど食べないとチョコは完成しない。食べられないチョコほど可哀想なものはないのだ。そう思って賢二郎と二人で食べた。ちょっとほろ苦いビターチョコは、きっと賢二郎の好みに合わせたのだろう。かすかに香る柑橘系の香りはわたしの好みに合わせてくれたのだと思う。恐らく世界にたった二つしかないチョコは溶け込んでくるように、とても、深い味がした。


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