しんどい。ぽつりと呟いた言葉にビクッと、白布改め賢二郎が反応したのがよく分かった。ちゃぷ、とお湯が揺れる音。お湯の温度を下げてほしいなって思うことがある。わたしが家で設定している温度より二度くらい熱いお湯にはもう慣れたつもりなのだけど、たまに逆上せてしまうから。
 うとうとしているわたしの頬をつつきながら「ここで寝ないでください」と困ったように言われる。眠い。さっき見たとき時計の針は午前四時半を差していた。いくらなんでも時間が時間だ。うとうとして当たり前だと思う。
 諸々、あれやこれやが終わってから、ぐったりしているわたしに申し訳なさ全開でお風呂を溜めてくれた。「起きられますか」と聞かれて、小さく首を横に振ったらとんでもなく罪悪感たっぷりに謝られたっけ。わがままでもなんでもなく、本当に腰が抜けたような状態だった。動かさなくても分かるくらい足に力が入らなかった。とてもじゃないけどお風呂なんか入れないからこのままでいい。そういう意味で首を横に振ったのに、ぽけっとしている間にお風呂に連れて行かれて、今に至る。
 眠い。何度目か分からないそれを内心で呟いたとき「あ」と賢二郎が小さく言った。何かと思って言葉を待っていると「うわ、すみません」とわなわな震えて言うのだけどよく意味が分からない。不思議に思いながら賢二郎の顔が向いている方向を見る。まあ普通くらいの胸、についた歯形とキスマーク。わたしからは見にくいけどたぶん首元にも同じ物があると思う。それ以外は特に何もなかった。何を見て言っているんだろうと一瞬だけ考えたけど、すぐ分かった。

「……言っとくけど、これ、別に珍しいものじゃないよ」
「えっ、そうなんですか」
「よく時間差で出てくるの。今まですぐ服着てたし、見たことなかったっけ」
「……ないです。すみません」

 いたたまれない、といった様子だ。キスマークはすぐ赤くなるし見たことがあるだろう。でも、歯形のほうは噛まれてすぐは軽い跡にしか見えない。体質もあるのかもしれないけど、わたしは時間差で赤い傷みたいに浮き上がってくるのだ。結構見た目がひどくなるから服で隠せない首とか夏場なら二の腕とか、そういうところはやめてね。笑いながら言ったら「というか噛むことをやめます」と深いため息をついて言った。自己嫌悪しているのだろう。

「噛んでいいよって言ったのわたしだし、気にしなくて良いよ」
「気にしますよ。ほぼ怪我じゃないですか」
「まあ、普通に痛いけどね」

 胸の下のほうだと下着のワイヤーが当たったら痛いし、首元だと襟がすれて痛い、内太腿だと椅子に座るたび痛い。一番困ったのは手首。普段腕時計をつけているほうを噛まれたときは何をしても痛かったし、隠すために湿布を貼ったせいで剥がすときも痛かった。痛いって言っても、なんとなく痛い、くらいのものだけれど。あとは、と指を折って例を挙げていくのを、どんどん顔を俯かせて賢二郎は聞いている。反省している。それがよく分かる様子だった。

「でも、痛いほうが嬉しいよ」

 何をされるにも、痛いくらいのほうが、苦しいくらいのほうが。笑ってそう言ったらとんでもなく大きなため息をつかれた。心外。そんなふうに拗ねていると、ほんの少しだけお腹をつねられる。なんでよ。今まで言わなかったことをこれ以上ないくらい、素直に言ったつもりだったのに。そんなふうに手をつねり返してやった。

「そういうこと、言わないでください」
「言ってほしいんじゃなかったの」
「言ってほしいですけど、言わないでください」
「難しいよ、それ」

 たまにそういう、どうしようもないこと言うの、結構好きだよ。わたしの言葉に賢二郎は視線をこちらに向ける。それからぼそりと「物好きですね」と呟かれた。そっちもね。そう言い返してから、二人で笑った。
 まだなんとなく体がふにゃふにゃしているわたしを見かねて、体を拭いて服を着てベッドに戻るまで、全部やってくれた。もう外がちょっとだけ明るい。こんな時間まで何やってるんだか。布団をかけられたらすぐまたうとうとしてきて、一瞬で眠りに落ちてしまった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 目が覚めたのは午前十時ころ。先に起きていた賢二郎がキッチンのほうで話している声が聞こえた。目を擦りながら顔を上げると、スマホを耳に当てて話している賢二郎の背中が見えた。誰と電話してるんだろう。ぼんやりそう思ったけど、小声で話しているから会話の内容は聞こえない。まだ体がだるいから起き上がる気にもなれなくて、そのまままたぼすんっと枕に顔を埋める。
 だるい、けど、水が飲みたい。やっぱり起き上がるしかないか。そう思ったけど、手を伸ばせば届く位置にあるテーブルにペットボトルの水が置かれていた。たぶん賢二郎の分だろうけど、いいか。飲んじゃえ。そう思って手を伸ばしてペットボトルを握る。のそのそと気怠さを我慢して体を起こしてからふたを開けた。
 ごくり、と一口飲んだとき、深いため息が聞こえてきた。思わず視線を向けるとちょうど振り返った賢二郎と目が合う。「あ、おはようございます」とほっとした顔をした。たぶん死んだように寝ていたから心配してくれていたのだろう。「おはよう」と若干かすれている声で返したら「体大丈夫ですか?」と近付いてきた。わたしの前にしゃがむと顔を覗き込んでくる。素直に「あちこち痛い」と答えたら、申し訳なさそうにされる。それがとんでもなく愛しかったから抱きしめてやった。

「あの、本当に申し訳ないんですけど」
「うん?」
「……呼び出しが、かかりましたので、いってきます」

 「すみません」と消え入りそうなくらい小さな声で言ってから、きゅっと抱きしめ返してくれた。なんで謝るの。変なの。たまらず笑ってしまうとまた謝られた。
 だから、痛いほうが嬉しいんだよ。そう言ったら全くよく分からん、というような反応をされた。困惑している。それが面白くてくすくす笑ってしまう。下着のワイヤーに当たって痛いたび、襟がすれて痛いたび、椅子に座って痛いたび、思い出せるでしょ。背中を撫でながらそう言ったら少し沈黙したあと、小さな声で「物好きですね」と言われた。それ、お風呂のときも言ってたけど、お互い様だよ。余計に笑ってしまった。
 とにかくこんなことをしている場合じゃない。さっさと準備。そうぱっと腕をほどいたら、とても複雑そうな顔をされた。わたしよりかなり先に起きていたらしい賢二郎はもういつでも出られる様子だ。「何時まで?」と聞くと「夕方まで来てほしいとのことです」と言った。頼られてるんだね。なぜだかわたしが誇らしかった。

「……ちょっとくらい寂しそうにしてほしいと思うところもありますけど」
「そうなの?」
「そんなふうに送り出してもらえると、正直、とてもやる気が出ます」
「ならよかった。ほら、早く早く」

 立ち上がろうとしたら「無理しないでください、いいです、行きますから」と慌てて座らされた。心配性。大丈夫なのに。笑いつつベッドに座ったまま「いってらっしゃい」と言ったら、また複雑そうな顔をされた。「あの、やっぱりちょっとくらい」と言われたけど、絶対言ってやらなかった。


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