白布の家についてすぐ、白布は玄関でわたしに何かを渡してきた。「これ」と気まずそうに言ってわたしの手の上に置かれたのは、合鍵。わたしが白布の家から荷物を引き上げた日に、郵便受けに入れていったものだった。きゅっと握って「うん」と俯いたら、白布がそっと抱きしめてくれた。甘やかされている。結構、嬉しかった。
 そういえば三日間ほとんど寝ていないんだったね。白布に「とりあえず、ほら、ベッド」と声をかけたらなぜだかびっくりしたような顔をした。白布はわたしの顔をじっと見たまま「え、あの、いいんですか」ととんでもなく衝撃を受けている様子をしているから意味が分からなくて。ちょっと怪訝に思って顔を見ていると、白布がするりとわたしの背中を撫でる。なにその手つき。余計に怪訝に思ってからようやく意味が分かった。思いっきり頭を叩いてやりながら「すけべ、意味が違う」と言ったら、「ですよね」と少し残念そうにしていた。馬鹿じゃないの。いや、まあ、わたしの言い方も悪かったけど。
 白布に「早く寝る準備。わたしのことはいいから」と言うと、どうやらお風呂には入りたいらしい。そそくさとお風呂に向かった。それで良し。一人で満足しつつ白布の部屋を改めて見ると、ちょっと散らかっている気がした。珍しい。それなりにいつも部屋はきれいにしているのに。キッチンも調味料とか袋がそのまま置かれているし、洗い物も終わっていない。木曜日、金曜日と激務だったと瀬見が言っていた。片付けをする暇もなかったのだろう。服の袖をまくって洗い物から片付けることにした。
 一通りキッチンをきれいにし終わった頃、白布がお風呂から上がってきた。わたしの姿を見るなり「いいですよそんなの」と焦った様子で近付いてくるものだから、じろりと睨む。白布はビクッとしてから立ち止まった。「髪、乾かして」と言えばまたそそくさと脱衣所に戻っていった。ちょっと面白い。しばらくは使えるかも。そんなふうにご機嫌に鼻歌まじりに片付けを進めていく。
 散らかった本が雪崩を起こしている。大体どこに何を入れているかは把握しているから、覚えている分は本棚に入れていく。分からないものだけきれいに積んで本棚の横に置いておく。布団もぐしゃぐしゃになっているので掛け布団をどかしてからよれているシーツを伸ばす。よっぽど忙しかったんだな。こんなに散らかっているの、見たことあったかな。そんなふうに思いつつ掛け布団をきれいにベッドに戻した。服も適当に放り投げられているものはあとで洗濯しておこう。とりあえず一ヶ所にまとめておいた。
 白布が髪を乾かし終わって戻ってきた。わたしに「歯は磨きました」と宣言して、恐る恐るわたしに近付いてくる。そんなに怖がらなくても。笑っていると「部屋、あの、ありがとうございます」と恥ずかしそうに呟く。

「忙しかったんだね。こんなに散らかってるの見たことなかったかも」
「いや、まあ忙しかったのはそうですけど」
「けど?」
さんに汚い部屋を見られるのが嫌できれいにしていただけで、普通はこんな感じです」
「……見栄っ張り」
「見栄くらい張りますよ。好きな人に見られたくないじゃないですか」
「見栄張り続けるのも大変でしょ。気にしなくて良いよ」
「……まあ、はい、複雑ですけど。ありがとうございます」

 照れくさそうに言う白布の腕を引っ張って、ベッドに誘導する。「はい、寝て」と言えば白布はしぶしぶベッドに寝転んだ。不服そう。面白い。そうずっとにこにこしていると白布が「やっぱり怖い」と呟いたのが聞こえた。聞こえなかったふりをとりあえずはしてあげるけど。
 「電気消す?」と声をかけたら白布は「いいです」と言うので、ついているほうが有難いしつけておくことにした。洗濯機回したらこの時間は迷惑だし、とりあえず洗濯物だけ入れて明日の朝だな。さっき一ヶ所にまとめた洗濯物を持って脱衣所の洗濯機へ向かう。もうすでにさっきの服が入れられていたのでそれと一緒に放り込んでおいた。
 わたしもお風呂借りようかな。とりあえず化粧を落とさないと。幸いポーチの中に何かあったときのために小さい容器に入ったクレンジングが入れてあったはず。なかったらコンビニ行かなきゃな。そんなふうに部屋に戻って鞄を探る。思った通りクレンジングが入れてあった。準備が良い。前に白布と遠出をしたとき、うっかり終電を逃してビジネスホテルに泊まったことがある。そこのホテルは全くアメニティグッズが置いていなかったし、近くにコンビニもなかった。泣く泣く化粧をしたまま寝たっけ。それから小さいクレンジングを持ち歩くようになった。自分を褒めつつ脱衣所に戻って化粧を落とした。
 ああ、そうだ、服もない。服が入っているカラーボックスは勝手に開けて良いと言われているのでスウェットか何かを拝借することにする。物音を立てないようにそうっとカラーボックスを開けて、たまに借りるスウェットを取り出した。問題は下着か。上はつけなければいいとして、下がなあ。このまま同じ物というのもちょっと抵抗があるけど、まさか何もなしというわけにはいかないし。いろいろ悩んだ結果、夏場じゃないし同じ物で我慢することにした。自分の荷物を引き上げるとこんなふうに困るんだな。ちょっと後悔した。
 お風呂から上がって、つける化粧水がないことを思い出す。そうだ、何もないもんね。ついでに歯ブラシもない。脱衣所に置いてある物入れに新品が入っているのは知っている。わたしが前に買い足したものが中にあったのでそれを下ろすことにした。いろんなものを断念しつつ髪を乾かし、ようやく寝る準備ができたのは約一時間後だった。
 クローゼットの下に毛布が入れてあるのでそれを引っ張り出す。いつもならこのまま白布を起こさないように隣に入れてもらうけど、今日ばかりは絶対に起こしたくない。毛布があれば大丈夫だろうし床で寝ることにした。起きた白布に怒られることは必至だけど。まあ、明日のことは明日考えよう。そう電気を消して静かに床に寝転んだ、の、だけど。

「え、何してるんですか?」
「びっくりした、起きてたの?」
「起きてますよ。なんで床で寝るんですか?」
「いや、白布寝てると思ってたし……起こしたくないなって」

 白布は心底訳が分からん、と言いたげな顔をしてすぐにわたしから毛布を奪った。ぽいっとそれをその辺に投げると、立ち上がってわたしをぎゅっと抱きしめる。なんで寝てないの。静かだから寝たんだろうと思ってたのに。白布はそのままわたしを抱き上げると、わたしがびっくりしている間にベッドにそっと寝かせた。
 なんか、いつもより、ちょっと強引なような。ぎゅうっと痛いくらい強く抱きしめたまま白布が「おやすみなさい」と耳元で言う。ちょっと、痛い。今までこんなふうに痛いなんて思ったことないのに。どぎまぎしつつ「おやすみ」と返したら、余計に力が強くなった。さすがに「痛い」と指摘してしまう。白布は「つい」と小さな声で言って力を緩めてくれる。つい、って。なにそれ。ちょっと笑ってしまった。

「……最低なこと言って良いですか」
「言いたいならどうぞ」
「いつも穏やかなさんが、俺のことで感情を剥き出しにしたり、人前なのにあんなふうに声を荒げたりするのが」
「うん」
「とても、嬉しかったです」
「最低。人の気も知らないで」

 白布は「まあそうですよね」と苦笑いをこぼしつつ、すりすりとわたしの頭に顔を寄せた。「すみません」と眠そうな声で呟く。眠いんじゃん。早く寝たらいいのに。白布はもぞもぞと体の位置を少し下に移動させると、まっすぐわたしの顔を見る。ぽやっとした顔は明らかに眠たそうなもので今にも夢の中に落ちてしまいそうだ。寝なってば。そう笑いながら頭を撫でる。こうするとすぐ寝るから。白布は思った通り目を瞑り、かけて、ぐっとまた開いた。頑張るねえ。そう笑っているとゆっくり顔が近付いてきて、ちゅ、とちょっと触れるだけのキスをされる。白布はふにゃりと笑ってから、ついに眠りに落ちてしまった。
 寝顔で分かる。これは何をしても起きないやつだ。たまにいたずらをしても起きないくらい眠ることがあるのだけど、寝顔がこんなふうだからすぐ分かる。何が違うのか聞かれてもわたしも答えられないけど、分かるものは分かるのだ。とりあえず遠慮なく白布にぎゅっと抱きついておく。顔の位置をちょっと下げて白布のちょうど心臓のあたりにぐりぐりと顔を当てる。とく、とく、と聞こえる白布の心臓の音が好きだ。優しい音がしていて、寝かしつけてくれているように思えるから。あと白布の匂いも好き。シャンプーとか柔軟剤じゃないけどなんとなく良い匂いがする。落ち着く。あまりに落ち着きすぎたのか、ちょっと、涙が出た。ぽつりと「よかった」と言葉がもれてしまってから、わたしも目を瞑った。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 目が開いたとき、まだ部屋の中は暗かった、というかわたしは白布の胸元に顔を埋めているから暗くて当たり前か。そう思って顔を上げたら「あ」と白布の声が聞こえた。顔を布団から出して目を擦る。白布が「すみません、起こしましたか」となんとなく申し訳なさそうな声で言う。それに「ううん」と寝ぼけつつ返して「何時?」と聞いてみた。白布は「まだ夜の二時ですね」と苦笑いをこぼす。なんでそんな時間に起きちゃったんだろう。あんまりそんな時間に起きたことないんだけどな。そうじわじわと頭が覚醒してくると、理由が分かった。

「……この手は何?」
「いや、すみません」
「何?」
「……ちょっと、あの、はい」
「すけべ」
「すみません」

 思いっきり服の中に入った、わたしの腰を撫でている手。完全にそういう触り方をしているから目が覚めたのだ。それにしてもびっくりした。もしかして今までも寝てるときに触ってたんじゃ、と少し疑いの眼差しで見ると白布も意味が分かったらしい。「初犯です」と目をそらした。初犯ならまあ。そう渋々許すと白布はほっとした顔をしたけど、手を退けるつもりはないらしかった。図々しい犯人だ。現行犯なのに。そういう眼差しを向け続けると、白布は「いや、はい」としどろもどろ言う。その様子に気が付いてしまった。

「……なんで?」
「……いや、はい、まあ、普通じゃないですか」
「一緒に寝てただけでしょ?」
「前々から思ってたんですけどさん、男のことを分かってなさすぎてちょっと心配になるので、警戒心は持ってください」

 そうっと白布が体を起こした。ゆるやかな動きでわたしに覆い被さるとなんとなく申し訳なさそうな顔をする。仲直りしたばっかりなのに、結構、遠慮なしだね。ほんの少し照れてしまった自分がいて、どんな顔をすれば良いかよく分からない。

「……白布って意外と遠慮ないよね」
「すみません」
「遠慮されるより、いいけど」

 「ん」と仕方なく腕を伸ばす。白布は少し安心したような顔をしてぎゅっと抱きしめてくれた。そのまま唇が重なって、くすぐるように髪を撫でられる。それ、結構好き。言ったことないけど。唇が離れると白布はそうっと手を伸ばしてわたしの体に触った。指先で形をなぞるようにするそれも、結構好き。やっぱり言ったことはないけど。そのまま優しく手の平でお腹に触るのも好き。腰を撫でるのも好き。胸に触るのも好き。白布がすることは大抵好きだよ。どれもこれも、言ったことはないのだけど。
 こうしてほしいとか、言ったことない。でも今日なら言ってもわがままにならないんじゃないかって思った。いつも言うのが恥ずかしいし、わがままだなって思われたくないから言わないけど。わたしにはサイズが大きいスウェットの白布がめくろうとしたときに、「ねえ」とちょっと、変な声で呼びかけてしまった。白布は不思議そうにしながら「はい?」と手を止めた。

「あのね」
「はい」
「……って、呼んで、ほしい」
「……」
「嫌ならいいよ、忘れて」


 自分でもびっくりするくらい、ぴくりと体が反応した。そんなわたしをよそに、白布はなんだか小さく首を傾げた。少し考えてから「さんで、とりあえず慣れるまではいいですか」と恥ずかしそうに言う。そんなあっさり呼んでくれると思わなかった。呼びづらいのかなって思って言わなかったこともあるだろうけど、はじめて呼ばれた。思わずきゅんとしていると白布はわたしをじっと見て「さん」と呼んで小さく笑った。

「と、いうことは、なんですけど」
「…………け、けんじろう」
「聞こえなかったです」
「う、嘘吐き」
さん」
「……賢二郎」

 なんかちょっと違和感。賢二郎くん、とかのほうがいい? ぼそぼそ言ったら「お好きなほうでどうぞ」と満足げに笑われた。賢二郎くん、だとお兄さんのお嫁さんと被ってしまう。なんとなく嫌だったからやめておいた。お嫁さんは何も悪くない、の、だけど。今だけちょっと、ごめんなさい。会ったこともない人に謝ってしまった。

「俺も一つ、お願い事をしていいですか」
「この状況で?」
「それを言われると苦しいんですけど」

 そろ~っと目をそらされた。それからちらりとわたしの顔を見る。声には出さないけど、いいですか、と確認を取っている顔だった。仕方ない。わたしは優しいから許可してあげなくはない。「どうぞ」と言いつつ若干めくられたままのスウェットを直す。まあ、問答無用でめくられたけど。

「何かあったときは、まず俺に言ってください」
「何か?」
「瀬見さんや他の人じゃなくて俺に言ってください」

 数秒の間。ぽかん、とまぬけに固まっているわたしに、恥ずかしそうな顔で「約束してください」と念押ししてくる。それから、もう、近所迷惑を覚悟で大笑いしてしまった。なにそれ、ちょっと、どれだけ根に持ってるの。どれだけ瀬見のこと目の敵にしてるの、それ。
 大笑いするわたしに「真剣な話なんですけど」と不服そうに頬に手を当ててきた。そうは言われても笑いが止まらない。よっぽどあれは賢二郎にとって腹立たしい光景だったらしい。反省はしているけど、でも、それにしても。この状況で言うこと? やきもちだ。やきもち妬いてるんだ! 大笑いしながらそう茶化してしまうと、ムッとした顔をした。
 かわいい。かわいいね、白布くん。そんなふうに頭を撫でてやる。「怒りますよ」と赤い顔で言うから余計にかわいくて、おかしくておかしくてたまらなかった。怒りんぼだもんね、白布くん。そんなかわいい白布くんは、ついに涙まで出てきたわたしに「本当に怒りました」と言って、強引にキスをした。


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