「賢二郎、二度目はないからね~ん」
「俺も正直もう勘弁だからな。マジで」
「二人とも仲良くな」
「すみません。ありがとうございました」
「アッ、そうだ賢二郎!」
「なんですか」
「あんまり強く噛んじゃだめだよ? 傷になっちゃうから」
「その一連の流れ、本当に忘れてもらえませんか。ここの食事代は出すんで」
「ちょっと無理」

 白布が心底恥ずかしそうに「本当、何でもするんで。これ以上茶化さないでください」と珍しくしおらしいお願いをしている。川西は全力でからかう気満々で「独占欲強いタイプだったとはな」と少し離れたところから笑っている。白布は「マジで忘れろ」と言いつつ本当に全員分の食事代を一人で払っていた。
 そんな様子を、わたしは寝たふりをしてこっそり聞いている。白布におぶられたまま店を出ると、瀬見が「大丈夫か? 荷物くらい持つぞ?」と声をかけている。白布は「いいです」と言ってからわたしを背負い直して「じゃあ、あの、いろいろすみませんでした。お疲れ様です」と軽く頭を下げる。みんなが「起きたらにもよろしくな」とにこやかに言ってから「もう泣かすなよ」と白布を笑った。白布はそれにもう一度頭を下げてから、くるりと方向転換する。たぶんタクシーを拾いに行くのだろう。このままじゃ電車乗れないだろうし。わたしが起きれば話は別だけど。

さん、このまま俺の家でいいですか」
「……」
「都合が悪ければさんの家に行きますけど、どっちがいいですか」
「……」
「降りなくていいいのでどっちが良いかだけ教えてください」
「…………白布の家が良い」
「分かりました」

 起きてるの、気付いてたんじゃん。降りてって言えば良いのに。重たいだろうに。そう分かるけど自分から降りると言う気はなかった。
 白布のコートからまだほんの少しだけ甘い匂いがする。白布が苦手な香水の匂い。わたしが鼻をすんと鳴らしたからなのか、白布は「今度クリーニングに出します」と唐突に言った。聞いてもいないのに、この匂いが取れないからなかなかコートが着られなくてしばらくクローゼットに入れていたとかなんとか話す。馬鹿だね、匂いが取れないのにクローゼットに入れっぱなしにしてどうするの。他の服にも匂い移っちゃうでしょ。でも、そんなのもういいよ。

「あ、さん、俺の家だと何もないですけど、いいんですか。化粧品とかいろいろ……持ち帰りました、よね?」
「……」
「コンビニ寄りますか? それかさんの家にしますか?」
「白布以外いらないからいい」
「…………そ、そう、ですか」

 なに照れてんの。そう軽く首をぐっと絞めたら「絞まってます、首絞まってますって」と笑いながら言った。仕方なく力を緩めてまた寝たふりをしてやる。白布はわたしを背負い直してからまたゆっくり歩いた。なんでされるがままなの。怒れば良いのに。そう思ったらなんでかまたちょっと泣きそうになった。
 駅の近くまで来たらしい。ちょっと騒がしい人の話し声やいろんな音が聞こえている。まあまあな時間だし、わたしは酔い潰れて介抱されている女、というふうに見られていることだろう。白布はそれを介抱している可哀想な男って感じで。間違ってはいない。ムカつくけど。
 タクシー乗り場についたらしいけど、どうやらちょうど出払っていたらしい。白布は立ち止まったまましばらく動かなくなった。そのうちタクシーがやってくるだろうから呼ぶ様子はない。まあ呼ぼうにも背中にわたしを背負って、わたしと自分の分の荷物も持っているのだから物理的にスマホを触れないはずだ。そうは分かっているけど、やっぱり降りてやるつもりはなかった。

さん、もっと時期を見て提案しようと思っていたんですけど」
「……」
「一緒に暮らしませんか」
「……」
「俺はまだ研修医なので、そんなに給料も良くないし時間も自由がほとんどないですけど、このまま順調に年数を重ねたら給料は上がっても時間は余計に拘束されていきます」
「……」
「俺はあの、この通り察しが悪いので怒らせることもあると思います」
「……」
「正直、料理とか掃除とかが下手なんで、負担になると思って言い出せなかったのもあるんですけど」
「……」
「やっぱり顔が見られないことが何よりしんどいなって、今回身にしみて分かりました」

 白布はそう言って、少し黙る。体が熱くなってる。コート越しにも分かるくらい白布の背中が熱くて、ちょっと降ろしてほしいくらい。でも降りてやらない。白布を離してやるつもりはなかった。
 鼻をすする。白布は黙ったままたぶん前を見ていて、わたしの言葉を待っているようだった。冷たい冬風に白布の髪が揺れると、わたしの肌をくすぐるようにぶつかる。白布の髪が好きだよ。柔らかいのに梅雨時期の湿気にも負けないくらいまっすぐで、白布みたいだなっていつも思う。何をしても、何を言われても、何があっても、曲がらないところが、好きだよ。
 喋らないわたしに追撃のつもりなのか、白布は「なので、ご家族に挨拶に行きたいんですけど」と言った。そういえば会ったことないよね。姉は白布のことを知っているけど会ったことはまだないし、両親は付き合っている人がいるというのは知っているようだけどもちろん白布のことは知らない。わたしも白布の一番下の弟くんしか会ったことがない。さっき、お兄さんの声は聞いたけど。
 あ、と思い出す。思わず顔を上げたわたしに白布が「どうしました」と少し後ろを向いた。忘れてた。だめだ、白布、このままうちに来たら殴られるよ。わたしの言葉に白布が目を点にする。「え、なんでですか」と困惑気味に言う顔は、たぶん父親に殴られる、という意味に取っているらしく顔面蒼白だった。

「お姉ちゃんに彼氏に浮気されたって言ったら、殴るって言ってた」
「……早急に誤解を解いてください。あの、それ、ご両親に言ったり、とか」
「どうだろう、分かんない」
「至急確認してください、お願いなので」

 白布がゆっくりわたしを降ろした。降りなくていいって言ったじゃん。そうちょっと睨んだら「本当、これだけはすみません」と頭を抱える。わたしの鞄からスマホを出すと「お願いします」と言った。何、なんでそんなに焦るの。別に説明したら分かってくれるよ。まあ、わたしと同じ遺伝子を持ってるからなかなか許さないかもしれないけど。そう言ったら「本当、今すぐにお願いします」と必死に言った。
 それからぽつぽつと、病院でわたしを見かけたときもとても焦った、と言う。出産に関する資料を持っていたから、妊娠したんじゃないかと思ったと。それを蒸し返されてムッとしてしまう。妊娠してないって分かってほっとしてたやつね。傷付いたんだけど。内心そう思っていると白布が頭を抱えたまま「挨拶もしてないのに子どもができたなんて、申し訳なさすぎてどうしようかと」と呟いた。その発言に、握りかけた拳を開く。言われてみれば、そっか、そういう安堵もあったね? わたしもあのときは冷静さを欠いていたんだな。口にはしなかったけどこっそり反省した。そんなふうに考えてくれてたんだ。ちょっと、嬉しかった。
 仕方なく姉に電話をかけてみる。夜なのにごめん、と思いつつ。割といつも夜更かししている姉がすぐに出てくれる。体のことを聞いてから本題に、と思っていたのだけど姉が「あ、月曜日の検査であいつすれ違ったらやっぱり殴るね!」ととてもタイムリーなことを口にした。笑いつつ「月曜日に殴るって」と白布に言ったら、姉が「え、一緒にいるの?」と不思議そうに言う。白布はわたしの隣で明らかに顔色が悪い。ちょっと可哀想な気もしたけど、まあ、これでオアイコで。そんなふうに思いながら状況説明をすると姉が大笑いして「なにそれ、え、信じて良いのそれ?」と言う。まあ、信じられる要素は多かったよ。姉はそう言ったわたしに優しく「そう」と言ってから、少し黙って「ならいっか」と笑った。白布が気にしていたので両親に話したかを聞くと「言うわけないじゃん。お父さんブチギレたら怖いもん」と笑いながら言った。よかったね、言ってないってさ。白布にそう言ったら心の底からほっとした顔をしていた。
 姉が白布に代わってほしいと言ったので白布にスマホを渡すと、直立不動で自己紹介をしてからしばらく「はい、はい、すみません」としか言わなくなった。面白い。白布のこんな姿あんまり見られないから貴重かも。白布はそのまま数分姉と話してからスマホをわたしに返してきた。何言われたんだろう。不思議に思いつつスマホを耳に当てて「そういうことで、ごめんね、心配かけて」と苦笑いをこぼしておく。姉は愉快そうに笑って「これで元気な子を産めるわ」と言ってから「今度会わせてね」と電話を切った。

「何言われたの?」
「……とりあえず、一発は殴るそうです」
「頑張ってね」

 白布は深いため息をついて「前途多難」と呟いた。なら一緒に住むのなしにする? そう言ったら顔を上げて「嫌です」と言う。それから「あの、それは、了承してくれたってことでいいんですよね?」とわたしの顔を覗き込む。さあ、どうだろうね。笑いながらそう言ったら白布はなんだか情けない顔をしていた。

「……俺の中で一番怖い女性、断トツ一位になったんですけど」
「お姉ちゃん?」
「いや、さんが」
「失礼な。こんなに優しいのに」

 スマホを鞄にしまいたくて手を伸ばした。鞄返して、という意味で。それなのに白布は当たり前のようにわたしの手を握ると「いや、怖かったですよ」と苦笑いをこぼす。それも失礼だし、手も違うし。いろいろ思うところはあったけどとりあえず指摘するのはやめておいた。スマホはコートのポケットに入れておくことにする。白布はわたしの手をぎゅっと握って、すりすりと指先で肌を撫でるように触った。手が冷たい。さっきまで背中が燃えるように熱かったのが嘘みたいだ。
 白布は思い出したように「着信拒否」と言った。ああ、そういえば。白布が「解除してください」と言うので仕方なく解除してあげた。トークアプリのブロックも解除するとほっと一息つく。結構堪えたらしい。わたしが笑っていると「笑い事じゃないです」と申し訳なさそうに呟いた。

「白布」
「はい」
「ごめんね」
「いや、さんが謝るところはないです。すみませんでした」
「白布」
「は、はい」
「好きだよ」
「…………俺も好きです」

 ちょうどタクシーが一台戻ってきた。二人で乗り込んで白布の家の住所を伝える。手は繋いだまま。バカップルだとか思われているかもしれない。でも、まあ、それでいっか。なんだかそんなふうに思えた。


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