飲み会開始から一時間が経過して、再び動きがあった。またしても動いた人影が、わたしの後ろにそっと座ったらしい気配を感じた。無視。わたしは知らんふりができるのだけど、天童たちはそうもいかない。特に五色は会話が突然ぎこちなくなった。ちらちらとわたしの後ろを気にしているからなんだか可哀想になってきた。
 五色の向こう側では瀬見と川西がわたしを見て、ぎゅっと目を瞑って手を合わせてきている。何卒、と言い出しそうな表情にため息がもれる。それ、人に言わせてどうするの。振り返ってやるつもりはなかった。
 天童が「ちゃん、ちょっとだけ、ね?」と苦笑いをして助け船を出した。横目で睨むと「いや、味方とかじゃなくてさ。話だけでも聞いてみたらどうかな~って」と目を泳がせる。大平と山形も話すのをやめてしまった。静まりかえった個室はとても居心地が悪い。そう、ゆっくり瞬きをしてから、一つ息をつく。振り返りはしなかったけど。

「何」
「あの、すみません。説明をさせてください」
「何の」
「……クリスマスの夜のことです」

 ちょっとほっとした声だった。白布はわたしの後ろに座ったまま、とても慎重に言葉を選びながら話していく。クリスマスの夜、わたしからの連絡を待っている間にお兄さんから連絡があったこと。喧嘩をしたお兄さんのお嫁さんを迎えにあの駅に行ったこと。ラブホテルの前でしゃがんでいるお嫁さんと合流しただけで中には入っていないこと。コートを貸したのはお嫁さんが薄着だったから仕方なくだったこと。腕を組んだのもお嫁さんが酔っ払っているのとそういう人だからということ。あのあとは迎えに来たお兄さんにお嫁さんを引き渡して、自分はわたしの家に行ったこと。
 話し終えた白布は「と、いうわけ、なんですけど」と締めくくった。それを聞いた大平が「なんだ、そういうことか」とほっとしている。山形も同様に。五色も「不運でしたね」と苦笑いを浮かべた。なんだか大団円みたいな雰囲気になってない? そう思っていると、白布が「あの、さん」とわたしに近付こうとした。

「〝口では何とでも言える〟んじゃなかった?」
「…………そ、れは、あの、すみません、冷静さをあのときは欠いていて」
「もしそれが本当だとしても、じゃあ、なんであんなものを白布が持ってるの?」

 白布が少し間を開けてから「あんなもの?」と不思議そうに言った。何のことかピンときていないらしい。そんな空間で「アッ」と声をもらしたのは瀬見。「忘れてた!」と言った瀬見に川西が「え、なんすか」と首を傾げる。

「口紅、あの人にちゃんと返した?」
「……………あっ、いや、あれは違います。俺も知らなくて」
「どういう状況になればポケットに口紅なんか入るの?」
「いや、本当に。あの人が歩きながら化粧を直しだして、たぶんそのときに間違えて入れたんだと、思います」
「じゃあ賢二郎くんと結婚しちゃう、って言われてたのはなんで?」
「本当に、それは本当に誤解です。あの人そういう冗談を言う人で、」
「〝口では何とでも言える〟んだから、信じるわけないでしょ」

 再びの沈黙。五色が「それは、あの、ちょっと」と白布から目をそらした。大平が「胸が痛い」と言いつつ同じように目をそらす。唯一の既婚者である大平はこの状況の見方がちょっと違うらしい。その隣で山形が「たしかに、ちょっと苦しい、な」と白布に苦笑いをこぼした。
 でも、本当は分かっている。白布は嘘を吐いていない。正直信じがたいシチュエーションだけど、嘘はないと分かるのだ。だから、これはただの八つ当たりだし、ただ素直に受け入れたくないだけの意地だ。へそを曲げてしまっているだけ。そう分かっているから素直に振り返ることができない。
 所詮その程度。そう言われたことが、何もかもをせき止めている。それだけがどうしても許せなかった。クリスマスの夜の出来事が誤解だったと分かったのは、素直に嬉しい。白布がそういうことをする人じゃないって信じていたから。でも、なんであんなこと言ったの。わたしのことを何も分かってないからでしょ。そんなふうに面倒な女になっているだけなのだ、今のわたしは。
 白布のほうから何か物音がした。どうやらスマホを出した音らしい。不思議そうにしている大平がじっと白布を見ているけど、わたしは振り返らない。白布が黙って何かをしている小さな音を聞いているだけ。しばらくしてから白布が「おい」と小さな声で言った。わたしに言ったんじゃないと声色で分かる。「変なこと喋ったら殴るからな」とまた小さな声で言ってから、すっ、とわたしの背後からスマホを渡してくる。受け取るつもりはない。知らんふりしていると「失礼します」と言って勝手にわたしの前に置いた。スピーカーにしてから白布はそっと元の位置に戻っていく。スマホを思わず見ると、画面に「兄貴」と表示されているのが見えた。

『え、これ聞こえてるのかな? こ、こんにちは~賢二郎の兄です!』
『その妻です~。この前、クリスマスの日は迷惑かけてごめんね。迎えに来てくれて助かりました』
『そういうわけなので、あの、賢二郎のことこれからもよろしくお願いしたいんですけど……』
『ねえ、これ聞こえてるのかな? 賢二郎くん?! 聞こえてる?!』
「聞こえてます。ところで、最近口紅なくしました?」
『えっ、なんで分かるの?! なくした!』
「俺のコートのポケットに入ってました。今度兄貴に渡しときます」
『うっそ、本当?! え、もしかして余計にややこしくしてるんじゃない?! ごめんね?!』
「兄貴に何か買わせるのでいいです。じゃあ、お疲れ様でした」
『アッちょっと待ってよ! 賢二郎の彼女と喋りた』

 問答無用で白布が通話を切った。スマホをそそくさと回収して「と、いう、ことなんですけど……」と気まずそうに言う。知らんふりしていると、天童が「ちゃん」と小さく笑って顔を覗き込んでくる。「俺は今ので信じたよ」と宥めるように言ってくるけど、そうじゃない。わたしが考えていることはわたしにしか分からないなんてことは当たり前だ。それでも、なんで分からないの、と駄々をこねてしまう。でも、今思っていることを口にすると、白布が苦手な感情で物を言う女になってしまう。面倒くさいと思われたくないけど、だからって素直に許せない。本当に面倒だな、わたしって。
 この状況で口を開いたのは意外にも五色だった。五色は「あの、思ってること、言っちゃえばいいんじゃないですか?」と心配そうにわたしの顔を覗き込む。五色はそういうタイプだ。わたしが黙りこくっていることが不思議でたまらないのだろう。わたしも言ってしまえばいいのにって思うよ。

「誤解させるような状況を作ったり、ひどいことを言ったりしたことは、本当にすみませんでした。でも、その、俺は……その、さんのことが、ちゃんと好きなので」
「よく言ったね賢二郎~」
「ちょっと黙っててください。だから、その、仲直りがしたい、ん、ですけど」
「……」
ちゃん、だめ?」
「…………所詮その程度って思ってるくせに」
「え」
「え?」
「え、何? こっちあんまり聞こえてないんだけど」

 瀬見の声。瀬見と川西がこっちに近付きつつ「え、何、だめだったのか?」と不安そうな声で言う。白布が困惑しながらわたしに「どうしました?」と言う。心配そうに五色がわたしの顔を覗き込んだ瞬間、ぽたりとテーブルに一粒落ちた。ギョッとした五色が「え、え、どうしたんですかっ」と慌て始める。ムカムカしてたまらない。わたし、こんな、我慢できない人間のつもり、なかった、のに。
 天童の前に置かれているグラスを掴んだ。「ん?!」と困惑する天童を無視してそれを飲むと、大平と山形が目を点にしているのが見えた。全部飲んでから天童の前にグラスをドンッと置く。お酒が入らなきゃやってられない。それくらい、とても、ムカついていた。あの一言が、わたしに刺さったまま、ずっとつっかえになっている。まるでわたしが白布のことをなんとも思っていないみたいな言い方に、とても、我慢できなかった。

「わたしはその程度にしか思っていない人の家に、仕事帰りに寄るほど元気じゃない」
「え」
「その程度にしか思っていない人と毎日連絡を取るほどまめじゃない」
さん、あの」
「その程度にしか思ってない人の部屋を掃除したり、服にアイロンをかけたり、足りない物を買い足したりするほど面倒見も良くない」
さん?」

 とても困惑した声だった。それにとてもムカついて仕方がなくて、はじめて振り返った。白布がビクッと震えて一歩引いたのが見えて余計にムカついた。白布を殴るとでも思ったらしい川西が五色を押しのけて間に入ろうとする。「俺も彼女を不安にさせる男はマジでクソだと思うんですけど、殴るのちょっと」と言いながら手を出してくる。無視。元から殴るつもりなんかない。怪我なんかしたら大変でしょ。内心でそう返しつつも川西の腕を振り払った。

「その程度にしか思っていない人とキスもしないし、抱かれもしないし」
「え、あ、さん?」
「その程度にしか思っていない人に体を噛まれたり」
「えっ?! ちょっと、待っ」
「いろんなところに跡を残されたり」
「待ってください、本当に、さん」
「せっかくお風呂に入ったのにまたぐちゃぐちゃにされたり」
さん!」

 顔を真っ赤にした白布が手でわたしの口を塞いだ。「そういうこと、あの、人前で言わなくでください」と死にそうな声で言うから、ムカついて。手を噛んでやったら手が退いた。白布もいつもこうやってわたしを噛んでるんだからね。しかももっと柔らかい首元とか胸とか内太腿とか。そう言ったら「あの、いや、すみません……」と手を押さえつつ呟いた。天童が「賢二郎、結構情熱的だね?」と白布の顔を覗き込む。顔が赤い白布が天童の視線から逃れつつ、憎らしそうにわたしを見た。

「恥ずかしいし痛いときもあるし口では嫌って言うけど、本当に拒否したことなんかない」
「はい、あの、いや、すみません、分かって、ます、はい」
「そういうの全部、されたくない」
「は、はい」
「でも、白布だから全部、許してたのに」

 ぐず、と鼻をすする。全部ぶちまけてしまった。もう絶対に面倒な女だって思われてる。ぼろぼろ流れていく涙を服の袖で拭って、白布を睨む。分かってない。白布は何も分かってない。

「なんで、所詮その程度とか、言ったの」
「……あ、れは」
「白布が他の女の人を好きなのかもって思ったけど、それでもいいから、離れたくなくて、黙っていようって思ったくらい、好きなのに、なんで分からないの」

 子どもみたいに泣いてしまった。アルコールのせいもあるけど、でも、ずっと我慢してたものが抑えられなくなったからというのが大きい。ずっとそれが悲しかった。ずっとそれが寂しかった。わたしはこんなにもずっと白布のことが好きなのに。ずっとずっと白布のことで頭がいっぱいなのに。なんであんなこと言ったの。
 そう泣きわめくわたしを、白布が目を丸くして見ていた。子どもみたいに泣いてみっともないとか思ってるんでしょ。もういい、勝手に思っといて、もう知らない。ぐずぐず泣きながらそう言ったわたしに白布がそっと手を伸ばしてきた。今は触らないで。そんなふうに思いっきり白布の腹を叩いた。「うぐ」と情けない声を上げて蹲ったけど無視。結局手が出た。ごめんね。そうは思ったけどやっぱりムカついたから天童にくっついてやった。
 それからしばらくの沈黙。沈黙を破ったのは川西の「白布くんひど~い……」という声。続けて天童もわたしをきゅっと抱きしめて「ひど~い」と笑い、他のみんなも同様に笑った。

「……言っておきますけど」
「なになに、噛み癖持ちの賢二郎くん」
「俺だって、その程度にしか思っていない人と話すために徹夜で待ったりしません」
「……え」
「こんなふうに辱めを受けながらも縋ったりしません」

 瀬見が苦笑いをこぼした。わたしに「三日前、俺と会ったあとにのことを朝まで待ってたんだと」と言った。三日前。病院で白布に会った日だ。話がしたい、家に行くから、と言った日。わたしは無視して実家に帰ったから家には帰っていない。知らなかった。瀬見は続けて「一昨日、昨日とも激務でこの三日間ほぼ寝てないらしいぞ」と苦笑いをこぼす。

「俺だってずっとさんのこと考えてますよ。当たり前じゃないですか」

 白布は「とりあえず離れてください」と言って天童とわたしを引き剥がす。天童がわたしを離すと「これ、あれだね?」と川西の顔を見た。川西は遠い目をしながらへらりと笑って「すげー規模のでかい痴話喧嘩」と言ってそそくさと自分の席に戻った。痴話喧嘩。川西の言葉を頭の中でリピートしていると、ぎゅっと白布に抱きしめられた。


top / 21.リボンで縛って