姉に付き添った病院の帰り、そのまま二人で実家に帰った。明日から仕事始めだというのに帰ってきたわたしに両親は驚いていたけど、「ちょっと元気になった?」と困ったように笑うから、ああやっぱり心配かけていたんだな、と再確認した。元気だよ。明日から仕事頑張らなくちゃね。そう笑って返したらほっとしてくれた。
 お風呂からあがって髪を乾かしていると、姉が脱衣所を覗き込んできた。さっきお風呂に入っただろうにどうしたんだろう。不思議に思ってドライヤーのスイッチを切って「何?」と首を傾げる。姉は「今日ありがとね」と言ってから、少しわたしに顔を近付けた。それからぼそりと「あんた、結婚まだしないの?」と聞いてくる。その様子からして恐らく父親か母親、どちらかからの探りが入っているのだと察する。それに少し笑いながら「全然」と答えると、姉はなんだか気まずそうな顔をする。

「もしかしてだけど、後輩彼氏くんとなんかあった?」

 びっくりした。なんでそんなこと急に言い出したのだろう。姉には白布とのことを一切話していないし、ここ最近の出来事も話していない。ちょっと動揺しているわたしを姉が笑って「今日、病院の廊下ですれ違ったの」と言った。姉はわたしが片思いをしているときに白布の写真を一度だけ見たことがある。それ以降は見せていないはずなのに、よく覚えているなあ。感心しつつも疑問に思う。どうしてそこから何かあったというところに辿り着いたんだろうか。わたしが聞く前に姉が「あんた、一言も後輩くんが働いてる病院だって言わなかったじゃん」と笑う。普通は言うでしょ。そう言っているのだと言葉にはなかったけど分かった。確かにね。苦笑いをこぼすと、姉は「何? 何があったの? お姉ちゃんに言ってみ?」と昔から変わらない頼もしい笑顔を向けてわたしの肩を抱いた。
 わたしの髪を姉が乾かしてくれて、両親に「上いるね!」と声をかけてから二人でわたしの部屋に入る。内緒話をするように最近あったことを話した瞬間、姉は「はあ?!」ととんでもない声量で叫んだ。体に、体に障るから、赤ちゃんびっくりしちゃうから! そう慌てたら「ごめん、落ち着く落ち着く」と頭を押さえて深呼吸した。こうなるだろうから言わないでおこうと思っていたのに。妊娠しているのだからなおさら。言わないほうがよかったかも、と後悔していると姉が「で、そいつなんて言い訳してんの?」と鋭い目つきでわたしのスマホを睨んだ。後輩彼氏くんから後輩くんになり、最終的にそいつに降格している。それに笑っていると「笑い事じゃないから!」と床をバンバン叩いた。

「姉としてはそいつよりも相談に乗ってくれたセミくんをおすすめする」
「瀬見とはそんなんじゃないんだってば~……」
「だって、はあ? 何回聞いても信じらんない。何そいつ。一発殴ってやりたい」
「落ち着いてよ、もう」
「かわいい妹がそんな目に遭わされたら落ち着いてらんないでしょ。病院で殴ってやればよかった!」
「警察沙汰になっちゃうから……」

 怖い。意外と怒ることがあまりない姉が瞳の奥をメラメラ燃やすように怒っている姿が素直に怖くて、わたしがたじろいでしまう。これは何があっても白布、会わないほうがいいやつだ。本当に殴られちゃう。わたしが苦笑いしていると姉は「今度の検査のときやっとくわ」と言うものだから困って困って。「自分たちの問題だから」と言えばどうにか握った拳は納めてくれたけど、憤りは簡単には消えない。ストレスは良くないってお医者さんも言っていたから落ち着いて。何度もそう宥めていると、姉はじろりとわたしを見た。こ、今度はなんでしょうか。ビクついていると姉がずいっと顔を近付けて「あんたはもっと自分をかわいがりなさい!」とデコピンされた。



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 翌日、木曜日。仕事始めの一日目は休みの間に溜まっていたファックスの確認とメールの返信、システム切り替えによるトラブル対応などに追われて息を吐く間もないほどだった。
 終業時間を迎えた社内、今年度に入社した新入社員の子たちも可哀想なのだけど残業が確定している。「ごめんね」と声をかけると新入社員のうちの一人、女子社員の子が首を傾げた。

「どうしてさんが謝るんですか?」

 心底不思議そうなその瞳にちょっと動揺してしまう。どうして、か。何の悪気も嫌味もないし、この子はそういうことを言う子じゃないから、ただの疑問だというのは分かる。でも、わたし自身、どうしてそれが口から出たのかよく分からない。へらりと笑って「もう少しわたしがちゃんとできていれば残業しなくてよかったからさ」と答える。わたしの指示出しがもっと的確だったら、わたしの説明がもっと上手だったら、みんなもっと早く作業ができただろうから。わたしの言葉に女子社員はさらに不思議そうにして「え、でも、さんは分からないところを丁寧に教えてくれるし、とてもいい先輩だなって思ってます」と言ってくれた。良い子。ちょっと泣きそう。他の子も「自分たちの作業が遅かっただけなので」と苦笑いをこぼしていた。
 なんだかその言葉たちに救われた気持ちになる。わたしが指導係で大丈夫なのかなって一年間ぼんやり不安だったから。わたしが教えてちゃんとこの子たちは立派な社会人になれるのかなって。でも、今の言葉でほっとした。大丈夫だったんだ。わたしがちゃんとしたからじゃなくてこの子たちがもともと能力が高いからだろうけど。肩の荷が下りたような感覚。笑い返して「じゃあ、もうちょっと頑張ってこっか」と言ったら「はい」と笑顔が返ってきた。
 デスクに戻ってパソコンの画面に目をやる。もうデスクにスマホは置いていない。どうせ鳴ったって出ないし、鳴ることもない。画面に映し出されているトラブル報告にだけ目を向ければ良いのだ。そう、思うのに。
 久しぶりに見た白布の顔を思い出している。ちょっと疲れた顔をしていた。顔色も悪くて、ほんの少しだけ痩せていた。仕事が忙しいのだろう。お医者さんになるんだから自分のことを大事にしなきゃだめだよ。そんなふうに思ったけどもちろん言わなかった。
 だめだ、考えないほうがいい。そうばしんっと自分の頬を叩いたら対面の席に座っている女性の先輩が「気合い入ってんね~」と笑った。もうそりゃあ。気合い十分ですよ。そんなふうに笑った。
 明日仕事に行ったら天童とご飯の約束をしている日だ。お昼に連絡が来ていた。土曜日のお昼に仙台駅に集合、と。楽しみだな。天童、会うのもう一年以上前が最後だった気がする。前にバレー部のみんなで天童が出演したテレビ番組を見たことを思い出してにこにこした。そのときにくれたチョコ、すごくおいしかったな。わたしが天童に作り方を教えてもらったのとそっくりな真っ赤なハートのチョコ。天童は「ちゃんにだけ特別だよん」と笑っていたっけ。そう、真っ赤な、ハートのチョコ。
 また思い出してしまった。何を考えても全部、白布に繋がってしまう。ムカつく。それだけわたしの日常には白布がいて、いつもいつもわたしの中を支配してしまっているのだ。それなのに、所詮その程度って。わたしのこと何も分かってない。白布はわたしのこと、本当に何も分かってないんだ。悔しくなってきた。

さんごめん~、これどこに入力するんだっけ?」
「……」
さん?」
「あっ、はい! すみません!」
「いや、こっちがごめんなんだけどさ~」

 急いで席を立つ。上司のパソコンを覗き込みながら「どれですか?」と聞いてみると、なんだかじっと顔を見られる。なんだろう。首を傾げると「目、赤いけど大丈夫?」と指摘される。うわ、最悪、恥ずかしい。慌てて目を擦りながら「ドライアイで」と笑っておいた。
 今日は日付が変わる前に帰宅できれば上出来だな。そう時計を見て思う。それなら白布に会う心配もしなくていいし、手っ取り早い。今日も実家に帰ろうかと思っていたけど普通にマンションに帰っても大丈夫そうかな。さすがに白布も仕事があるから来ないだろうし。そんなふうに思って、ほんの少し、視線を下に向けて時計から目をそらした。



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『え~……ヤダな~』
「そこをなんとか」
『だってそれ、俺がちゃんに怒られない? 俺ちゃんが嫌がることしたくないな~』
「かわいい後輩のためだと思って!」
『まあ話の流れは分かったけど、俺、完全に信じてはないよ? そんなのドラマもビックリなシチュエーションだもん』
「そうなんだけどな?!」
『嘘吐くタイプじゃないし本当なんだろうけど、それにしてもちゃん可哀想だなって感想』
「お前はそう言うと思ってたけど! ここは一つ!」
『エ~~~……まあ、ウン、連絡するね~~ん』
「恩に着る!」

「いや、なんで瀬見さんが恩に着るんですか。それ白布の台詞じゃないですか?」
「……あっ、マジじゃん?!」
「瀬見さん、お人好しすぎて後輩として心配になるんスけど……」
「それ言うなら川西もな。急に呼び出したのにありがとな」
「え~~もうそういうとこもですよ……というか白布いないんですけど?」
「昨日会ったときに顔色悪かったから呼んでないけど?」
「もうなんか怖いっスわ。壺とか買わされないように気を付けてくださいね、マジで」
「で、どうしたらちゃんと話せると思う? 前みたいにしても絶対だめだと思うんだよな」
「あー、それは簡単じゃないですか」
「マジで? どうしたらいい?」
「まあ犠牲者は増えますけど」
「は?」


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