翌日、駅で待ち合わせた姉に「どこに行くの?」と聞いてみると、なんだか言いづらそうに「病院」と言われた。びっくりして固まっていると、姉は「実は妊娠しててね」と言った。聞いてないよ! そう口をパクパクさせながら驚いていると、困ったように笑って謝られた。
 姉は子どものころに病気をして数回手術をしたことがある。今もたまに検査のために病院に行くことがあるのだけど、そんな姉が出産となると万全を期さなければならない、ということで大きい病院の紹介状を書いてもらったのだそうだ。わたしに言わなかったのもまだ初期だし、何かあったときに落ち込ませるだろうからと気を遣ってくれたのだとか。でも、旦那さんが海外出張に行ってしまっているし、一人でも事情を知っている人が多いほうが心強い。だからようやくわたしにも教えてくれたのだった。もっと早く教えてほしかった。そう拗ねたら「ごめんって」と苦笑いされた。ああ、なるほど、そうか。海外へ行く旦那さんがやけに「すみません」とわたしの両親に申し訳なさそうにしていたのはそのためだったのだ。今ようやく合点がいった。
 あ、と嫌な予感がした。待ち合わせた駅。正直、ついたときからとても馴染みのある駅だったから居心地が悪かった。その上、ここが最寄り駅の大きな病院といえば限られてくる、というか一つしかない。大学病院。白布の研修先だった。恐る恐る姉にどの病院に行くのか聞いてみると、何も知らない姉が「○○大学病院」と答える。やっぱり思った通りだ。ちょっと動揺してしまったけど、さすがにここで帰ると言い出せるわけもなくて。まあ、大きな病院だし会うことはないだろう。そう祈っておくしかなかった。
 駅から病院までは歩いてすぐ。受付で紹介状を出せばすぐに産婦人科のほうへ案内される。少し待ち時間があるかも、と言われて診察室前の長椅子に二人で腰を下ろす。姉がなんだか緊張していることに気が付いてちょっと驚いた。姉は緊張なんて滅多にしない人で、なんでもかんでも猪突猛進で突っ走っていくタイプだから、こういう姿はあまり見ない。不安だということがダイレクトに伝わってきた。わたしがしっかりしなくちゃ。そうきゅっと拳を握ってしまった。
 三十分ほど待って、姉の名前が呼ばれた。不安そうにしている姉に付き添って診察室に入る。優しそうな女性医師が資料を見ながら穏やかな声で話をしてくれた。姉が子どもの頃に患った病気のこと、それによって考え得る危険、もちろん出産の基礎知識もしっかり。わたしも姉の隣で妙に真剣に聞いてしまった。大変なんだな、子どもを産むというのは。そんなふうに聞き入った。
 姉は今日この説明を聞くのと一緒に簡単な検査を受けることになっているそうだ。検査には三十分ほどかかる、と言われたのでわたしは病院の入り口近くの待合ホールで待機することにした。先生から出産に関することが書かれたパンフレットと、入院になったときの説明が書かれたパンフレットを渡された。入院なんてしたことがないからどんな感じなのか不安で、椅子に腰を下ろしてパンフレットを開いてみた。
 パンフレットを見つつ、ちらりと受付や廊下を歩いている看護師さんに目を向けてしまう。ここで働いてるんだな、白布。はじめて来たしあんまりどんな病院なのかも聞いたことがないから知らなかった。大きい病院だとは知っていたけど、これだけ大きいとそりゃあやることは山のようにあるだろうし、大変な日々なんだろうな。慌ただしくしている看護師さんや先生らしき人。ちょっと呆気に取られつつ、視線をそうっとパンフレットに戻した。
 腕時計で確認すると、時刻は午後一時過ぎ。大体わたしに連絡を入れてくる時間帯だからお昼休憩に入っているのかもしれない。どちらにせよ、こんな広い病院なのだから見つかるわけがない。着信拒否にしてから静かなスマホを鞄から出して見てみたけど、白布からの連絡はなかった。代わりにメールで白布から着信があった、という通知が来ている。ちゃんと拒否設定ができているようだ。ちょっと安心する。こういう設定を使ったことがないからできているか心配だったのだ。瀬見の妹さんの教え方がうまかったから助かった。今度何かお礼をしたいな、なんて思ってスマホを操作する。

さん!」

 びくっと肩が震えた。今の、声。わたしが声が聞こえてきたほうに顔を向けるより早く、ガシッと肩を掴まれた。顔を上げたらもうそこに、白布がいて。スマホと財布を持っているところからして、今からお昼休憩のようだった。
 最悪。大きい病院だから会ってしまうことはないと踏んでいたのに、タイミングが悪すぎる。お昼って休憩室とかで取るものじゃないの。そう一瞬思ったけど前に白布が病院内にあるコンビニに行くことが多いと言っていた。コンビニは待合ホールのすぐ近く。コンビニに行くには待合ホールを通らなくてはいけない。失念していた。そう思いながら白布から目をそらす。
 やけに、焦っている声だった。どんな言い訳をこの数日間で考えたのだろう。お披露目できる日が来てよかったね。そんな言葉を内心で言うたび、なぜだかわたしが傷付いてしまう。あんなに好きだったのに。今も、こんなに好きなのに。どうしてこんなことを思ってしまうんだろう。それが悲しくて唇を噛んでしまった。

「あの、なんで、ここに」
「……白布に関係ないでしょ」
「いや、ありますよね? だって、その資料」

 何のことだかよく分からなくて思わず白布の顔を見てしまった。白布はとんでもなく焦った様子だけれど、その中に別の感情が少し混ざっているように感じた。照れているというか、なんというか。ほんの少しの違和感だ。
 資料。白布が言った言葉を思い出して持っているパンフレットに目を向ける。出産に関するものと、入院に関するもの。白布のなんだかよく分からない表情。それを掛け合わせてようやく気が付いた。

「……これ、お姉ちゃんの付き添いでもらっただけだけど」
「え」
「だから白布には関係ない。病院の人に見られてるよ。離れて」

 腕を振りほどく。姉の検査が終わるまであと十分ほど。困った。病院で騒がしくもできないし、白布も職場の人からいい目では見られないだろう。わたしが立ち去るのが一番手っ取り早い。姉には連絡を入れておけばいい。病院の外に行けば白布も簡単には追いかけてこられないはずだ。
 ほっとした顔をした。すぐに分かった。わたしが姉の付き添いと言った瞬間、白布の強ばっていた表情が解けたのが見えた。なに、それ。わたしがもし妊娠してたら困るから? あのきれいな人と一緒になりたいのに子どもができたら邪魔だから? それはそうか、わたしは白布にとって〝所詮その程度〟だったんだもんね。喉の奥ではまくし立てるように言えるけど声には出さない。ここで騒いでもお互い良いことはない。一応、それくらいの気遣いはできる。

「少しでいいので話がしたいです」
「わたしはしたくない。もう行くから」
「待ってください。本当に誤解で、」
「聞きたくない。ここで話されても困る」
「どこでなら聞いてもらえますか。今日家に行ったら会ってくれますか」

 苛立った声。白布、怒りんぼだもんね。わたしにはあんまりそういうところを見せたことはないけど、そういう一面は知ってるよ。高校の先輩だから。自分の話を聞いてもらえなかったり、説明を相手がなかなか理解しなかったりするとすぐイライラするところ、昔から変わらない。感情的になりやすい人が苦手だと言う割に自分が感情的だよね。話す内容はきっちり筋が通っているし、理論的だけれど。話す態度や聞く態度が感情的なんじゃ、どうしようもないよ。
 何かの音が響いた。そこそこの音量だったのでびっくりしていると、白布が持っている仕事用のスマホらしい。呼び出しの音なのだろう。ほら、早く行きなよ、仕事中なんだから。そう無言で白布に背中を向けると、白布は「今日、家行きますから!」と苛立ったままの声で言った。そう言われてわたしが大人しく待っていると思っているのだろうか。さすがにそこまで気を遣える都合の良い女じゃない。
 逃げるように病院から出てひたすら歩いた。姉に連絡を入れながら病院の敷地外まで出ておく。ここまで来たら何があっても追いかけてこられないはず。真面目だから、仕事を放り出してまでわたしを追いかけるような人じゃない。そういうところが、とても、好きだった。彼氏に自分を一番に優先してほしい、と言う女の子もいるらしいけどわたしはそうじゃない。仕事よりわたしを優先することがもしあったらとても怒るし、もやもやする。デートの約束をしている日に仕事の用事ができたら、すぐに仕事を選んでほしいと思っている。この仕事をするために頑張ってきた白布を知っているから。だから、会えなくても我慢できた。会えなくてもわたしは白布が好きだったよ。
 また思い出した白布の後ろ姿に、きゅっとスマホを握りしめる。二番でもいいから別れたくないって思った。気付かないふりをしていれば白布はわたしと一緒にいてくれるだろうと思って白布に言わなかった。でも、やっぱり、嫌だ。白布が違う女の人に触れるのも、名前を呼ぶのも呼ばれるのも、好意を持つのも。全部嫌だった。昔は見ているだけでよかったのに。好きだと一度でも言ってもらえた。短くても一緒に時間を過ごしてもらえた。高校生のわたしが知ったら「それでもう十分」なんて胸がいっぱいになるだろうに。いつからこんな欲張りになったのだろう、わたしは。冷たい風が髪を揺らすと、なんだかわたしが責められている気分になった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 さんは帰ってこなかった。恐らく実家にいるのだろうと思うけど、俺はまだ、さんの実家に行ったことがないしご家族に挨拶もしたことがない。場所も知らないんじゃどうにもできない。静まりかえっているさんの部屋にへたり込んで、深いため息をこぼした。
 あのとき無理やりにでも話せば良かった。ただ、さんが言ってくれたように指導係の人や顔見知りの看護師の人が俺とさんを見ていた。あの場で誤解を解こうとしたら俺はきっと冷静には話せなかっただろうから、きっとちょっとした騒ぎになっていただろうと予想ができる。さんはそれが分かっていたから話を聞こうとしなかったのだ。さんはそういう人だ。いや、まあ、別の理由もあるだろうけど。
 待合ホールにいる姿を見つけて、ようやく会えたと安心した。でも、さんが持っている出産に関する資料を見て、一瞬で全身から汗が噴き出したような感覚を覚えた。まだご家族にも挨拶をしていない上、あんな誤解までされている中でそうなのだとしたら、さんは一人でどんな顔をしてその結果を知ったのだろう。そう思ったら駆け寄っていた。
 そうじゃない、と分かってほっとした。将来そうなればいいと思うことも多々あるけど、何よりもちゃんとご家族に挨拶をしてからだし、そもそも結婚してからだ。今の俺では給料面や勤務形態からさんをちゃんと支えられない不安が残るし、何度も言うけどご家族に申し訳が立たない。さんのことを大事にしていない、いい加減な男だと思われることだけはしたくなかったから。だからほっとした。
 でも、さんが傷付いたような表情をしたのが分かった。特に、失言をした覚えはない、けど。今日に至るまでの自分の立場が悪すぎて言い切れないのがつらいところで。どうしてそんな顔をするのか聞きたかったけど、きっと答えてくれないのが目に見えたから聞けなかった。
 着信拒否にされているし、トークアプリでもどうやらブロックされたようで、正直お手上げだった。寝る間も惜しんで連絡を取ろうと足掻いていたけどもう為す術がない。どうしようもない、から、仕方ない。この手だけは使いたくなかったしこの人にだけは頼りたくなかった、けど。もうこれしか方法がない。唇を噛みしめながらアドレス帳を開く。あ、か、さ……さ、し、す、せ。押したくない。そう思いつつも無理やり指を動かして、電話番号をタップした。


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