白布の家に置いてある化粧品や着替えを、勝手に拝借した紙袋に詰め込んでいく。この紙袋もわたしが「何かのときに役に立つかもよ」と言って白布のクローゼットに入れておいたものだ。何かのときに役に立ったね。そう一人で笑ったら、すでにわたしの荷物を半分持ってくれている瀬見が「怖えよ」と苦笑いをこぼしていた。
 荷物を詰め終わって、部屋を出る。鍵を閉めてから郵便受けに合鍵をそっと入れた。吸い込まれていった鍵が落ちた音を聞いてから、くるりとドアに背を向ける。瀬見に「ごめん、付き合わせて」と言ったら「いや、マジで俺はいいけど」と言ってくれた。
 これからどうしようかな。家に帰るとわたしの家の合鍵を持っている白布に遭遇しかねない。実家に帰るとまた暗い感じになりそうだし、ホテルに行こうかな。そう悩んでいると瀬見が「ひとまずうち来るか?」と言った。さすがに驚く。瀬見に今彼女がいないとはいえ、それはちょっと、と言ったら瀬見は「片足突っ込んだ身だし気にすんな。妹もいるし」と続ける。瀬見の妹。それはちょっと、いやかなり興味がある。一緒に住んでいるのか気になって聞いてみると「絶賛家出中」と苦笑いをこぼす。年末に押しかけられて今に至るらしい。なにそれ、余計に興味ある。そう笑ったら瀬見もやっと普通に笑ってくれた。
 白布の家から引き上げた荷物を瀬見の車に載せてもらう。瀬見が「それにしても結構あるな」とドアを閉めながら言ったので「まあ二年分だからね」と返した。その瞬間、せっかく消えそうだったぽっかり空いた穴をまたなぞってしまった気がする。二年。二年かあ。もっと短かった気がするけど、わたし、二年も白布と一緒にいたんだ。あの日のバレンタインから。
 白布と過ごしてきた時間の何もかも、忘れないし、忘れられるわけがない。片思いだと思っていたそれが実ったのだから当たり前だ。嬉しかったことがたくさんあったし、たくさん恥ずかしい思いをしたりして、なんだか濃い二年間だったな。長い夢を見ていたのかもしれない。そんなふうに思ってしまった。



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「え、うっそ、彼女?!」
「ちげーよ、さっき連絡しただろ……」

 妹さんはなんだか緊張した様子で「えっ、えっ、彼女になる予定とかですか?」ときらきらした目でわたしを見る。う~ん、瀬見の妹さんって感じ。かわいい。そうにこにこしていると瀬見が「否定しろよ?!」と慌てていた。
 明るくて人懐こい。瀬見が女の子になったみたいな雰囲気の妹さんはわたしが持っている鞄を見ると「あっ、あたしもそのブランドのやつ持ってる!」と笑った。上がらせてもらってからも楽しくおしゃべりしてくれてほっとした。彼女でもなんでもない見知らぬ女がお兄さんの家に来たら嫌かも、とちょっと不安だったから。家主である瀬見を放ったらかしにして二人で盛り上がっていると、瀬見が「何か飲み物買ってくる」と出て行った。
 瀬見が出て行ったのを確認してから妹さんが「さん彼氏いるの?」とこっそり聞いてきた。答えに迷う。ちょっと悩んでから「いるような、いないような」と苦笑いをこぼすと妹さんは首を傾げた。そりゃそうだよね。でもちょっとタイミングが悪くて。そんなふうに余計に苦笑いをしてしまう。
 恋バナがしたかったらしい妹さんは、瀬見に彼女ができそうな気配はないのかとか自分の好きな人の話とか、いろいろ話した。女の子と盛り上がる恋バナはやっぱり楽しい。瀬見に彼女ができそうな気配があるかは知らないけど。そう笑ったら「つまんないな~おにい」とむくれていた。お兄さんのことより自分のことは? そうからかったら恥ずかしそうに「だって絶対振り向いてくれないんだもん」と呟いた。なんだかその顔が少ししょんぼりしていて。なんだか、高校時代のことを思い出した。わたしもそんな顔、してたかもしれない。見ているだけでいいなんて思おうとしてたけど、そうじゃなかったんだよね、きっと。そんなふうに懐かしくてこっそり笑った。
 瀬見が帰ってきたら妹さんと声を合わせて「おかえりお兄ちゃ~ん」と笑ってみた。瀬見は「俺に妹は二人もいない」と笑いながら飲み物を渡してくれる。何から何までごめんね、と言ったら「今は自分のことだけ考えろって」と言ってくれる。どこまで優しいんだ瀬見英太。そんなふうにからかったら妹さんが「本当に付き合ってないの?」と首を傾げた。瀬見がぎょっとしつつ「心臓に悪いからやめろ」と言うのでわたしも「ごめんね、瀬見だけはないの」と手を合わせる。瀬見が「ひどくねえ?!」と妹さんに視線を向けると「さん真面目そうだから、おにいはないよね」と笑った。妹さん、面白い子だ。ぼこぼこにされた瀬見が少し不憫だけど。

「今日の晩飯は」
「え、何?! どっか連れてってくれるの?!」
「なんと、寿司を取りました~」
「やったー! お寿司だ!」
「褒めろ、兄を讃えろ」
「お兄ちゃん素敵!」

 明るい兄妹だな。微笑ましく見ていると瀬見が「あ、って寿司大丈夫だっけ?」と聞いてきた。嫌いなものはほとんどないです。お寿司大好きです。そう笑う。なんか元気をもらえる。明日はきっと良い日になる。なんとか、そう思えた。
 そんなふうに思えたのに、スマホがさっきからうるさい。ずっと震えている。妹さんが気付いて「スマホ、鳴ってない?」とわたしの鞄を指差す。さっきちらっと見たら全部白布からの着信とメッセージ通知だった。どうせ今回もそれだ。「鳴ってるけどどうでもいいダイレクトメッセージだから」と返すと、瀬見だけなんだか気まずそうに目をそらしていた。

「え、うざくない? 拒否しちゃったほうがいいよ。あたし、そういうの全部拒否設定にしてる!」
「……確かにね」

 びくっと瀬見がちょっと反応したのが分かる。笑って「今度やってみるね」と言ったら「すっきりするよ!」と何も知らない妹さんがやり方を自分のスマホを操作して教えてくれた。
 妹さんがお手洗いに立ったタイミングで瀬見が「一応かわいい後輩でもあるから、あの、拒否だけはちょっと待ってほしいな~……と」と言いづらそうに呟いた。しないよ、今は。そう返したら瀬見は余計に気まずそうにしていた。



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 電話に出ない、し、家にも帰ってこない。さんの家の玄関に正座したままスマホを耳に当てていたが、諦めて電話を切ったのが十一時のこと。帰ってこないのはおかしい。実家に帰っているかもしれないし、俺が来ることを予見してホテルかどこかに行っているのかもしれない。分からないけど、今日はきっと家に帰ってこないだろうということはさすがに分かったから、自分の家に帰ってきた。
 どん底に落ちているような気持ちになりながら家の鍵を出して、鍵穴に差し込む。ため息を吐きながらドアを開けた瞬間、郵便受けの中からカシャンと何かの音がした。なんだ? 硬いものの音だった。石でも入ったのだろうか。不思議に思って郵便受けを開けた瞬間、何の音も聞こえなくなった。俺がさんに渡した合鍵。それ以外の何物でもなかった。
 しばらく固まってから、恐る恐るそれを手に取る。嫌な予感がした。その場に鞄を捨てて靴も捨てるように脱いで、部屋に急いだ。電気を付けてカラーボックスに近付く。一番下の段は、勝手に開けないようにしていた。彼女とはいえ下着とか、そういうのを勝手に見るのは気が引けたから。中のものを取って、と言われたときしか開けたことがない。それでも中に入っているものはそれなりに把握していたし、ここにこっそりプレゼントを入れて驚かせたこともある。開けてそれを見つけたとき、すごく嬉しそうにはにかんだ顔がかわいかったことを、思い出した。
 迷わず開けた一番下の段には、何も入っていなかった。埃の一つも入っていない。もともと何も入っていなかったですよ、と言い出しそうなほどに空っぽだった。カラーボックスを開けっぱなしにしたままふらふらと立ち上がって、洗面所に行った。ミラーキャビネットの中に俺は歯ブラシとか歯磨き粉くらいしか入れていなかった。がらんとしたスペースを見て「ここに化粧品入れてもいい?」とはじめて聞かれたとき、なぜだかとても嬉しかったことを覚えている。断る理由なんかなかったしむしろ入れておいてほしい。「どうぞ」と言ったらにこにこしながら自分の化粧品を入れていた横顔。それを思い出しながら、扉になっている鏡を掴んだ。開けたそこには、もう何一つ、物は残っていなくて。俺のものの隣に並んでいた歯ブラシもなかった。恐る恐る洗面所のごみ箱を見てみると、歯ブラシだけそこに捨てられていて。
 ファミレスを出るとき、太一が言った意味がようやく分かる。「そういうとこ鈍いよな」。太一はさんが俺の家に向かって、荷物を持ち出すことを予想していたのだろう。つまり、太一から見てさんがそうすることが明白だったのだ。俺はそんなこと微塵にも予想できなかった。鈍い。女心が全く分からない兄貴のようにはならない、と心に誓っていたのに、結局は俺も同じだった。
 驚くほど、何も残っていない。唯一残っていたのは俺が買った色違いの箸と、俺が渡した合鍵だけで。さんはどんな気持ちで、どんな表情で俺の家から荷物を持ち帰ったのだろう。そう思ったら手の中に残っている合鍵をぐっと握りしめてしまう。本当に、まずい。自分が言った言葉が全部跳ね返ってきている。なんであんなこと言ったんだ、俺。なんでちゃんとさんの話を聞こうとしなかったんだよ。今更後悔しても遅いけど。
 休みは明日で終わってしまう。明日、どうにかさんと連絡を、取りたい。気持ちだけが焦ると何度も何度もメッセージを入れたり着信を入れたりしてしまう。でも、そうしていないと、どうしようもなくて。
 そんな中でスマホが鳴った。すぐに画面を見たけど、またしてもこういうタイミングで兄貴からだ。クソ、本当に、今はお前の名前だけは見たくない。こうなったのは全部お前ら夫婦のせいだからな。そんなふうに責任転嫁をしてしまう。舌打ちをこぼしながらメッセージを確認すると「タブレットいつ購入すればいいでしょうか」と来ていた。今はそれどころじゃない。しばらく連絡してくんな。そう返信したら「え、ひどくない?」とすぐに返ってきた。


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