――回想 白布賢二郎、八日前のクリスマス

 さんからの返信は朝の八時すぎにあった。出勤前なのだろう。「返せなくてごめんね。寝ちゃってた」と汗マーク付きの返信に笑いがこぼれる。やっぱり。でも安心した。寝ていたのならしっかり睡眠が取れたということだ。今度会ったときは元気になっていたらいいな。そんなふうに思いつつ「いってらっしゃい」と返信しておいた、のが朝の出来事。
 現在時刻、夜九時すぎ。七時くらいからそろそろさんが退勤するかもしれない、と少し期待していたがスマホは鳴らない。まあ、残業が確定しているからとは言われていたけど、少し残念に思う自分がいた。いや、さんが悪いわけでもさんの会社が悪いわけでもない。働くことは生きる上で必要なことだ。無下にはできない。仕方のないことだ。そんなふうに自分に言い聞かせる。俺だって日頃忙しくてさんを優先できないことが多いし。お互いタイミングが合わないだけ。仕方ない。
 一つ息をついた瞬間、スマホが鳴った。どきっとしつつバッとスマホに顔を向けて、一瞬で気持ちが冷める。クソ、お前からの連絡は誰も待ってねーよ。舌打ちをこぼしてしまいつつスマホを手に取る。兄貴からの着信。なんだよ急に。ここ最近連絡なんて取ってなかったのに、なんでよりによってクリスマスに連絡してくるんだよ。新婚のくせに。散々頭の中で文句を言ってから、仕方なく出てやった。

「何」
『賢二郎! ごめん! 助けて!』
「嫌だけど」
『話だけでも聞いて!』

 相変わらずギャンギャンうるさい。スマホを耳から少し離して「なんだよ」と聞いてやると、ぐずぐず泣きそうになりながら話し始める。なんでもつい二時間ほど前、奥さんと喧嘩したらしい。クリスマスに何してんだよ。白布家は揃いも揃って女心が分からない野郎ばかりだ。兄貴も例外ではない。どうせ些細なことで怒らせた上に地雷を踏んだのだろう。容易に想像できた。俺はこうならないように気を付けないと。
 兄貴の奥さんは派手めな美人で強気なところがある。喧嘩をするとすぐに手が出るらしくて、今回も兄貴の顔面を思いっきりぶん殴って家を飛び出ていったそうだ。ざまあみろ。ちょっと笑ってやると「笑い事じゃないってばあ」と情けない声で言った。

『○✕駅って賢二郎の家から近いだろ?!』
「だから何」
『奥さんが△✕駅か○✕駅、もしくはその周辺にいるから迎えに来られるもんなら来てみろって言ってるから、賢二郎○✕駅行ってくれない?! 俺△✕駅行くから!』
「じゃあな。お疲れ」
『お願いだってば! 行ってくれたら賢二郎が前に買おうか迷ってた新しいタブレット、俺が買うから!』
「マジで? 言ったな?」
『言った言った! 一番容量大きいの選んで良いから!!』

 今使っているやつ、容量があまりないからろくに動画も見られなくて困ってたんだよな。さんと映画を観ようとしたらブツブツ切れて観られたもんじゃなかった。買おうか悩んでいたし、ちょうどいい。たまには役に立つ兄貴だ。
 ○✕駅はちょうどさんの家の最寄り駅だ。たぶんさんが俺の家に来ることはない時間帯だし、俺がさんの家に行けば顔くらい見られるかも、と思っていたところだ。行ってタブレットが無料で手に入るのだから行かない選択肢はなかった。
 卒業祝いにさんがプレゼントしてくれたコートを着て、スマホと財布だけ持って家を出た。一応スマホを確認したけどさんからの連絡はない。そろそろ残業が終わっていてもおかしく時間だ。とりあえず「お疲れ様です。仕事終わりました?」とだけ連絡を入れておく。これで終わったら連絡をくれるはずだ。
 それにしても兄貴、たぶん、これ俺が行くと余計に奥さん拗ねるやつだぞ。分かってねえな。そんなふうに思いつつ教えてやらない。タブレットのためだ。奥さんには悪いけど。奥さんも俺が来たら一瞬でどういう状況か察するに違いない。はじめて会ったときはギャルっていうか、なんていうか。俺が正直苦手な感性で生きるタイプの人だと思ったけど、関わってみるととんでもなく頭の回転が速かったり、すぐに人の嘘を見抜いたり、怖いくらい頭が良い人だと知った。女の人はみんなそうなのかもしれないけど。ただ言えるのは、今まで出会った女性の中で断トツで怖いのは今のところ、俺の中では兄貴の奥さんだ。
 うちの最寄り駅から○✕駅へは四駅。電車に乗り込んですぐに到着した。駅前は結構賑やかなところなのだが、いかんせん風紀が若干乱れている。ラブホテルが数件あったりそういう店がこっそりあったり。前にさんは家への近道がある、とか言って細い路地を歩いているなんて話をしていた。ただでさえ風紀が乱れていると言われているところだ。人気のない路地を歩いているなんて知らなくて、思わず怒ってしまったくらいびっくりした。そのときに「絶対一人のときは歩かないでください」と言ってある。さんはちょっとびっくりしていたけど「ご、ごめん、気を付けるね」と言ってくれた。たぶん今はその路地を歩かないようにしてくれているはずだ。とはいえ、大通りを歩いてもラブホテルだのそういう店だの、あまり宜しくない気もするけど。たまに客引きが鬱陶しかったり、女性に声をかける男もいるけど、人気があるだけマシだ。
 夜十時前。土曜日の今日は飲み屋へ向かう人などで人が多い。この人混みから兄貴の奥さんを探すのは至難の業だ。ここにいるかも分からないというのに。兄貴曰く「薄着のまま飛び出してったから心配で」とのことだった。薄着の女性。そう辺りを見渡していると「ねえ大丈夫~?」とチャラついた男の声が耳に突き刺さった。「なんか泣いてるじゃん、さっきから」と続いた声に反応する。泣いている。注意深く声のほうを目で辿っていくと、男数人がラブホテルの前に立っていた。そのあと「コート貸してあげよっか? それかここ入る?」と笑っているのが妙に気になった。
 人混みが一瞬はけた瞬間「げ」と思わず声が出た。いた。兄貴の奥さん。想像以上の薄着だし、なんでわざわざラブホテルの入り口でしゃがみ込んでんだ。そんなふうに呆れつつも、声をかけないわけにもいかず。ふらふらと近寄って、取り囲んでいる男どもに声をかけた。
 案外話せる相手で助かった。そそくさと歩いて行った男たちを見送って一つ息を吐く。仕方なく兄貴の奥さんのコートをかけてやりつつ「送っていきます」と声をかけたら、バッと顔を上げた。化粧ぐちゃぐちゃですけど。内心そう思ったけど、まさか口には出せなかった。

「なんで賢二郎くんなの」
「いや、俺に言われても」
「なんで賢二郎くんなの!」
「あの、泣かないでもらっていいですか。あと酒臭いんですけど」

 ぎゅっと腕に抱きつかれた。やめてくれ。誤解される。そんなふうに思うが振り払えない。一応あのクソ兄貴の面倒を甲斐甲斐しく見てくれている希有な人だ。俺の両親もいたくこの人のことを気に入っているから下手に扱えない。困った。そんなふうにため息をついたら「ため息ついた!」と余計に泣かれた。
 この様子だと周りの迷惑になってしまうから電車には乗れない。仕方なく一応タクシー乗り場に向かって歩きつつ、貸したコートのポケットからスマホを出した。兄貴に電話をかけるとすぐに出て「いた?!」と半泣きの声が耳に突き刺さる。

「いた。酒飲んでねえなら車で来い」
『ごめん、しっかり飲んじゃってる!』
「今度会ったら殴るからな」
『ありがとう! 本当にありがとう!!』

 舌打ちをこぼした俺の手から、奥さんがスマホを奪い取った。マジで勘弁してほしい、落とされたらたまったもんじゃない。取り返そうとしたが奥さんは案外しっかりしていた。スマホを耳に当てるととんでもない声量で「もうこのまま賢二郎くんと結婚しちゃうもんね!」と言って、勝手に通話を終了させる。いや、勝手に何を。ちょっとげんなりしていると、奥さんは涙を拭いて「ごめんね」と少し笑った。

「あいつ、鈍感すぎて嫌になるんだもん。困らせてやれたからすっきりした」
「白布家のせいとはいえ巻き込まないでほしいんですけど」
「それはごめんって。でもありがとね。あいつのいいところはいい兄弟がいることだね~」

 けらけら笑う。付けまつげをピッと取ると「はー、最悪。ぐしゃぐしゃじゃん」と呟く。自分のズボンのポケットを漁り、なぜだか化粧品をいくつか出すと鏡も見ずに直し始める。歩きながら。すごすぎる。特に何も言えないままだが、さすがに、腕は離してほしい。「腕だけ離してもらえますか」と言うと奥さんはちょっとびっくりしたような顔をした。それからすぐ「もしかして、賢二郎くんって彼女いる?」と言った。
 俺に彼女がいることを知っているのは白布家では一番下の弟だけだ。他のやつには教えたら絶対ろくなことがないから教えていない。聞かれたからには答えるしかなく「います。なので離してください」と言えばすんなり離してくれた。そのあとすぐ「え、ごめん。クリスマスじゃん、よかったの?」と聞かれる。元々会えないことを説明すれば奥さんは自分のことのように寂しそうな顔をして「えー、そうなんだ」と苦笑いをこぼした。寂しいね、と。そうですね、正直、寂しいですね。素直にそう言ったら明るい笑顔で「うちでチキンとケーキ食べていきなよ」と言った。いや、本当に勘弁してください。

「もしかしてこのコート、彼女からのプレゼント?」
「そうですけど。なんで分かるんですか」
「賢二郎くんにしてはかわいい色だな~と思ったんだよね」

 「でもすごく似合ってた。いい彼女じゃん」と言われて、少し照れる。でも、まあ、本当にそうですよ。ぼそっと返したら「ベタ惚れじゃ~ん!」と余計に笑われた。あまり大きな声で話さないでほしい。まあ、そうなんですけど。どうすればいいのかよく分からなくてタクシー乗り場の椅子に奥さんを座らせてから、ただただ相槌を打つことに専念した。
 酒を飲んでいた兄貴はタクシーでこちらへ向かうと言っていた。奥さんが指定したもう一つの駅、△✕駅はここからは結構離れた駅だ。ちょうど兄貴の家の最寄り駅を始点として、正反対に同じだけ電車に揺られると△✕駅につく。奥さん、ただの嫌がらせだな。そのせいで俺は巻き込まれているんですけど。そんなふうに内心思ったけど、まあタブレットを買ってもらえるなら百歩譲って許す。さんが観たがっていたネット限定のドラマも観られるし。そう自己完結しておく。
 さん、そろそろ帰ってこないかな。まだスマホに反応がないから連絡は来ていないし、やっぱり今日は会えないだろうか。まあ、今日会えなくても明日がある。そう思っても、やっぱり。クリスマスとかそういうイベント事に興味はないと思っていたけど結局俺も普通の人間だな。浮かれている。そんなふうに恥ずかしくなった。
 二十分ほど奥さんと話をして、ようやくタクシーが目の前に停まった。必死の形相で兄貴が転がり出てくると「もう! 心配しただろ!」と無理やり奥さんを抱きしめる。いや、俺のコート。死んだ目で夫婦の再会を見ていると、兄貴がようやく俺を視界に入れた。

「賢二郎、本当にありがとう! うち来てチキン食べてけよ」
「うるせえ。行かねえよ。じゃあな」
「賢二郎くん遠慮しなくていいよ? シャンパンもあるよ?」
「マジで勘弁してください。寄るとこあるんで」
「あ、彼女の家だ?!」
「ちょっと待って賢二郎彼女いるの?! お兄ちゃん聞いてないんだけど?!」
「二度とくだらねえことに巻き込むなよ。タブレット買うから金だけそのうち寄越しに来い」

 吐き捨てつつ奥さんからコートを受け取る。代わりにコートを貸しながら兄貴が「ちょっと! 彼女のこと詳しく!」と叫んだが無視。奥さんも「彼女さんによろしくね~!」と大声で言った。迷惑だろ、すげー見られてんだけど。勘弁してくれ。げんなりしながらタクシー乗り場を通り過ぎる。
 兄貴の奥さんに貸したコートが香水臭い。しかも甘い匂いのやつ。そもそも香水の匂いが大体好きじゃないというのに、その上苦手な匂いだから思いっきりため息がもれた。さんがつけているものには何も思わないのに。匂いがつくならさんのがよかった。そうは言ってもあの場面で貸さないわけにはいかなくて。これ、大事なコートなんですけど。内心で文句を言っておく。
 万が一化粧品でもついてたら兄貴にクリーニング代を請求してやる。コートに汚れがついていないか見つつ、さっきポケットに入れたスマホを取ろうとして「あ?」と声がもれた。何か入っている。スマホと財布以外入れてないのに。身に覚えのないそれを引っ張り出すと、深いため息がもれた。口紅。絶対奥さんのだ。念のためにふたを開けて見てみれば真っ赤だったから確定だ。さんはこんな真っ赤な口紅は使わない。いつもかわいいピンクとかオレンジっぽい色だ。まあ、こういうのも似合うと思うけど。そう思いながら仕方なくポケットにしまっておく。そのうちなくしたことに気付くだろう。どうせ兄貴にタブレットを買わすのだ。そのときに渡すか。そんなふうに思いながら。
 さんの家はここから歩いて大体十分くらいだ。夜遅いと危ないから、と言っても残業があると歩かないわけにはいかない。本当はもっとまめに連絡を取りたいけど負担になるかもしれないからなかなかできずにいる。
 それにしても今日も連絡がまだない。また寝落ちしているのだろうか。スマホを見てみるけど通知はないし既読もついていなかった。システム移行とやらはそんなに大変なことなのだろうか。一般企業に勤めた経験がない俺にはよく分からないが、さんが大変そうにしているのだからそういうものなのだろう、としか言えない。
 とはいえ、二日連続はさすがに気になる。寝ているかもしれない、とは思ったが思い切って電話をかけてみた。もし起きてしまっても明日は日曜日だ。さんは許してくれる、はず。さんの家に向かいながらスマホを耳に当てるが出る気配がない。まだ仕事か? もう結構な時間になるけど、たまにさんは残業で日付が回ることもある。何とも言えないまま電話を切った。
 それから程なくして到着したさんの家。電気はついていなかった。もらった合鍵を使ってドアを開けても静まりかえっていて。いつも仕事に行くときに履いていく靴もない。一応部屋に入ってみたが、やはりまだ帰ってきていなかった。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




――回想終了 現在

「いや、普通に考えて、信じてもらえないかなって感想なんだけど」
「本当のことなんだから仕方ねえだろ……」

 俺より悩ましげに頭を抱えて太一がため息をついた。ため息をつきたいのは俺だ。そう俺もため息をつくけど、もちろんため息をついているだけでは事態はどうにもならない。参った。本当に、参った。
 夕方五時前のファミレス店内はがやがやと賑やかになってきた。人の話し声も笑い声も雑音にしか聞こえない。コップに入っている氷が溶けて動き、カランと鳴る音でさえも耳に刺さるようにうざったい。
 聞いてくれれば、しっかり言葉を尽くして説明した、のに。そんなふうにさんに責任を押しつけようとしてしまう自分に腹が立つ。俺がさんの様子が変だと気付かずにいたのがあまりにも不甲斐ない。でも、やっぱり、聞いてほしかった。どうして俺に詰め寄ってあの女は誰だと言ってくれなかったんだろう。それがよく分からなかった。

「……白布、泣く?」
「……泣かねえよ」
「どうすんの。一気に劣勢になったというか、普通に白布の過失だと思うんだけど?」
「連絡する」
「出ると思うか~? 出てくれないと思うけどな、俺は」

 太一がそう頬杖をついて苦笑いをこぼした。俺もそう思う。思う、けど。連絡しないなんて選択肢はなかった。ひとまず電話をかけてみたが太一が言う通り出ない。メッセージを入れてももちろん既読は付かない。瀬見さんの車でどこ行ったんだ。家に帰ったのだろうか。とりあえず席を立つと太一も「どこ行くの?」と言いつつ立ち上がる。「さんの家」と答えると、太一は「白布って頭良いのにそういうとこ鈍いよな」と笑った。なんでだよ。そう聞いたけど太一は意味を教えてくれなかった。


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