「え〜最悪かよ、俺白布側についちゃったじゃん……」

 机に突っ伏して太一がそう嘆く。さんが叩き付けたお札をノールックで握ると俺に渡してきた。なんで俺に渡す。そう無言で拒否しているのに、無理やり俺の手の上にそれを置こうとしてくる。そのまま「マジなの?」と言って、お札から手を離すから受け取らざるを得なかった。
 まったく身に覚えがない。完全思考停止だった。でも、さんがあんなに感情を剥き出しにしているところははじめて見たし、泣きながら笑っているところなんてさん以外の人でも見たことがない。理由もなく怒る人でも、泣く人でも、こちらを責める人でもない。だからこそ、俺の脳みそは完全に動きを止めている。心当たりがなさすぎて。

「さすがにフォローできないわ。ぶっちゃけめちゃくちゃショックなんだけど」
「……心当たりがない」
「でも何かあったからさんは言うんだし、よく思い出せって。あ〜もう俺……さんのこと責めたみたいになってたじゃん……」

 思い出せと言われても心当たりがないものはない。そんな俺に太一は大きなため息をこぼしながら言った。相手の女性をきれいだと言ったこと。会っていた場所がラブホテルだと言ったこと。クリスマスの日だと言ったこと。さんが何かを見たことに間違いはないし嘘を吐く人でもない。太一はそう言ってようやく顔を上げた。

「白布がそういうことするやつじゃないって思ってるのは本当だけど、言っても男だし魔が差した可能性は無きにしも、って感じなんだけど?」
「ねえよ。そもそもラブホに入ったことがない」
「マジ? さんとも?」
「そんなところに連れて行きたくない」
「そんなところって。結構面白いけどな〜」

 そんな話はどうでもいい。クリスマス。ラブホテル。きれいな人。びっくりするほど心当たりがなくて何も言えない。クリスマスはさんと会えなくてへこんでいただけだったし、さんの家に行ったくらいで何もしていない。ああ、ちょっとしたトラブルはあったけど。
 見間違えた、というのが一番可能性としては高い。さん、結構うっかりしてるところがあるし仕事で疲れていたのだろう。たぶんそうだ。というか、それ以外に考えられない。
 クリスマスの日から、ずっとそれに悩んでいたのだろうか。俺に直接聞けばいいのに、なんで聞いてこなかったんだ。聞いてくれたらちゃんと話したし、俺はそんなことをしていない。こんなことにならなかったのに。なんでだよ。しかも瀬見さんに相談なんかして。そうぐっと拳を握った。

「あれ、賢二郎だ」

 不意に聞こえた声に顔をあげると、大学生の弟がイヤホンを外してこちらを見ている。恐らくバイト帰りだろう。この辺りがバイト先だった気がする。声かけてくんじゃねえよ。そう睨み付けると「え、すげームカつくんだけど」と笑われた。三男のことを知らない太一が不思議そうにしつつも「ちわー」も軽く声をかける。三男は「どーも。賢二郎の弟です」と外向けの笑顔を作っていた。
 三男は勝手に席に座りつつ「すげーグッドタイミング。賢二郎、兄貴にタブレット買わす約束してんだろ?」と言った。諸々あってそういう約束はしている。情報を掴むのが相変わらず早くて呆れた。古いほうをくれ、と言うのだろう。前々から買い替えたら教えろとうるさい。別にあげてもいいのだが、何かとちゃっかりもらいものをするタイプなのでなんとなく癪なのだ。そんな俺のことはスルーしたまま「タダとは言わないから」と値段交渉をはじめた。
 今それどころじゃねえよ。後にしろ。そううんざりしていると三男が思い出したような顔をしてスマホをポケットから出した。

「そういえば賢二郎って彼女いたんだな。見ちゃった〜」
「は? いつ?」
「クリスマスの夜。ちょーラブラブだったじゃん。賢二郎ああいう感じなのな。引いたんだけど」
「はあ? クリスマスの日会ってねえよ」
「えーでも賢二郎だったし。◯✕駅の近くにあるラブホの前。ほら」

 「証拠写真」と三男がにやりと笑ってスマホを見せてくる。証拠もクソも。会ってないんだから俺なわけないだろ。そう呆れていると「ちょっと失礼」と太一がスマホを覗き込んだ。それから一瞬間を置いて「うわ、終わったわこれ」と言って苦笑いをこぼして頬杖をついた。なんだよ。本当に身に覚えがないんだけど。どうせ人違いだろ。そんなふうに思いながら覗き込むと写真には俺の後ろ姿、と腕を組んで歩いている女性の後ろ姿がはっきり写っていた、けど。いや、お前。馬鹿かよ。

「お前そろそろ覚えろよ……兄貴の奥さんだろうが、これ」
「え、そうだっけ? 奥さん髪切ったのかな〜。つーかやめろよ兄弟間で不倫騒動とか……引くわ……」
「ちげーよ。喧嘩して飛び出してったから探すの手伝えって言われて仕方なく迎えに行っただけ」
「ラブホから出てきたじゃん」
「軒下で蹲ってたのを拾っただけ。入ってねえよ」
「えーそうなんだ。中から出てきたみたいに見えたし、腕組んでたしクリスマスじゃん? 絶対彼女だって思ったのになー」

 なーんだ、と言って三男はつまらなさそうにスマホをしまった。結婚したばかりとはいえそろそろ顔を覚えろ。お前、奥さんのこときれいだって楽しそうにしてただろうが。兄貴の奥さんは確かに美人だから三男も四男も最初はちょっと緊張していたのを思い出す。奥さんは人懐こくてすぐに白布家に溶け込んだし、元々距離が近い人なのかよく抱き着こうとしてきたりさっきの写真みたいに腕を組んできたりとやりたい放題なのだ。だから、こんなふうに誤解され、て。

「で、タブレットいくらでくれんの? 一万じゃだめ?」
「…………クソ」
「は? 一万以上って言うならとりあえず一回殴り合いになるけど?」
「タブレットはやる」
「え、マジで?! 賢二郎がそんなこと言うの珍しいじゃん!」
「その代わりさっきの写真寄越せ。それからデータ消せ」
「いいよ〜。別に持ってても何の旨みもないし」

 上機嫌にスマホをまた取り出して素早く操作する。すぐに俺のスマホが反応して、三男が「はい、消した。見て良いよ」とスマホを渡してきた。こういうところはしっかりしている。チャラついた弟だがなんだかんだで要領は良いし、頭も悪くない。損得勘定が過ぎることもしばしばあるからちょっと呆れるけど。
 「タブレット絶対だからな」とにこにこと薄気味悪いくらい機嫌良く席を立つ。三男は太一に「じゃ、お邪魔しました~」と頭を下げて、奥の席へ歩いて行った。先に友達が入っていたらしい。それを見送ってから「賢三郎はじめて見たわ~」と言った。賢三郎じゃねえよ。いや、それは今どうでもいい。

「心当たりがないとか仰ってましたよね、白布賢二郎さん」
「…………」
「○✕駅だっけ? さんの生活範囲だったり?」
「……家の最寄り駅」
「ビンゴ~。ご愁傷様です」

 軽い拍手。ご愁傷様に拍手は合わないだろ。ツッコむ気力もない。頭を抱えて項垂れると太一が「結構なこと仰ってましたねえ、賢二郎くんよ」と苦笑いをこぼした。
 三男が送ってきた写真をもう一度確認して、分かりやすく冷や汗が出た。煌々と下品に光るラブホテルの看板。明らかに腕を組んでぴったりくっついている男女。こんなの、兄貴の奥さんだと知らない人が見たら、完全に男女の関係に見える。それ以外の何でもない写真だった。
 ちょっとしたトラブルだった。でも、そんな事情を知らない人から見れば、この様子でラブホテルから歩いてきたら、そういうことの後なんだと思われて仕方がない。しかもクリスマスの夜。逆にそういう状況以外に思う人などいないだろう。
 指先が冷たくなっていることに気が付く。まずい。完全に俺の失態だ。こんなのさんがあんなふうに言うのも仕方ないだろ。本当に何もないとはいえ、状況証拠は十分だ。こんなの、本当に、さんからすれば。〝その程度だったのは、わたしのほうでしょ〟。さんの声が頭の中で響いて、ふと思い出した。
 クリスマスの二日後の月曜日。さんはどんな気持ちで俺に抱かれたんだろうか。痛いんじゃないかと心配になるくらい唇を噛みしめていた。いつも恥ずかしくて言ってしまう、俺が言わないでほしいと言った「嫌」とか「やめて」とかを一度も口にしなかった。不自然なほど、さんは、何かに耐えていた。今更そんなふうに思った。
 俺のことを黙って見ていた太一が「まあ、とりあえず経緯をどうぞ?」と小さくため息をついた。


top / 11.あの日に帰りたい