実家に帰って自分の部屋から一歩も出ず、無気力なまま二日間を過ごした。あけましておめでとう。一人でぽつりと呟いた年明けは、ひっそりとしたものだった。寝転んだままぼうっとしている。何か考えようとしてもいまいち頭の動きが鈍い。良くない年明けだ。そんなふうに枕に顔を埋めた。
 家族には体調が悪いから部屋で休む、と言ってある。心配してご飯を部屋まで持ってきてくれたり話しかけに来てくれたりしていたから申し訳なくて。もう寝るね、と嘘を吐いて部屋の電気を消している。全く眠れない。眠ると、嫌な夢を見そうだったから。
 何も考えられなくなっていて、ただただぼうっと時間が過ぎていくのを待つだけ。友達や会社の人からのメッセージにも返事ができていない。まさに無気力。もう何をする気も起きなかった。
 早く仕事始めにならないかな。そうすれば何かをしなくちゃいけない理由ができる。待ち遠しかったはずの正月休みが心底嫌いになっていた。
 家族から散々心配されてしまうので、一日の夜にはリビングに下りた。下りてきたわたしを見て母が「大丈夫?」と心配してくれた。父も姉も。申し訳ない。せっかくのおめでたいお正月に娘がこんなんで。そう笑ったら家族も笑ってくれた。
 翌日、一月二日のお昼ころに実家を出た。このまま暗い気持ちを隠しているもしんどくて。わたしが家を出て行くときに姉がにやにや笑って「あの後輩彼氏くんによろしくね~」と言った。それに少しだけ間を開けてから「うん」と笑顔で言っておいた。むなしい。そんなふうに思いながら。
 実家の最寄り駅に向かってただただ歩く。冷たい風が顔にぶつかって少し目を閉じてしまう。寒い。一月なんだから当たり前か。そんなことしか考えられない。

「あ、さんだ」

 そんな声が聞こえて思わず立ち止まる。顔を右に向けると、ジャージを着た男の子がわたしに手を振っていた。ちょっと固まってから、あ、と思い出す。白布家の末っ子くんだ。白鳥沢学園のバレー部に入っているから今は寮生のはず。わたしの実家は白鳥沢から近い。どうやらこの辺りは末っ子くんのランニングコースらしいことを察した。
 前に一度、白布の家にいるときに末っ子くんと鉢合わせたことがあった。末っ子くんは白布にとても懐いていて、家にちょこちょこ遊びに来るとそのときはじめて知って驚いたっけ。仕方なくといった様子で白布が紹介してくれて、ちょっと仲良くなったのだ。それから数回会ったけど、しばらく会っていなかったな。でも、タイミングが、ちょっと。そう苦笑いをこぼしつつ「久しぶりだね」と返しておく。

「賢二郎は? 一緒じゃないんだ?」
「うん。実家から帰るところだよ」

 白布家は四人兄弟だそうだ。一番上のお兄さんのことを兄貴と呼び、他の兄弟たちはそれぞれ名前で呼ぶシステムを取っていると教えてもらったことがある。末っ子くんが「賢二郎、最近会ってないんだよ~」と拗ねたような声で言う。お兄ちゃんが好きな弟、というのはかわいいものだ。そう微笑ましく思っていると「行ってもいいか聞くと、いっつもさんが来るかもしれないからだめって言うんだもん」とちょっと恨めしそうにわたしを見た。それは、知らなかった。ごめんね。素でそう返すと末っ子くんは笑って「さん良い人だからいいよ!」と言った。どうやら許してくれるらしい。かわいい。また微笑ましい気持ちになる。

さんって賢二郎のどういうところが好きなの?」
「えっ」
「え~教えてよ~」

 白布と同じ血が流れているとは思えないほど無邪気だ。そんな失礼なことを考えながら考えるふりをする。白布と少し似ている顔がにこにこしているのがなんだか違和感。ちょっと笑いそうになってしまった。

「……頑張り屋なところ、かな」
「あ、分かる。俺も賢二郎のそういうとこ好き」

 誇らしげに笑った。それからすぐに「あ、やば、戻んなきゃ。さんまたね!」とぶんぶん手を振って走って行く。元気。高校生ってあんなにきらきらしてたっけ。なんだか懐かしい気持ちになってしまった。
 頑張り屋なところ、好きだよ。ずっと尊敬してる。たまに心配になるけど本人が突き進んでいくから応援したほうがいい気がして、いつもまっすぐ歩いて行く背中を見ている。でも、突き進んでいく背中を見ていたらたまに、置いて行かれるような感覚を、覚えることもあるけど。白布は、立ち止まってわたしを振り返る瞬間なんて、あったのだろうか。



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




『巻き込まれてやけどするのが目に見えてるんで、マジ勘弁してください』
「お前しかいないんだって! 白布俺からの電話出ねーんだってば!」
『いやいや、俺だって仲を取り持ちたい気持ちはありますよ? 一応片思いしてるときのこと知ってますし、あのもだもだ期も知ってますしね?』
「なら!」
『え~……だって白布怒るとすげー怖いじゃないですか……とばっちり食らう未来しか見えないんですけど……』
「そこをなんとか!」
『天童さんは? 天童さんならノリノリでやってくれるじゃないですか』
「あいつ来週の土曜じゃないと帰国してこないんだって!」
『タイミング悪~~』
「とにかく絶対白布連れ出して来いよ?! いいな?! 先輩命令だからな?!」
『ちょっとミッションの難易度が高すぎて……』
「午後四時、仙台駅前のファミレスだからな! いいな?!」
『うわ~まだ死にたくないな~』
「頼りにしてるからな、川西太一!」
『ところで話の概要は教えてくれないんですか? 何が起こるのかさっぱりで怖いんですけど』
「それはちょっと、ごめん」
『え~……怖……』



▽ ▲ ▽ ▲ ▽




 帰宅してすぐ、瀬見から連絡があった。話したいことがあるから会いたい、というメッセージにどうしようか悩む。正直今は誰とも会いたくない、けど。瀬見のことを巻き込んでしまった罪悪感はある。断りづらくて「少しなら」と返信した。迎えに行くから三時半くらいまでに準備しといて、と言われて了解しておく。三時半。割と時間がない。もうこのままでいいや。かなりくたびれているけれど。
 ぼけっとしている間にすぐ時間が経つ。瀬見からの着信。出てみると「ついた」というのでのっそり立ち上がって部屋を出た。ちゃんと鍵をかけてとぼとぼマンションの廊下を歩いて行く。話って何だろう。この前のことだろうけど。でもあれ以上どうすればいいんだろう。迷惑だから白布の誤解だけ解いてくれ、とか? そう考えてすぐに首を横に振る。瀬見はそういうやつじゃない。ごめん。誰にでもなく謝ってしまった。
 車に乗ると瀬見は苦笑いをこぼして「顔、すごいぞ」と言った。ここ数日ろくに寝ていないし食べてもいない。へらりと笑って「寝正月だったから」と返したら瀬見は「いや、違うと思う」となんだか困ったように言った。
 どこに行くのかと思えば、仙台駅前のファミレスだと言うので首を傾げてしまう。仙台駅まで行かなくてもファミレスなんて近くにあるのに。何か用事でもあるのかと思ったけど、結構な被害者である瀬見にそれを聞くのも悪い気がして。わたしのせいで悩ませているのだからとことん付き合えるところまで付き合おう。そんなふうに思った。
 駐車場に車を停めると、瀬見が先に車から降りた。わたしもゆっくり降りると、瀬見が窓から店内を伺っているところだった。何してるの? そう首を傾げたら「いや、なんでも」とはぐらかされる。よく分からないけど、まあ、瀬見の好きにしたらいい。それ以上追及はしなかった。瀬見が店内に入ると、店員さんが「二名様ですか?」と声をかけてきた。二人、なのに。瀬見はがしっとわたしの腕を掴んでから「先に連れが来てます」と言う。連れ。その言葉とわたしの腕を掴んだ力の強さに、嫌な予感がした。

「あ、瀬見さ~ん。マジで大変だったんで今度奢ってください」
「分かった分かった! ありがとな!」

 川西の声。もうそれだけでどういう状況なのかを察してしまう。瀬見に引っ張られて歩きながら顔が上げられない。瀬見の足下を見たまま歩いていると川西が「お久しぶりです」と声をかけてくる。久しぶり。そうカスカスの声で返して、少し視線を上げたら、窓側に座らされている白布が、不機嫌そうに外を見ていた。
 瀬見に引っ張られて川西の前に座る。川西は飲み物を飲みながら「身を挺して頑張ったんで褒めてください」と遠い目をして瀬見に言った。自分が通路側に座ることで白布が帰れないようにガードしていたのだろう。瀬見は「頑張った頑張った」と雑に褒めつつ、通りがかった店員さんにドリンクバーを注文した。

さんなんか痩せました? というかなんか体調悪いですか?」
「……大丈夫」
「あの、先に言っとくんですけど、俺まるで状況分かってないんでお手柔らかにどうぞ~」

 川西のそんな声のあと、シン、とテーブルが静まりかえる。そんなわたしたちの様子に川西は少し固まったあとに「わあ、とっても帰りたい」と言った。
 誰も話し始めない空間に痺れを切らしたのは瀬見。「結論から言うと、と俺は本当に何もないから」と言った。それを聞いた川西が思いっきりむせる。ゴホゴホと苦しそうにする隣で白布は、聞こえなかったのかと思うほど無反応だった。

「え、何、待ってください。予想以上の修羅場なんですけど」
「だから違うんだって。勘違いだから」
「俺、同輩なんで白布側についちゃうんですけど、何もないのにここまでへそ曲げないと思うんですよね」
「そうは言われても本当に何もないんだって」

 瀬見がそううんざりしたように言いつつ、状況をようやく説明した。川西はそれをとりあえず黙って聞いてから、ちらりとわたしを見た。白布の味方についているのは分かっている。わたしが、瀬見に相談した内容を知らないから。瀬見はそのことは自分から話すべきではないと判断したようで言わなかった。だから、どうしてわたしと瀬見が二人で会っていたかを白布も川西も知る由もない。知らない人からすればわたしが白布を裏切ったように見える状況だから仕方ないのだ。

さんと瀬見さんがそういうことする人じゃないとは思いますけど、その情報だけだと白布がこうなるのは仕方ないかな~って感じ、ですけど?」

 瀬見じゃなくてわたしに言ったのが分かる。川西の言葉に白布が視線だけわたしに向けたのが見えた。何、その目。内心そう思ってしまう。
 喋らないわたしの代わりに瀬見が「だから、理由があって」と話し出そうとした。それを川西が「いや、いま瀬見さんに聞いてないですね」と遮ってから、わたしの顔を覗き込む。「さんに聞いてるんですけど、どうですか?」と言った。ちょっと申し訳なさそうな顔で。責めてすみません、と言い出しそうだ。

、もうあれ言ったほうがいいんじゃないか?」
「あれ、とは?」
「いや……俺の口からはちょっと……」
さん、今それ話せることですか?」

 ガン、と重たい音がした。白布だ。テーブルを拳で叩いた音だった。「もういいだろ」と低い声で呟いてちらりとわたしを見る。「何も話さないんじゃこうしてても無駄だし、何か言い訳されても見たままが答えだろ」と言って川西をどかそうとしはじめる。川西は「今話さないと絶対あれだって」と言ってどうにかその場に留まっているけど、それも時間の問題だろう。
 白布が舌打ちをこぼした。呆れたようにため息をついて、わたしのことを睨む。

「口では何とでも言えるし、所詮俺はその程度だったってだけだろ。もういい」

 その瞬間、自分でも信じられないくらい一瞬で腹が立った。熱湯を全身に浴びせられたみたいにピリピリして、呼吸をするのを惜しむほどのとんでもない衝動のようなものが体中に走る。その程度だった、って、それ、わたしの台詞なんだけど。俯きがちだった顔を上げる。まっすぐに白布を見ると、白布は、なぜか驚いたように目を丸くしていた。隣の川西も同じく。自分が泣いていることに気付いたのはそのすぐあとだった。涙とかどうでもいい。勝手に出ただけだ。別に悲しいとか寂しいとか悔しいとかじゃない。そんなんじゃない。恐ろしいほどシンプルに、怒りがこみ上げてきたのだ。
 忘れもしない。クリスマスの夜十時頃。きれいな女の人と腕を組んでラブホテルから出てきた白布の後ろ姿。夢に何度も出てきたから忘れたくても忘れられなかった。だから、ここ最近ずっと眠れなかった。白布のコートについた甘い匂いが漂ってくる気がしてろくに呼吸もできなくて、白布のコートのポケットに入っていた口紅の赤が目に痛くてたまらない。なんで、って何度も言いかけては飲み込んだ。聞いたら白布がすべてを肯定してしまうかもしれないって、怖かったから。黙っていればこのまま一緒にいてくれるかなって思ったから、ずっと言わないように堪えてきた。二番でもいいって思った。それでも、ずっと頭から何もかもが離れなかった。あの人は白布にとって何? そう聞きたくて仕方なかった。でも、離れたくなくて、聞かなかった。それなのに、その程度だった、って言った?
 ぎゅうっと握りしめた拳。伸びた爪がちょっと刺さったような感覚があって、痛かった。でも、そんなものより、違うところが痛くてたまらない。震えるわたしを見た瀬見が「、とりあえず、深呼吸」とあわあわしながら声をかけてくる。それから「白布、お前な」と呆れた声で言った。でもそのあとの言葉は言わない。わたしが言わなきゃだめだと思っているのだろう。そんなわたしと瀬見を交互に見つつ、白布と川西は固まって何も言わない。ゆっくり呼吸をしたら瀬見がわたしの背中を軽く摩ってくれた。

「その程度だったのは、わたしのほうでしょ」
「……は?」
「見たよ。楽しそうだったね」
「……いや、なんですか? 話が見えないんですけど」
「きれいな人とラブホテルで過ごしたクリスマス、楽しかった?」

 一瞬で空気が凍ったのが分かる。川西が瞬きも忘れて固まって「え」と声を漏らした。それからすぐに白布に顔を向けると「え、お前、マジ?」と声をかける。

「待ってください、何の話ですか。 身に覚えがないんですけど」

 困惑している声。バレた、って動揺しているんだろう。そう思ったら笑えた。その程度だったんじゃん、わたしは。ろくに会えないし一緒にいても楽しくない女でごめんね。きれいな人と仲良くね。ラブラブで羨ましかったよ。そうまくし立てるように言って鞄から財布を出す。机にお札を叩きつけて、瀬見の腕を掴んだ。「え」と瀬見が慌てながら自分の鞄を掴むと「え、何、帰るのか?」とどうしようか迷っている。瀬見には頼みたいことがある。このまま一緒に帰ってもらえると助かるんだけど。そう笑って言ったら「あ、ハイ」と返事があった。
 「ちょっと」と白布が川西を押しのけて出てこようとするので、「川西」と声をかけた。川西は「ハイ、動きません」と白布の両腕を掴んでくれた。よろしい。なんか、今、すごく精神が強くなった気がする。もう白布なんか知らない。わたしとさよならできたらあのきれいな人とちゃんとお付き合いできるもんね。よかったね。
 瀬見の腕を引っ張ってファミレスを出た。瀬見は終始「あの、さん?」と恐る恐る声をかけてきた。そんな瀬見に住所を伝えて車で向かって、とお願いした。瀬見は「それは全然いいけど」と言いつつ車に乗り込み、カーナビに住所を入れる。操作しながら「何の住所?」と聞いてきた。

「白布賢二郎の家」
「…………お、おう……ちなみに目的は?」
「荷物の引き上げ。ごめんだけど手伝ってもらってもいい?」
「あ、ハイ。もちろん」

 車がファミレスの駐車場から出て行く。どんどん離れていくとなんだか、もう、きっと戻れない気がしてふつふつと切ない気持ちがこみ上げてきてしまった。どうでもいいと思ったはずなのに。どうでもいい、なんて、やっぱり思えなくて。自然と視線が下を向く。瀬見はたぶんそれに気付いていたけど気付かないふりをしてくれていた。優しいね。そうこっそり笑ってから、静かに涙を拭った。


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